赤い悪魔
「霧、そなたも知っておる通り、眷属を吸血鬼にするには最低でも成人を待たねばならぬ。だが、見ての通り今は非常時だ。余が必要とするのは出来る限り強い力を持った戦力なのだ。聡いそなたであれば言いたいことは分かるな?」射干玉は突然言った。
「お言葉ですが、陛下。僕ごときが眷属から吸血鬼と変化したところで陛下の仰る戦力には到底なれないと存じます。今暫く機会を待った方が宜しいかと…。」冗談じゃない。何が引き金となって始祖として覚醒するか分からないのにそんなことが出来るか。
「余はそなたに意見を求めた覚えはない。動くなよ。」後ろは壁だ。霧は避けられずに射干玉に咬まれた。「ウッ。酷い味よの。」射干玉は顔をしかめるが、霧はそれどころではなかった。何と美味しそうな生き物だろう。今なら簡単に引き裂ける。口内に唾が溜まった。霧は射干玉に攻撃して当たりそうになる直前で理性を取り戻した。攻撃は壁に鈍い衝撃を与えた。
「ひとまず成功かの。これを呑むが良い。」射干玉が放ったのは当然人間の血液だ。その香りには全く食指が動かない。しかしここでこれを呑まなければ自分が吸血鬼ではないと自白しているようなものだ。仕方なく少し口に含んだ。
それは拷問のようだった。反射的にむせて吐き出した。センブリ茶にデスソースを掛けてそれを腐らせたような取り敢えず毒だと思わせる風味がずっと口に残る。射干玉はがっつくなと言うとそれ以上追求しなかった。誤魔化せたのか?
気分が悪くなった霧は気を失うように眠った。目が覚めた時には身体が動かなかった。金縛りかと思ったが違った。両手と両足を鎖で縛られている。気付かれたのか。いくら吸血鬼より強いかもしれないとはいえ、これは大変だ。
聴覚を研ぎ澄ますと射干玉が電話しているのが聞こえた。
「…確かだ。あれは始末せねばならぬ。…そうだ。急げ。」射干玉は慎重な性格だから今すぐ一人で霧を殺す気にはなれなかったようだ。そうは言ってもここが包囲されて霧が殺されるのは時間の問題のようだった。霧は入口に這っていくと壁に掛けられている上着のポケットから射干玉の血を取り出した。眷属時代に渡されたものだ。
その蓋を開けて中身を呑むには根気がいったが、どうにかやり遂げた。これだ。甘露のような極上の味だ。体中に活力が満ちるのが分かる。霧は易々と鎖を引き千切った。外に出てもどうしたらいいのか途方に暮れていた。追っ手が掛かるに決まっているし、本当は朝に助けを求めるのが最善策なのだろう。しかし、その手の平返しはしたくない。
電話ボックスの中でぼんやりと考えをまとめようとしていると、指が無意識のうちに楓の電話番号を回していた。世話になったから、最後に別れを言うだけだ。自分に言い聞かせて楓が出るのを待った。
「もしもし?」この時ほど楓の声が美しく響いたことはなかった。
「僕だよ。別に用があるわけじゃないけど、少し…遠くに行かないといけなくなったからさ。声が聴きたくなっただけ。じゃあね。」ここで問答無用で切れば良かったのに返事を待ってしまった。
「待って。何があったの。様子が変よ。相談してよ。」霧は早くも後悔していた。優しい声を聞いたら一層別れが辛くなってしまった。楓が大変な目に遭うと分かっているのに傍に居て欲しいと願ってしまう。
「霧、お願いよ。」
「ありがとう。実は厄介な事態になったんだ。本当は僕…。」そこまで言ったところで背後に覚えのある気配を感じた。追っ手がもう来たのか。霧は慌てて受話器を置いた。なんて馬鹿な真似をしたんだろう。楓に電話したことが知られてはいけない。
霧はある場所に向かった。追っ手にはまだ気付かれていない。このまま辿り着けるかと思ったところで別の追っ手と鉢合わせした。しまったと思った時には超音波で仲間を呼ばれていた。霧はその吸血鬼を気絶させたが、手遅れだった。すぐに周囲は追っ手に取り囲まれた。
「真祖様がお呼びだ。同行願おう。」一人を気絶させたのに交渉から入るのは立派だ。勿論霧は即座に断った。
霧はすぐに自分が所謂覚醒した状態であることを悟った。昨日までの自分と桁違いに力がみなぎってくる。うっかり大怪我を負わせないように神経を使いながら戦っていると知らず知らずのうちに押されていた。どうやらこの追っ手は生死に関わらず連れてくるように命じられているらしい。
数が多すぎる。おまけにこっちは覚醒後、僅かばかりの血しか口にしていない。早くも疲労で動きが鈍くなっていく。傷の治りが遅い。霧はバランスを崩してよろめいた。脇腹に鮮烈な痛みが走った。もう駄目だ。この人たちには悪いが、食欲を抑えられない。
霧が荒い息をしながら目の前の吸血鬼を睨むと、霧の祈りが通じたように追っ手は突如撤退した。霧は仮面を着けた。犬の鳴き声が聞こえたからだ。昴がいる。この状態では一般人のふりは出来ない。しかしこの傷では戦えない。
やはり昴だった。シリウスの散歩をしていたらしい。霧を見るなり朱雀を起動させた。霧は気力を振り絞って臨戦態勢に移った。
昴は近付くことなく攻撃してきた。霧は必死に武装した。衝撃に備えたが、昴は霧に届く前に攻撃を消し去った。霧の前にはシリウスが立ちはだかった。霧は昴の顔を見た。これは完全に気付いている顔だな。逆にここまで来て気付かなかったら心配になるくらいだが。
霧は仮面を外して昴と目を合わせた。霧島桧は昴と仲が良かったから、一度くらい見逃してもらえるかもしれない。それに期待する以外にこの場を切り抜ける方法がない。霧は自分の身体を舐めそうになるシリウスを払い除けた。スマイリーの二の舞になるのは御免だ。
「桧君、君は吸血鬼だったのか?」
「本名は桧山霧です。騙していてすみませんでした。ですが先日まではただの眷属でしたよ。それと、いつも義兄がお世話になっています。」昴は未だショックから立ち直れない様子だ。
「貴方の優しさに付け入るようで申し訳ないのですが、今回だけ見逃して頂けませんか。今説明している余裕がありませんが、朝に訊いて頂ければその判断が間違っていなかったと思えるはずです。絶対に人を襲うことはありませんから。」
案外昴の心は揺れているように見えた。朝の名前を出したのが良かったのかもしれない。まさか同僚の義弟を殺すわけにはいかないのだろう。特に少なからず会話したことがある上にまだ目立った悪事を働いていない場合は。
「俺は何も見ていない。今日は非番だし、此処にはシリウスの散歩に来ただけだ。行け。シリウスに免じて見逃そう。」昴は下唇を噛んでいる。
「この御恩は忘れません。辛い決断を迫ってすみませんでした。」霧は深々と頭を下げた。血を付着させないよう細心の注意を払ってシリウスを軽く撫でた。
霧はフラフラとした足取りである場所を目指した。早くしないとまた追っ手が戻ってくる。そうしたらもう水の泡だ。気力だけで動いていた。傷口から垂れる血で道案内する羽目に陥らないようにしっかりと止血してある。
霧は一軒の民家の前で立ち止まった。慎重に辺りを見渡すとインターホンを鳴らした。
「どちら様でしょうか。」初老の女性の声だ。
「武尊の友達です。霧と言います。」ドアが開いた。上品な雰囲気の女性が現れた。女性は霧を家の中に招き入れた。
「霧、その傷はどうした?今血を持ってくる。」
「待ってくれ。その前に話がある。最後まで聞いて欲しい。」武尊は深刻な話だと理解してくれたようだ。霧は自分の正体が始祖であること、今は吸血鬼に追われる身であることなどこれまでの経緯を一通り説明した。
「そういうわけで、僕は今吸血鬼の血が必要なんだ。でも僕本人でさえ始祖の生態が分かっていないから、強制はしない。断られたら大人しく帰るから。武尊、君の血を少し貰えないか?」そう口にしながらも武尊は断らないであろうことを予感していた。
武尊は棚からいつも使っているようなグラスを取り出すと、一切の躊躇なく指先を切って血をその中に注いだ。霧は武尊に襲い掛かって咬み付きたい衝動と戦わなければならなかった。武尊はグラスを渡した。
「ありがとう。僕が血を呑む間は別の部屋に移動してもらっていいかな。」武尊はそれに従った。霧は一気に呷った。射干玉の血のように強烈な旨味があるわけではなかったが、渇いた唇を心地よく湿らせた。生き返るような味わいだ。霧は自分の傷口が癒えるのを実感した。この場に武尊が居なくて良かった。鏡に映っている霧の姿は全面的に真っ赤な眼球で鋭い牙からは毒と思われる液体を滴らせている。醜悪な見た目だ。
霧は落ち着くのを待って武尊に礼を言いに行った。武尊も異常がないようで一安心した。これで武尊の身に万一のことがあったら悔やんでも悔やみきれない。
「本当にありがとう。僕はもう行くよ。」追っ手がこの家を見付けたら武尊も厄介なことになる。何処か遠くに行かないと。
「おい、どうせ行く当てなんてないんだろ。此処にいろよ。せめて数日したら追っ手も減るかもしれないだろう。」それもそうだ。今出て行ったらそれこそすぐに吸血鬼に出くわす。そうなると怪我が治ったのは誰かが匿ったという証明になる。
「でも、これ以上迷惑を掛けるのは…。妹さんもいることだし。」丁度婦人が現れて兄さんの友人ならいつまででもいて良いと言った。霧は他に行く当てもないので厚意に甘えることにした。
霧はすぐに自分が人間の枠組みから完全に外れたことを自覚した。まず食事や睡眠が必要ない。正確に言えば不要というものではなく、出来ないのだ。食品は勿論、水を飲んでも吐いてしまう。味の問題ではなく、身体が受け付けない。地上に元々存在しているものは取り入れられない。吸血鬼という存在は自然界に元々あったわけではない。
その後気付いたのは、自分は人間を吸血鬼に変えられるということだった。吸血鬼が人間を仲間に引き入れるときと違って、何か手順が必要な訳でもない。両界の境界と二つの存在を隔てる障壁が明白に見えている。その壁を超えるのに向こうからは特殊な力がいるが、此方にいる者が引き込むのは息をするように簡単で理屈など要らないのだ。
霧の食事は吸血鬼より頻度が低い。吸血鬼が週に五百ミリリットル程度を必要とするのに対し、始祖は一口呑めば最低でも三日は持つと分かった。これならば相手の血を全て呑む必要はない。しかし戦った際の消耗するスピードはとても速い。
「霧君、兄さんから電話よ。」婦人は霧に受話器を渡した。
「お前の友達を自称する楓さんっていう吸血鬼がお前に会いたいって言っているが、追っ手か?」楓に武尊の情報を喋りすぎたな。僕を探してくれたのは嬉しいけど、これで折角向こうの世界にいられるようになったのに、また追われる身になったな。
霧は武尊に楓と代わるように頼んだ。電話口から聞こえる声は間違いなく楓のものだ。
「霧、何で私には一切相談しないでこの人には全部話して助けてもらっているのよ。私は信用出来ないって言うの?」そのまま放っておくと一日中でも愚痴を言いそうだったが、武尊は無理に電話を奪ったみたいだ。
「聞いての通り正真正銘の友達だよ。信用出来る味方だ。」武尊は楓を家に連れ帰った。楓の目は赤く腫れぼったくなっており、霧を見るなり平手打ちした。霧は別段驚きもしなかった。電話口のあの剣幕を見る限り相当ご立腹のようだったから。
「もうあのまま会えないかと思った。二度と大切な人を見送りたくないの。絶対に黙って何処かに行ったりしないで。」取り乱す楓を何とか宥めて現状の確認をした。末端の吸血鬼には霧が指名手配されている理由までは明かされていないようだ。
「気持ちはありがたいけど、君は帰ってくれよ。裏切者だと思われる。」霧が話せば話すほど楓はむきになって弁じた。霧が一人で楓を助けた話を持ち出されると弱かった。
「それは初耳だな。詳しく聞かせて貰おうか。」武尊に食いつかれた。武尊と楓は話に花を咲かせた。結局楓もいつくことが決定した。何だかんだ危機感の薄い三人は楽しく日々を送っていた。その背後で着々と問題が進行していることに気付かずに。
桧山朝は計画が完全に裏目に出たことに気落ちしていた。彼なりの言い訳があって、確かに場所を通報したのは事実だが、極力吸血鬼を害さないように指示していたのだ。V計画が大詰めを迎えており、その被検体に生きた吸血鬼が必要だと言う事情があったのだ。
朝は研究者でもあったので、直接Vに携わってはいないが人造吸血鬼を生み出すような研究をしていることは知っていた。その実験に使われている人物は警察の捜査が入りにくい薬物中毒者であることも。彼が知らなかったのはその人々に投与されたのが『始祖』である霧と『真祖』である射干玉の血を混ぜ合わせた、制御可能な範囲を超えた代物だということだけだ。
朝がその事実を知った時には既に計画は最終段階に入っており、到底一職員に止められる段階ではなかった。即座に責任者に危険性を訴えたが、何分始祖のデータがなかったため、取り合ってもらえなかった。朝は証明のためにその血の入手経路を辿った。霧の血は朝が調査用に提出したサンプルだった。射干玉の血は十年前の戦いで切り落とした腕から採取したものだった。両方純度も高く、保存状態も良い。朝の不安は募った。
クビになることを恐れなければ実力行使でどうにか実験を延期させることは出来たが、朝はそれをしなかった。その理由はあまりに元となる血が濃すぎるために被験者が実験に耐えられないと思ったからだ。不謹慎だが、人が死ねばもう一度本格的な調査から始めるはずだ。
朝は実験に立ち会った。研究者としてではなく、万一のことがあった際の保険として呼ばれたのだ。結論から言えばそれは甘すぎた。薬を投与された人々は殆どがすぐに死んだ。しかし一部の人は苦悶の表情を浮かべつつも死ぬ様子はなかった。朝は麻酔薬をすぐに投下するよう進言した。中の人々が見るもおぞましい異形と化していくのを見て流石の融通が利かない連中も実験室に麻酔を投下した。赤い皮膚と巨大な爪と牙、人の三倍はある体格に焦点の定まらない目。これが成功でないことは誰にでも分かった。
三体の化物は一向に眠る気配がない。朝は最悪の事態を想定した。あれが始祖の能力を受け継いでいたら此処にある武器程度では歯が立たない。そう思っているうちに暴れ始めた。吸血鬼になったばかりなら、血を呑ませなければそのうち活動を停止するはずだ。
全員がそう思っているだろうが、化物が壁を殴って入ったひびを見て考えが変わった。実験室の隣の部屋で待機中の銀狼は全員武器を構えた。銀狼の戦闘員はこれで全員だ。計十名。焼け石に水だ。朝は全滅を避けようとマイクを使ってモニター室から大声で叫んだ。
「全員この建物から出て此処を封鎖した方が良い。武器が通じなかったら全滅するぞ。そうなったらもう手が付けられない。」この発言は一部の職員をパニックに陥らせた。責任者は朝を怒鳴りつけた。朝は広がりゆくひびを見ながらこの化物について報告しなければとスマホを取り出して蜥蜴に掛けた。
呼び出し音が途方もなく長く感じられた。ようやく蜥蜴は電話に出たが、その時には鉄板の入った頑丈な壁が発泡スチロールのように粉々に砕かれていた。阿鼻叫喚の中で手短に状況を報告すると、蜥蜴は朝に他の人々全てを犠牲にしてでも生きて帰るように命じた。後ろで顔見知りが蟻のように踏み潰されて食べられている中で背を向けて逃げろと言われると良心が咎めたが、確かにこの建物内にいる人間で生き延びる者はいないだろう。
銀狼の攻撃は巨大な的を外さなかったが、朝の予想通り化物は意に介さず虐殺を続けた。化物の一体は人の多いこのモニター室に真っすぐ走ってきている。朝は廊下に出ると朱雀を起動させて窓を叩き壊した。朱雀を紐代わりに窓から飛び降りた。すぐ後ろから馬鹿みたいに騒音を上げて化物が迫っていた。
朝は自分の車どころか運転免許も持っていない。ここまでは人に送ってもらっている。しかしこの研究所が建てられているのは周囲に何もない山奥だ。鍵が付いたままの車が一台くらいはないかと祈る思いで駐車場に向かった。
「馬鹿な…。」逃げ出した職員が駐車場にやっと向かい始めた所だったが、後ろにはおまけがついてきている。最悪だ。列の最後列から順に喰われている。車に乗り込んだ奴を捕まえてその助手席に侵入した。シートベルトはしなかった。事故死の心配などしていられない。
朝が乗り込んだ車の他にも何台か車が並走している。片道一車線の道路だが道路交通法を気にする人はいない。スピードも最大だ。山道のカーブを経験したことがある人なら分かるだろうが、曲がり切れない車が続出した。一台が事故に遭うと玉突きになる。朝が乗り込んだ車のドライバーのテクニックは群を抜いていた。
「助かった。」ドライバーは汗を掻いている。顔が真っ青だ。
「いや、来ている。運転に集中しろ。」朝はドアを開けると朱雀で近くの樹をもぎ取って投げつけた。当たっても大した衝撃を与えていないが、人間だった頃の名残か、反射的に避けている。いつの間に他は全滅した。化物は立木を掴んだ。そのまま後ろに振りかぶる。
「右だ!」朝の声に反応してハンドルを右に切った。衝撃が走る。ぎりぎり車が全部潰れるのは避けたが、車の左後方は潰された。
目の前には急カーブが迫っていた。ドライバーは先程の衝撃でハンドルを切るのが遅れた。曲がり切れない。朝はドライバーの左腕を掴むと朱雀を使って外の大木にぶら下がる形で脱出しようとした。ドライバーの腕を掴むとその後ろに化物の腕が見えた。朝は助けられないと気付き手を離した。最後に見えたのは首が飛んだドライバーと化物が車ごと崖から転落する様子だった。全員死んだ。研究所の所長以下百人ほどが全滅した。
朝は嘆き悲しんだり、恐怖に気絶したりして時間を無駄にする余裕はなかった。奇跡的に生きているスマホを使って蜥蜴に連絡を取った。
「生存者は僕だけです。至急ヘリをお願いします。」
実際に研究に勤しんでいた方々が揃って胃袋の中なのは本当に弱った。人気のない場所にいるから様々な攻撃を試したがどれも効果なしだった。三体とも元気そのものだ。空腹なのか、どんどん下山していく。念のため近隣住民を避難させたが、解決の糸口は見えない。
「意見を述べさせてもらえば、吸血鬼に協力を仰がないといけないと思います。あれに投与された血液は始祖と真祖のものです。その二人ならば相手になる可能性はあるでしょう。」朝は真っ当な意見を述べた。これで蜥蜴が下らないプライドや世間体に囚われるなら見捨てよう。
「その通りだ。どうにか射干玉と連絡を取らなくては。」蜥蜴は吸血鬼が緊急時に用いる、人間には聞こえない高周波でのモールス信号を使って非常事態だから助けがいると伝えた。破格の好条件を提示した。
耕一を始めとする捕虜となっている吸血鬼の釈放、医療用血液パック一年分の贈呈、朱雀一つの進呈。他の職員がやりすぎだと言うと、他の解決策があるなら言えと一喝された。実際他に方法はないだろうと思われた。化物が民家に被害をもたらさないように攻撃した銀狼は殆ど有効打を与えていない。普通の銃などは玩具の如く弾かれている。犠牲者は数を増すばかりで、それに伴って奴らも強くなっている。
新たな問題が生じるだけかと危ぶまれたが、会談はあっさりと実現した。大胆にも射干玉は一人で現れた。朝と昴は蜥蜴の後ろで控えていた。蜥蜴は自分の朱雀を外して射干玉から見える場所に置いた。敵意がないことを示すためだ。射干玉は黙って蜥蜴の説明を聞いていた。証拠の映像も見終わった所でようやく口を開いた。
「随分と虫のいい話よの。散々迫害しておいて、自分たちの立場が危うくなれば助けよとな。これが一月前なら決して聞き入れはしなかったであろう。それどころか貴様の首をもぎ取ってやるところだ。だが、今我らは住処を追われ、弱くなった。協力しよう。」
「そして貴様が言ったところの始祖は恐らく桧山霧のことだな。霧についてだが、此方も行方を捜している状態だ。」射干玉は言った。
「桧山霧って桧山朝の弟で鬼之血を持つ子どもだったな。分かった。その情報は此方で集めよう。協力感謝する。捕虜は連れてきているから連れ帰ってくれ。」これは詳しく事情を訊かれるだろうな。
射干玉は一旦準備があると言って蜥蜴の朱雀だけ受け取って帰っていった。後ろには耕一らが続く。射干玉がいなくなると先に口を開いたのは意外にも昴だった。
「俺は先日会いましたよ。ひの…霧君に。」驚いて昴を見詰めた。こんな簡単に手掛かりが見つかるとは。いつの間に知り合ったのだろうか。
霧の目撃情報があった場所の近くで霧の捜索を行った。職員の中には緊急事態なのに子ども一人を探すことに露骨に不満を漏らす人がいる。朝自身でさえ霧がどれ程の戦力になるのかと不安に駆られ始めた。結局付近に一斉に現状を伝えて向こうからの連絡を待つことにした。一般市民に極秘情報が流れないように、例によって超音波での連絡だ。
「始祖は吸血鬼の血を養分にしてしまう。真祖の血が入っているから武器も通用しない。下手したら誰にも止められない可能性がある。」朝は必死に訴えた。半分は自分に言い聞かせている。
濡羽はすぐさま兄の元に向かった。何故か真祖と始祖の血を投与しても死ななかった、か。これは此方にも責任の一端があると言えるかもしれない。恐らくその化物は吸血鬼の血を麻薬に混ぜて摂取し続けたために耐性が付いたのだろうから。
「此処で待て。」濡羽は耕一を待たせて一人で行った。
濡羽は事のあらましを紙にしたためた。射干玉が眠る前にこの傷を治すには朱雀が必要だと言っていた。紅華では力の譲渡の最中に壊れてしまったからだとすれば、射干玉が行おうとしているのは濡羽に預けた真祖の力を回収することだろう。しかしあの時は治せなかったということはそれでは十分でないということだ。当時二番目に力のあった濡羽を受け渡し人に指名したということは、その力を奪い取って復活するつもりなのだろう。
この危急存亡の秋に必要とされているのは真祖に成り済ましている濡羽ではなく、正真正銘の真祖、射干玉だ。濡羽は久々に帰ってきた玉座の感触を確かめることもなく射干玉の眠る部屋に移動した。
その姿は十年前と何ら変わらず美しかった。濡羽は懐から漆黒のリングを取り出した。自分の姿が反射している。濡羽は震える手で兄の手に朱雀を握らせた。少し力を送り込んで目覚めさせる。赤い両目が濡羽を見据える。
「濡羽…。」射干玉は真っ赤な血を吐いた。苦しそうに濡羽を見詰める。
濡羽は説明を後にして若い女性の血を呑ませた。やはりこの程度では傷が癒えない。濡羽は朱雀を渡す。射干玉は朱雀に力を籠める。二人で両側を掴んだ。射干玉は濡羽に何もしなくていいと言ったので、濡羽は力を抜いて射干玉に任せた。朱雀が熱を帯び始める。
「濡羽、そなたにはこの座の辛さを味わわせたくなかった。ずっと昔からそなたの方が余に比べ強いことは分かっておったが、そなたの優しさでは非情な決断などすればずっと気に病むであろうことも分かっておった。それよりは不肖の兄がその任を務めた方が良かろうと思ったからだ。」射干玉の様子がおかしいことにようやく濡羽も気付いた。治るどころか悪化している。濡羽に力を送っているようだ。
「陛下、何をしていらっしゃるのですか。皆は陛下のお帰りを待ち望んでいるのです。私の力を使ってでも陛下に戻って頂かねば困ります。不遜ながら私が陛下の代わりを務めて以来、吸血鬼は弱体化する一方です。陛下の御力が必要なのです。」
「すまないな。余の時代は終わりだ。妹よ、これからは余の代理ではなく、そなたこそ真の王だ。真祖濡羽の誕生を祝って。」濡羽は心臓が熱くなっていくのを感じた。射干玉は微笑んだ。人前では厳しい表情しか見せない射干玉の笑顔を見るのは実の妹であっても久しぶりのことだった。
射干玉はそのまま灰になった。濡羽は力がみなぎっているのを感じたが、それ以上に喪失感が強い。しかしまだ真祖としてやるべき事が残っている。ひとまず化物退治のために敵の巣窟に向かうことを決意した。
「胡散臭いな。僕を誘き出して捕まえるつもりじゃないの。どう思う?」霧は相談した。吸血鬼にも歯が立たない化物が人間を食べているなんて俄かに信じられないのも無理ないだろう。
「銀狼がその辺りを封鎖しているのは事実みたいね。ネット上に化物の映像が出回ったらしいけど瞬時に消されたという情報もあるし、報道規制が入るくらい大事ならばただの吸血鬼ではなさそうよ。」楓は言った。
霧は迷っていた。のこのこと出掛けて行って捕らえられた挙句嘗ての仲間を狩ることを強制されたり、もっと酷いことに人体実験などされたりしたら目も当てられない。しかしこれが事実ならば黙って見ていられないのが性分なのだ。
「オレは行動しないで後悔するよりは行動して後悔する方がマシだと思うぜ。」武尊の言葉が決定打となった。迷っている間に他人が死ぬなら思い切って行くべきだ。
「僕は行くよ。二人は待っていて。」二人は同時に抗議した。「妹さんがいるじゃないか、武尊。独りにしないで傍に居てあげなくちゃ。第一これから行く場所は吸血鬼の天敵の本部なんだから。」異を唱えたのは思いがけない人物だった。
「あら、私は兄さんの足枷になるのは御免ですよ。この歳になったらもう守ってもらう必要もないもの、兄さんがしたいようになさい。」兄妹だな。この思い切りの良い性格はそっくりだ。こうして三人は銀狼の本拠地に乗り込んで行った。
「桧山朝に義弟が来たと伝えて下さい。」朝は予約がなければ会えないと言われたが、朝に呼ばれたのだと言うと渋々取り次いでくれた。受付に伝えて待っている時間は緊張してとても長く感じられた。しかし何か不祥の事態が生じているのは間違いなさそうだった。やがて三人はある部屋に通された。
中には天狼の三人が勢揃いしている。リングは着けていない。これは確かに異常だな。三人は勧められるままに着席した。本革だろうか。上質なソファだ。
「再会を喜びたい所だが、霧。時間がない。手短に状況を伝えよう。そちらのお二人は吸血鬼だね。今は吸血鬼と協力関係にあるんだ。近いうちに射干玉から正式な発表があるはずだ。だからそう殺気を飛ばさないで欲しい。」朝が言った。説明は蜥蜴が引き継いだ。
話が終わっても長いこと誰も口を開かなかった。沈黙を破ったのは武尊だった。
「陛下は此方にいらっしゃるのか。」蜥蜴は間もなく来ると言った。丁度戸が開いて現れたのは射干玉だった。一目で霧には射干玉の変化が見て取れた。前回会った時までは確かに真祖ではなかったのだ。これが真祖だと思わせるオーラがある。武尊は射干玉をじろじろと眺めた。
「何故そのような出で立ちで此処においでなのですか、濡羽様。」武尊は呆然と言った。やはり濡羽の方か。濡羽は何も答えなかった。
「どういうことですか。貴方が真祖でないならばこの作戦の意味がない。」昴は静かに追求した。霧は始祖として、目の前の人物は間違いなく真祖であると請け合った。濡羽は踵を返してしまおうとする。楓が呼び止める。
「私たち吸血鬼が忠誠を誓うのはいつでも真祖に対してです。真祖の代替わりがあれば、次の真祖に忠誠を誓うのが習わしです。しかしその事実を隠蔽して、別の方の栄光を笠に着るような方には従えません。陛下には説明の義務が御座います。」
濡羽は観念したように目を閉じると長い溜息を吐いた。「そうだ。私の名は濡羽。つい昨日瀕死の状態だった射干玉様から完全に真祖の力を譲り受け、真祖となったばかりだ。」尚も説明を求める吸血鬼を制して朝が言った。
「この作戦において彼女の本名や力を得た手段は重要ではない。急いで本題に入らないと手遅れになる。」楓や武尊が睨みつけても怯まなかった。
「あの化物は最も濃い血である始祖の血から受けた性質が色濃く出ている。あれの血に触れた生き物は弱り、体内に血が入ると一瞬で絶命する。オリジナルは人間の身体を持つため刃物で簡単に傷つけられるが、化物には物理攻撃が効かない。人間を捕食する様子は確認出来ているが、吸血鬼を捕食するかは不明。まあ紅華に対する反応が人間に対する反応より強いことから、人間より吸血鬼に高い反応性を示すと思われる。」
厄介なことこの上ない。本当にこれが事実なら、まさしく霧以外の何物にも止めようがない化物だ。
「幸い紅華や朱雀に付けられた傷の回復速度は低下傾向にある。銀狼、天狼が全力をあげれば一体を十秒くらい足止め出来るはずだ。それには囮となって他の二体を誘導するのに十分な数の吸血鬼が必要となる。濡羽が吸血鬼を説得してくれなければ自由になった化物が真っ先に喰うのは吸血鬼だ。」蜥蜴は言った。どうやら止めを刺すのが霧なのは前提条件となっているようだ。
その後もっと詳しく作戦の説明があった。一番被害が少ないと思われる最善策だと言うが、あまり安全なようには感じられなかった。作戦の要である霧の安全は保障されているようだが、その警護に当たる昴と朝は身代わりになりかねない作戦だ。
「君の警護に人員を裂くと、警戒されてかえって攻撃されるリスクが高まる。桧山さんは一度奴らから逃げおおせているし、俺もそれなりに動けるつもりだ。君も知っている通り。大丈夫だよ。」蜥蜴は義足だから機動力に欠けるし、司令官が現場で落命したのでは困る。人選に文句があるわけではない。
濡羽は吸血鬼に協力を要請するにあたって蜥蜴と霧にも顔出しするように頼んだ。二人は承諾し、吸血鬼の世界に渡った。耕一が連絡して既に多くの吸血鬼が集っていた。こんなにも多くの吸血鬼がいたのかと恐怖を覚えた。霧と蜥蜴は彼らの敵である。もし濡羽が裏切ったら、或いは群衆が反逆したらリンチに遭うだろう。濡羽は堂々と立っている。蜥蜴も恐怖を感じているのだとしてもおくびにも出さずにいる。
濡羽は人間界に巻き起こった事件についてありのままを話して協力を仰いだ。だが予想通り群衆の反応は冷ややかなものだった。
「そんなもの、人間共が勝手に撒いた種ではないか。陛下、何故我らが手を貸さねばならぬのでしょうか。人間などに協力するのは名誉に係わります。」
「我々を働かせた後で、その矛先を我らに向けぬとどうして言えましょう。狡兎死して良狗烹らると申すではありませんか。」
難しいことを言ってはいるが、真っ当な意見ではある。逆の立場なら協力しないだろう。霧は問題が解決した後も吸血鬼の安全を守るつもりだったが、自分の正体を明かせばそれこそ大混乱だろう。一人で吸血鬼を全員屠れるのだから。この場は濡羽以外の何者にも収められない。
群衆は怒りの矛先を蜥蜴に集中させた。攻撃を放つ者まで現れた。蜥蜴は朱雀を持っていないので霧が代わりに防いだ。正確な攻撃だ。補給出来ないから長期戦はしたくない。一旦退いた方が良い。
「此処にいても彼らを刺激するだけです。下がって陛下が説得してくれるのを待ちましょう。」濡羽が蜥蜴の前に立って両腕を広げた。無防備な小さい背を見て鳥肌が立つのを感じた。
「貴方たちの不安も分かります。でも、身の危険を顧みず、敵である私に頭を下げる勇気を持ち合わせている彼のような勇気を持った人物は此処には一人もいないのですか。真に気高い人物ならば古い因習に囚われずに、敵であれその崇高なる精神を褒め称えるべきです。我らは規則の奴隷ではありません。賢明なる皆さんならば理解して下さると思い、愚かなる私が規則を恐れて今日まで隠し通してきた真実を吐露します。それを聞いてどう判断するかは皆さんに委ねます。」
口調が違う。感情を籠めて語る濡羽の気迫に気圧されて聴き入ってしまったが、自分が濡羽だと言うのか。霧は万一の時には濡羽を守ろうと身構えた。
「私は先代の真祖、射干玉様の妹である濡羽です。十年前に兄上は瀕死の重傷を負っていて、跡を継げるのは私しかいなかったので、兄上の判断は間違っていなかったと思います。ですが正式な議会での了承を得ていない上に、私個人には皆さんがついてきてくれないだろうと事実を捻じ曲げて伝えました。」全員が聴き入っている。
「私には兄上のような決断力もカリスマ性もありません。しかし吸血鬼の皆さんを想う気持ちは本物です。もし人間が裏切ったとしても、この身が灰と消えるまで敵を蹂躙し続けましょう。兄上は数百の人間と戦っても一歩も退かず、その名は奴らにとって恐怖と敗北の象徴となりました。その血は私と皆さんの中に脈々と息づいているはずです。」濡羽はちょっと言葉を切った。
「人間界が混乱に陥れば、我々にも影響が出ることを忘れないで賢明な判断をして欲しいものです。私は一人でも協力するつもりです。」
小さなどよめきが起こった後、濡羽に共感する人々が現れた。それはさざ波のように広がって、遂には先程までと真逆の空気になった。何と恐ろしい人だろうか。本物の射干玉を知らないが、濡羽もカリスマ性はかなりある。
順調に作戦は進んでいった。しかしその間も化物は進攻を続け、隠し通せない域に達してしまった。
「何?自衛隊が指揮を執ると言ってきた?」蜥蜴は苛立ちを隠せなかった。「本件は吸血鬼関連の案件だ。越権に当たる。断ってくれ。」
「トップが全くの無知で、立ち退かなくてもミサイルを撃ち込むと。」それで何とか出来るなら最初からそうする。今銀狼の幹部を現場から外せないのに。
「実際に吸血鬼が行ってその危険性を示した方が流石の連中も納得するでしょう。私に行かせて下さい。」志願したのは楓だ。霧は危険だと言いたかったが、此処に留まっても同じことだ。
霧は極度に緊張していた。この作戦の可否は全て霧にかかっているのだ、無理もない。一番の恐怖は直接吸血しなければ治せないほどの深手を負うことだ。相手を殺すと分かっていて吸血するのはメンタルが持たない。
山間の小さな集落は血の海となっていた。逃げ遅れた民間人も数名いるらしいが、多くは銀狼の遺骸だということだ。捕食中は他に移らないようで、奴らの歩みは遅々としている。霧たちは上空から化物を偵察した。
「肩の力を抜けよ。お前はただ動きが止まっている時に相手の体内に自分の血を入れたら即終了。一番楽な役回りだよ。こんなの猿にだって出来る。」朝は多分励ましているというよりはからかっている。でも気が楽になった。あまり深刻に考えすぎない方が良いのは確かだ。
「この現場は吸血鬼には辛いでしょうよ。」霧は辺りに充満する人間の血の匂いにむせそうになった。いた。三体確認出来た。醜悪な外見は事前に映像で確認した通りだが、死肉の臭いは映像からは分からなかった。これに咬み付くのは御免こうむりたい。
元が人間であったとは俄かに信じがたい風貌だ。赤い肌に鋭い牙や爪が生えているためではない。辛うじて二足歩行を保ってはいるが、立木くらいの大きさに膨れ上がっているからでもない。境界から外れかけている。こっちに踏み入れているわけでもなく、両界の性質を備えつつ、両者から見放されたような不安定さを感じる。これは存在してはならない。
此方に気付かれた。共鳴している。最悪の事態だ。情報が筒抜けじゃないか。相手が余程の間抜けでない限り大人しく囮に反応してはくれまい。しかし不意に奴らの注意は別の物に移った。霧もそちらを見た。もう一機のヘリコプター。乗っているのは濡羽と吸血鬼か。距離は向こうの方が遠いはず。
「この作戦は思ったよりいいかもしれません。僕より囮に反応しています。」霧は深呼吸すると囮役が配置に就くのを待った。
囮役を安全かつ機能を果たせる場所に置くのは楽なことこの上なかった。化物は人間に比べてかなり大きく重い。その上この辺りの地盤は強固なものではない。少し注意すれば何てことない。
小高い丘の頂上に集った吸血鬼目掛けて化物が一斉にやってきた。いい感じに奴ら同士の距離も離れている。銀狼はその一体に狙いを定めたようだ。統制されているが、相手の力が圧倒的過ぎて何とも危なっかしい。思ったより時間が掛かっている。他の化物が銀狼を気にし始めた。濡羽がその化物に軽く威嚇射撃した。単純な化物はすぐに囮に意識を戻した。
銀狼は執拗に右足に攻撃し、ようやく化物は再生の限界を迎えた。バランスを崩した化物は地面に倒れ伏した。そろそろ出番だろう。霧はじっと下の様子を観察した。血飛沫が上がったが、霧には助けられない。
「行くぞ。」三人はヘリコプターから飛び降りた。やはりこの距離だと霧に一番反応するようで、銀狼の死体はそっちのけで此方に腕を伸ばしてくる。昴と朝はその腕を切り落としたが、また生えそうになっている。しかしその一瞬の隙で充分だった。霧は化物の肩に飛び乗ると、脳天目掛けて攻撃を放った。命中だ。後ろの山肌まで削れた。加減が下手すぎる。化物は轟音を立てて地に倒れた。傷口の再生も止まっているし、もう起き上がるまい。霧たちは吸血鬼に合流した。
「良かったじゃないか。気を緩めなければ大丈夫だと思うぞ。」霧は引きつった笑みを浮かべた。あまり安心出来るフレーズに聞こえないのは霧が捻くれているのだろうか。
もう一体に銀狼が攻撃を仕掛ける。化物もそこまで頭が悪いわけではないようで、二体で協力して対処し始めた。銀狼は距離を取った。諦めて戦力を二分して全員で攻撃することにした。吸血鬼も戦いに加わった。地上は混沌としてきた。霧たちは戦闘には加わらずに機会を待った。濡羽の強さは桁違いだ。濡羽と戦っている方が先に堕ちるだろう。
もう一体が霧を狙ってきた。天狼が防ぐ。相手は一瞬怯んだが、その傷でさえすぐに治るのを見て攻撃を再開した。昴が危機に陥ったので、霧はそいつの腕に攻撃した。浅い。武装された。ただの切り傷をつけて逸れた。傷は治らないようだが、致命傷にはなっていない。ただ逆鱗に触れただけか。
「庇ってくれたのはありがたいが、君には力を温存して貰わないと困る。」昴は言った。確かに濡羽の血をパックで貰ってはいるものの、直接吸血しなければこの威力の攻撃は数発が限度だ。三体の化物を相手取るにはぎりぎりだ。
濡羽が攻撃している化物の足が崩れた。天狼と共に霧は移動した。此処で確実に仕留めれば残りは一体。総戦力をぶつければ勝てる。霧の心に焦りが生じた。落ち着いて攻撃を錬成することなく、化物の心臓に打ち込んだ。威力は申し分ない。胸に風穴が開いた化物は後ろにのけぞった。霧は次の化物の方を向いた。
「まだだ!」朝が叫ぶと霧と起き上がった化物の間に割り込んだ。朝の身体は数十メートル吹っ飛んで、地面に叩きつけられた。霧は怒りに我を忘れてがむしゃらに化物に向かった。武尊が止めなければミンチになっていたことだろう。
「馬鹿野郎。兄貴を助けるんだ。」霧は涙に歪む景色の中で朝の姿を探して駆け寄った。昴も後ろからついていく。朝は辛うじて息があった。激突する寸前で朱雀を始動してクッションとしたようだ。だが致命傷なのは誰の目にも明らかだった。内臓が滅茶苦茶になっているに違いない。
「霧、こんなことをしている…場合じゃない。更に死者を…増やす気か?」朝は焦点の定まらない目で必死に諭す。霧は朝を救える方法はないかと考えて一つだけ思い付いた。
「朝、赦して。」霧は朝の胸元に手を添えると、此方の世界から離れつつあるその肉体を、完全に向こうに押しやった。朝の胸から光が広がっていった。ゆっくりと、着実に。傷口は塞がっていない。霧は昴の方を向いて言った。
「少しだけ、血を貰っても構いませんか?」昴は霧が何をしたのか悟ったようだった。黙って朝の口元に血を垂らした。信じがたい速度で傷口が癒えていき、頬には赤みがさした。朝は目を開いた。最早人間ではなく、吸血鬼と化していた。
霧は朝に抱き付いた。嗚咽が止まらない。朝はそっとその髪を撫でた。自分の傷口を確かめて全てを悟ったようだ。
「僕は吸血鬼になったのか。」まだ渇きが癒えていないな。戦場に立つのは無理だ。
「後で叱られるから、少し休んでいて。」霧と昴は朝を放置して戦場に戻った。「幸運を祈る。」朝は言った。
霧は心臓を破壊した方に止めを刺した。もう一体も大分消耗の色が見える。全員が残った化物を攻撃している。霧を含む吸血鬼が一斉に後ろを向いた。地響きだ。吸血鬼の中には人間の文化に疎い者も多いようだったが、霧にはその正体がはっきり分かった。戦車だ。
後一歩のところで余計な邪魔が入った。戦車は化物に砲撃を開始した。生身の銀狼、天狼は下がらざるを得ない。吸血鬼も戦車には敵わない。当の化物はと言えば涼しい顔だ。狙いを戦車に変えた。霧は何とか戦車を庇った。さもないと叩き潰されていただろう。役立たずが現れても迷惑でしかない。
化物は仲間の死体の方に向かった。霧はこれ以上攻撃を続けるのは体力的に困難だと思って、自衛隊が退くのを待った。すると化物は衝撃の行動に出た。その死体を貪り始めたのだ。その場の誰もが危惧したように、化物の大きさは増していった。二体目も貪った時、それはもう見上げるほどの大きさに膨れ上がっていた。数十メートルあるかもしれない。何を血迷ったか、戦車と爆撃機が攻撃を再開した。化物によって爆撃機は乗組員ごと墜落した。
「化物におやつでも与えに来たのか。この馬鹿がいなくならないと全滅する。」
楓は頭の固い自衛隊の説得のために奮起していた。余程建物ごと壊してしまいたかったが、耐えて面会の機会を待った。既に隊員は化物の元に向かっていたが、それを作戦中止に出来るのは現場にいないこちらの司令官だけなのだ。楓は作戦を実行中の部屋に押し入った。楓を追い出そうとする人々を押し退けて直談判した。
「あんたたちは私たち吸血鬼のことを何も分かっていない。大馬鹿者よ。銃なんか通じないから銀狼があるのに。このままでは自衛隊も銀狼も共倒れだわ。専門家に任せて引っ込みなさい。」司令官風の男は楓を放すように言った。
「吸血鬼が此処に来るとは、お前の方が馬鹿だよ。此方も少しは吸血鬼について知っているよ。少し傷の治りが早い程度で、我が戦力に勝てると思ったかね。」
「通常の吸血鬼とは違うの。原爆か水爆でも持っているなら話は別よ。後ね…。」楓は苛立ちを抑えて皮肉っぽくならないように言った。「私だってそのちゃちな玩具にやられることはないわよ。機関銃くらい出してよ。吸血鬼の偉大さが証明出来ないわ。」
「お嬢さん、吸血鬼を殺しても殺人にはならんのだよ。」司令官は銃を構えた。楓はこのために大量の血を摂取してきた。ニッコリ笑って挑発した。「当たり前じゃないの。殺人というのは低俗な人間が別の俗物に殺されることを言うのよ。」すぐに銃は火を噴いた。
全身を武装化してしまえば、手榴弾くらいまで防げる。こんな武器では相手にもならない。楓は部屋の中にいた全員から武器を取り上げて銃をこめかみにあてた。
「自分たちがどれ程身の程知らずなものを相手取っているかよく見ておくことね。」引き金を引く前に指が震えるのを感じた。覚悟を決めたはずなのに。現場の皆は文字通り命懸けなんだ。自分もこの命を懸けないと顔向け出来ない。楓は引き金を引いた。
銃弾は少し頭に食い込んだだけで止まった。顔の側面を生温かい液体が伝っていく。楓は笑いながら人間を見詰めた。素手で弾丸を引き抜いた。傷口はすぐに塞がった。目の前の人間はすっかり度肝を抜かれたようだ。
「すぐに軍を引き上げさせなさい。貴方たちのやっていることはただの妨害にしかならないわ。」タイミング良く現場の人々から報告が入った。
「F2が撃墜されました。」その後退却命令が出されるまで時間はかからなかった。
「後は任せたわよ、霧。」
ようやく自衛隊にも歯が立たないことが分かったのか、撤退した。それでも状況は芳しくないままだ。化物の巨体に傷を負わせることは出来ないみたいだ。被害が広がる一方だが、霧はもう余力がない。隙が無ければ致命傷を負わせることは不可能だった。
化物は濡羽を狙った。濡羽は既に手傷を負って機動力がなくなっていた。吸血鬼は団結して濡羽を庇った。何人かが灰になり、残りも酷い怪我をした。負傷者の中には武尊もいた。霧は武尊に駆け寄った。
心臓の真上に破片が刺さっている。これは吸血しても助からない。霧は武尊を励ました。
「大丈夫だ。きっと助けるからもう少し待っていてくれ。」武尊は霧の腕を凄い力で掴んだ。とても瀕死の重傷者とは思えなかった。
「無理だ。オレは間もなく死ぬ。霧、お前、力が落ちているな。吸血しないといけないんじゃないか。」霧は必死に否定したが、武尊は納得しなかった。「このまま犬死するくらいならお前がオレの血を吸って、あの化物を殺してくれ。最期の頼みだ。」
霧は武尊の目を見詰めた。武尊の決心は固いようだ。霧は武尊の耳元に顔を持っていって囁いた。
「ありがとう、武尊。君は僕の親友だよ。」
「嗚呼、ありがとよ。霧。」霧は武尊の首筋に咬み付いた。生きた吸血鬼から吸い取る血の味は格別だった。吸血鬼の唾液には強い麻酔作用がある。武尊は眠るように目を閉じるとそのまま灰になって空に溶けた。
霧は昴に自分の警護を止めて化物を止める方に回るように頼んだ。昴は従った。昴と濡羽は息を合わせて化物の腱を切った。それ程の重傷でさえすぐに治りつつあったが、霧にとっては充分な隙だった。霧は躍り上がると上空から渾身の一撃を化物に放った。化物は全身に武装化を施したが、霧の攻撃はそれすら破壊して化物の上半身は完全に消滅した。
一瞬の沈黙の後、周囲から歓声が巻き起こった。脅威は去った。勝利だ。しかし霧は少しも嬉しい気持ちになれなかった。喪失感と疲れが襲ってきた。
「この機に吸血鬼を根絶やしにしてしまおう。」銀狼の若者が叫んだ。この言葉に吸血鬼は身構えた。
「止せ!誰でも他の者に攻撃を仕掛ければ僕が相手するぞ。双方武器を収めろ。」霧の一声に場が収まった。この場で霧と戦える者は一人もいないからだ。霧はこのような脅しは好まないが、止むを得ない。平和のための抑止力となるなら許されるだろう。
この事件をきっかけに吸血鬼と銀狼の関係は急速に変化した。吸血鬼は吸血致死が禁止され、人間側から吸血鬼用の血液パックが至急された。そうは言っても旧時代の因習に囚われた吸血鬼は人間を襲った。そうすると銀狼がたちまち駆け付けて鎮圧して真祖に引き渡すのだった。
「食料には困らないでしょう。何でこんなことをしたんですか。」昴は呆れたように言った。言葉遣いの古めかしさから少なくとも百歳にはなろうかという吸血鬼が少女を襲って捕まったのだから無理もない。
「黙れ、下等生物めが。汝らからの施しなど受けぬわ。そもそも汝らは我らの糧と成るべく生まれついておるのじゃ。我らより弱い分際で、殺されて文句を言うのは愚の骨頂よ。」
「ふーん。」霧がその後ろから音もなく現れた。右手首には朱雀が嵌っている。元々は朝のものだ。「じゃあ話が早い。僕が貴方を殺しても文句はないでしょうね。僕より下等な吸血鬼風情のおじいさん。」
これは本気ではない。ただ彼の物言いに苛立ったのだ。しかし霧がニッコリ笑ってこう言えばその効果はてきめんだった。吸血鬼は口汚く悪態をつきながら帰っていった。
「貴方も皮肉を言うようになったのね。良いことだわ。」楓は言った。特例として吸血鬼でありながら銀狼の隊員も務めているのだ。その理由は勿論霧が頼み込んだからだ。霧の頼みを断れるのは楓以外そういない。
「霧、待たせたな。」朝がやってきた。「濡羽様は射干玉様の墓参りと犠牲者の追悼式で来られないそうだ。耕一さんも。」濡羽は吸血鬼界に新たな風を巻き起こした名君として名を馳せている。蜥蜴も上手く銀狼に方針の転換を植え付けた。
「じゃあ四人で行こう。」四人は一年前の戦いの戦没者を哀悼する共同墓地に向かった。亡骸が見付からなかった研究所の職員、銀狼、自衛隊員、吸血鬼の名が墓碑に連ねてある。あった。武尊の名も入っている。今日は丁度命日だ。多くの花と線香が供えられている。四人も花を手向けた。
「家には帰らないのか。」朝は霧に問い掛けた。
「朝もね。」吸血鬼になって以来一度も家に帰っていないと知っているのだ。霧の身体は覚醒してから全く成長していない。不気味に思われるのではないかと思ったのだ。それに彼らは本当の意味での家族ではない。
「ならついでに今日寄ったらどうです?二人そろって。」昴は言った。関係ないからって気軽に言ってくれる。
「簡単です。可愛いガールフレンドを紹介したらいいんですよ。」朝は飲んでいた水を思いっきり噴き出した。「ねえ、霧君。」昴はウィンクした。
「誰が誰のガールフレンドですって?」楓はクスクス笑った。霧は耳まで赤くなった。まだ霧からだって何も言っていないのに。「おや、オレの早とちりでしたかね?これは失敬。」昨日昴には恋人がいないのかとからかい続けた仕返しだろうか。
「良いよ。そんなに言うなら四人で行こう。」霧はむきになって言った。「朝は親友を紹介したらいい。きっと理絵さんなら昴のことを気に入るさ。昴も洋楽が好きだもの。ねえ。」
朝は笑いを噛み殺した。理絵さんは気に入った相手とだったらずっと止めどなくお喋りし続けるのだ。昴は人が良いから途中で切り上げられないだろう。
霧は一年ぶりの我が家の呼び鈴を鳴らした。広志さんは素っ頓狂な声を上げて妻を呼んで、慌ててドアを開けた。霧は顔を綻ばせて言った。
「ただいま。」
※多少のネタバレを含みます。
この話は元々女性を主人公にした話が書きたくて、霧をストーリーテラーにして射干玉、つまり濡羽を主人公にしようと思って書き始めたものです。結果としては霧が主人公の方が良いと思い、このような形になりました。ありきたりな設定ですが、書きやすかったように思います。少しでも目を通して頂けると幸いです。