145 変哲もない人
極めて、その空間は速かった。
そこでの一日は、外での一時間。他の世界を置き去りにする速度で時間が流れるのだ。
中の時間にして、既におよそ七日。
囚われたクロノの傷はおおよそ完治し、もう問題がない状態であった。
だが、動けない。
空間そのものが枷になったかのような、凄まじい拘束力。
どれだけ力を荒ぶらせても、びくともしない。
何らかの術に縛られていることはすぐに理解し、七日間、試せることは全てした。
それでも、現状は変わらない。
詰みという言葉が、頭から離れない。
コレを作り出した者の執念が、クロノを捕らえて離さない。
緻密な術式の跡は、嫌というほど見せつけられる。
他の皆はどうなったか。
同じように捕らえられたか。
この後、いったいどうなるのか。
思考がぐるぐると回る。
環の端が無いように、巡りめぐって終わりがないネガティブだ。
何しろ、あらゆる策が通じない。
力業も、小手先の技も、全て先回りして潰される。
見えない敵の執念深さが、目を瞑っていても見えてくる。
これまでにない気味の悪さを覚えた。
そう、気味が悪いのだ。
格上と相対した時、いつも言葉にならない恐ろしさを感じた。
例えば、『神父』の権能は、幾千万という信徒の祈りと、最も『神』に近い存在として生まれたために備わった力が合わさったもの。
例えば、アインの武は、『星』に刻まれた記憶を読み取り、技を汲み上げ、合わせ、磨いた、濃くも長い鍛練の末のもの。
端的に言えば、高度すぎて理解できないのだ。
だが、クロノはこの敵の凄まじさを、言葉で表すことができる。
たった一言。
そこに、全てを乗せることができる。
執念
用意周到に、仕掛けられている。
ならば、クロノの仲間がどう扱われるか。
不安に苛まれる時間が、とても長い。
言葉を交わせないということが、こんなにも苦しいのかと気付かされる。
そして、
「よう」
突如現れた何者かの顔に、クロノは見覚えがあった。
ある日、海の底で会った敵である。
当時戦ったのは、かの敵の分身体であった。
目の前に居るのは、やはり分身体なのだろうか。
敵を前にしているが、感じるのは威圧感ではない。赤髪の男は、ごく自然とそこに居るだけの風体である。
身体が動くのであれば、大きく距離を取り、抜剣していた。
今は、暗澹たる想いを募らせるのみだ。
不用意な接近を許してしまう。
「気分はどうだ? 『神の子』」
「…………」
「言われなくても最悪か。ま、オレ様には関係ねぇ。約束を守って、来てやったぜ」
川の中に投げ込まれた石は、着水の後に沈み、底へ到達する。
かき乱された泥は、水中を舞う。
記憶は、かくのごとく思い返される。
確かにソレは言っていた。『次に会うときは本体で』と。
あまり、生気を感じない。実力を隠し、察しきれないのであれば、それは彼我に大きな差があることの証左である。
クロノは、固く結んだ口を解かない。
瞳をもって、疑念を投げ掛けるだけである。
「卑怯、なんてガキみてぇなこと言ってくれるなよ。まさか、聖者を相手にしてるなんて思ってなかったろ?」
「…………」
「オレ様は、悪の組織の大幹部。やれることはなんでもやるぜ」
不敵に嗤う男は、本人の言う通り、悪の組織の幹部らしい。
老獪なる敵であることは、知っていた。
あの『神父』を上回る席次を持つ、教団の幹部である。
遥か格上であることは、事前情報から明らかだ。
「戦場で油断してたお前の落ち度だ。残念だったな! こうなりゃ、終わりさ」
「…………」
「動けねぇだろ? それに、お前、目が良いらしいな? オレ様を見通せるか?」
あらゆる秘密を暴くクロノの目は、現在、その機能を停止していた。
いや、それだけではない。
魔力も、『神気』も、何もかも。あらゆる機能が、使えない。
誰の仕業かは、考えるまでもない。
「オレ様の勝ちだな。お前の力より、オレ様の力が上回った!」
いつでも、どうとでも出来る。
きっと、拘束されていなくとも。
その自信が、男をこうも堂々足らしめるのか。
現状が愉快で仕方がない様子だ。
「『神気』の研究は、死ぬほどしてきた。お前を縛る術式は、その集大成だ」
何もない空間であるかのように思えた。
その場所が、虚無のみでなくなったのは、男が指を鳴らしてからである。
青白い光が溢れ、幾何学を描く。
目が痛くなるような緻密な書き込みが、無限に広がっていく。
とても高度な術式だが、断片的に『吸収』や『転化』などの式は読み取れる。
よほど、自信があると見える。
全身が隙だらけで、気を抜いている。
「だから、今のお前は手足を縛られた、ただのガキさ」
すると、挑発的な態度に陰が差して、
「あの優男が、こんなガキに負けるとはな。今となっても信じられん」
「…………」
「あのバカ。死んだら、なんも意味ねぇだろうが」
そこには、クロノには計り知れない何かがあった。
脆く、崩れ落ちそうな部分だ。
それは、明確な敵の弱点と言える。
だから自然と、クロノはそこに触れたくなる。
「……大切に思っていたのか?」
「ようやく、口を開いたか」
待っていました、と言わんばかりだ。
相対することを待ち望んでいたように見える。
もう少し具体的に述べるのなら、飽いていたのだろう。
黙っていることが出来ない人種なのかもしれない。
不適に嗤う男の顔の裏には、敵意だけではないものを感じる。
悪の道に生きる者としては、なんとも隙が多く見えた。
「仲間が、大切か? 人を、思いやる心があるか?」
「良いことだ。黙ってても、何にもならん。建設的な話し合いをしたかった」
「お前は、なんで、教団の使徒をしている」
男に、なんの変化も見られない。
動揺や怒りを引き出すつもりのクロノを、見透かすようだ。
顎を上げて、見下す視線を送る。
よろしくするつもりは、なさそうだ。
「何故、か。『神父』から、聞かなかったか? オレ様たちは、自分の目的のために集まった」
「お前は、何が目的だ?」
「世界への反逆さ」
曖昧、抽象的なナニカ。
男の心に触れるには、まだ距離がある。
遠くはあるが、これは近付けるものだ。
途中に崖や山はないものだと、クロノは信じていた。
「反逆?」
「オレ様が奪われたもんを、奪い返すため」
クロノは、『神父』の記憶から、それぞれの使徒の能力が、各々の研究のプロジェクトに関連していることを既知としている。
この男の扱う概念は、時間。
挑む禁忌は、時間の遡行となるはずだ。
「過去に、戻りたいのか?」
「その通り」
悪びれもせず、動揺もせず。実をありのままに受け止める。
度量の大きさは、とにかく知れた。
どうすれば揺さぶれるか、それだけをクロノは考える。
「一度や二度、あるだろう? あの時のことをやり直したいって」
「ある。だけど、そんなの……」
「あり得ない。だが、だからするのさ」
クロノは、男に折れない芯があることを感じた。
少なくとも、心に隙があるとは思えない。
迷わないことの厄介さは、知っている。
正しさも、間違いも、等しく知っていながら、迷わない。
「そのために、何人殺してきた?」
「たくさん、だ」
「それだけの価値があることだと?」
「もちろん」
鬼畜に成り下がることの覚悟なぞ、クロノは知らない。
ただ、自分を貫き通す覚悟があるのだろう。
そちらはよく、知っていた。
「…………」
「まあ、落ち着けよ。オレ様は、話をしに来たんだ」
あくまで、男は平坦だった。
必要なことを必要なだけ、試みる。
自然体で、当たり前で、当然だった。
「握手、はできないか。オレ様はライオス。できれば、よろしくしたいんだ」
まるで、兄貴肌の好青年のような笑みを浮かべた。
作ったものではなく、男の本質が浮かんだだけのなのだろう。
「お前を男と見込んで、頼みがある」
目の前の男が、怪人とはとても思えない。
むしろ、クロノが見てきた人物の中で、最も自然な男だった。
悪の組織の大幹部とは、こんなものかと。
思えば、これまでにない人物だった。
人の話をきちんと聞き、自分の意見を慎重に提案し、押し通すことをしない。場を用意して、やり取りを重視する。
大それた人物には思えない。
称するならば、
「なあ、オレ様に協力してくれないか?」
クロノの知る者の中で、最も普通な人間が、ライオスという男だったのかもしれない。