天狼と昴
長い溜息を吐くと鏡を覗き込んだ。真っ黒な長髪に赤い瞳。この姿はまだ見慣れない。この姿に扮して十年も経つというのに。
「射干玉様ならこんな時どうされたでしょうか。どうぞ愚妹にお力添えをして下さいませ。」
そう言って自分の血を玉座に垂らした。するとそこは玉座の間ではなく、冷え冷えとした狭く薄暗い部屋だった。そこで眠っている人物は真っ黒な長髪が美しい射干玉その人だった。心臓付近には深手を負っている。射干玉の替え玉は一通り本物の様子を確認すると肩を落として元の部屋に帰った。まだ傷は癒える気配がない。
今射干玉と呼ばれ真祖のふりをしているのは双子の妹、濡羽だ。まだ十一、二歳であったため男に成りすましても違和感がない。念のためにさらしは巻いているが、バレるはずがない。昏睡状態の兄を護るために性格がほぼ正反対の兄のふりを続けているのだ。射干玉を起こすには朱雀が必要だ。それまでは眼鏡で眼の色を隠して、聞き取れないような声でもごもごと話す、髪を結い上げた濡羽は要らない。
銀狼の行動が大胆になっている。射干玉の力が衰えていると気付いているか疑っている。射干玉様が眠りにつかれる前に真祖の御力を一部分け与えて下さったのだ。天狼の一人、蜥蜴は間違いなく片足を失っているし、もう一人の昴は左目を失っている。それに両方を投入するはずがない。
「陛下、そろそろお時間です。」濡羽は威厳を保って吸血鬼たちの前に進み出た。
一同は三つの部隊に分かれて現場に向かった。濡羽以外は全員仮面で顔を隠している。やはりいたか…天狼昴。蜥蜴は来ていないようだ。この戦力差なら負けることはないな。
「かかれ。」濡羽は手近にいた人間の首を切り落とす。目を背けるな。私に自分の残虐さを嫌悪する資格はない。これは長い間射干玉様に汚れ役を押し付けてお優しい妹を演じて逃げ続けた自分への罰だ。先程まで人間だったものが鮮烈な血の匂いと醜い苦悶の表情を浮かべて肉の塊と化していく。これは私の戦場だ。
「射干玉だ。真祖が現れたぞ。」叫んだ男は濡羽に細切れにされた。
背後から鋭い攻撃が飛んできた。昴が首を狙ってきたのだ。若い少年兵が随分と立派になったものだ。一騎打ちならばそれでも負けはしないのだが、援護に徹する銀狼が数人いるため決定打に欠ける。濡羽は冷静に戦局を見ていた。
あの二人はもう駄目だ。足をやられているのか助けに来たのに反応が鈍い。こちらは敵を壊滅させる余裕もあの二人の回復を待つ余裕もない。濡羽が一声命じれば吸血鬼たちは必要な行動をとるだろう。しかしこれは私が背負うべき重荷だ。長引かせた方が残酷だ。
濡羽は自分も兄も楓より幼い状態で吸血鬼となったのにその罪で三人を処罰したことを思い出した。残される楓に想いを馳せてもその刃が鈍ることはなかった。楓の両親の心臓を一瞬で貫いた。断末魔の悲鳴すら上げる暇なく。二人の身体は完全に灰になった。何も残さずに。
「引き上げるぞ。」濡羽の一声で吸血鬼は撤退した。濡羽は殿を務めた。銀狼は負傷者の手当てに専念することに決めたようだ。賢明な判断だ。
同胞を殺した。しかしこの判断は間違っていなかったはずだ。生き延びても拷問されて両界の門の場所を吐かされて紅華になるのが関の山だ。そう言い聞かせても胸の痛みは激しさを増すばかりだった。
「此方は死者二人、向こうは負傷者十名前後、死者七名だと思われます。」耕一は淡々と報告する。
「ご苦労。下がれ。」ドアの閉じる音がした。濡羽は唇を噛み締めた。
思い切り一人きりで号泣したい。こんな重責には耐えられない。霧よ、早く大人になってくれ。他の真祖も殺されて私は完全に孤独だ。この秘密を誰かと分かち合いたい。十年前に手を血に染める決心はついたはずなのに。
濡羽はグラスに血を注ぐとゆっくりと喉を湿らせた。
「今何と仰いましたか。…楓の御両親が…死んだと?」霧は思わず聞き返した。
射干玉はそこまで申し訳ない様子でもなく、ただ事実を述べているような調子だった。楓はまた感情が昂るのではないかと危惧したが、寧ろ霧より穏やかに聴き入れている。分かっていたのか。楓は部屋に下がった。
霧は楓を一人にするべきだろうと思って後を追わなかった。きっと自分からだけは慰められたくないだろう。
「霧、時間ある?」霧は驚いた。「眷属となったばかりで血を操れたから、訓練すれば相当強くなれると思うの。」
霧と楓は競技場に向かった。楓は早速霧に攻撃した。霧は咄嗟にかわそうとするが避けられなかった。手加減しているようで痛くはない。
「まずは傷を付けなくても血を操れるようにならないとね。」楓は手をかざして五十メートル先の的の中心に攻撃を当てる。理論をじっくりと語った。霧は頑張って聞いていた。そして実践しようとした。少しばかり高度過ぎた。
「聞いてすぐに実践出来たら師匠なんて要らないわ。手を貸して。」楓は霧の手を取って復唱した。「心拍のリズムを感じて、深呼吸して心を落ち着けて丹田に力を籠める。右手の指先に血を巡らせるイメージ。上手くいったら手を握り締めて開くときに力を放出するの。」
全然ピンとこない。何度も試して投げやりになった霧は、難しいことは一切考えずに何となく手を前に振ってみた。その瞬間指先に温かみを感じた。霧の手から放たれた血は的にもろに当たって風穴を開けた。霧は嬉しくなって楓の顔を見ようとした。その途端景色が歪み、徐々に遠のいた。誰かが名前を呼ぶ声が遠くで聞こえたが、それに答える気力はなかった。
「気が付いた?随分とタフね。驚いたわ。急に全力で攻撃を放つから。」霧はスポーツドリンクを呷った。全力ではないと思う。気絶したのは反動に身体が耐えられなかっただけだ。まだ余力はある。
一度コツを掴んでからの霧の上達は目覚ましかった。成功率の向上もそうだが、一撃一撃が威力あるものになった。スタミナがあるため練習時間を長くとれるのだった。
「真祖様の血を受け継いでいるからかしら。通常の眷属では考えられないくらい強いわ。もう私より強くなっちゃうじゃない。この先は真祖様に教わることね。」実際霧は一週間もすれば全身の武装化から血の霧に至るまで全ての技を瞬時に繰り出せるようになっていた。
霧は競技場の備品を壊したことを報告した。すると大金を渡されて買い出しに行くように命じられた。楓を外に連れ出すことは出来ないので、一人で人間界に向かった。
店に向かうと前から左目を長い前髪で隠している二十代後半くらいの男性とすれ違った。以前の霧ならばこのくらいは気にも留めなかっただろう。その男の左手首には漆塗りのように真っ黒なリングが嵌っていた。霧は一瞬にして顔を強張らせた。天狼だ。向こうには気付かれていない。霧は逸る胸を宥めて歩き続けた。暫く経って念のため周囲を警戒しようと五感をフル稼働させた。霧が恐れていた銀狼の集団がいるわけではなかったが、別の臭いに気付いた。硝煙の臭いだ。
霧は足早に通るその臭いの元である厳めしい顔の大男に集中した。鼓動が少し速い。息も荒いようだ。霧は好奇心をくすぐられた。引き返してその大男の方に向かった。天狼かもしれない男はかなり先にいるから大丈夫だ。霧は細心の注意を払って進んだ。大男はどんどん狭い路地に入り込んでいく。霧は警戒を怠って大男が曲がったのを確認するとそのまま曲がってしまった。いない。気付かれたな、と思った時にはこめかみに拳銃か何かが押し付けられていた。
しまった。吸血鬼には銃は効かない。でも眷属が至近距離で頭を吹き飛ばされたら蘇生出来ないだろう。少しばかり強くなったからと自惚れて墓穴を掘ってしまった。
「動くなよ。これは玩具じゃねぇぞ。何故オレの後をつけた?」霧の額から汗が噴き出した。銃を見せたからには生かして帰さないつもりだ。返事をしようとするが口が乾ききって声が掠れる。
「待って…撃たないで下さい。」男は一層強く銃口を押し当てた。時間稼ぎも出来ない。隙があれば人間界にいる吸血鬼にSOSの証の高周波の音源を流せるのに。
「もういい。餓鬼が重要な情報を持っているはずもない。あばよ。」霧はイチかバチか男を襲おうかと思ったが、それより早く男の拳銃が宙を舞うのが見えた。誰だ。霧が振り返った先にいたのは最早天狼であることは疑いようのない人物だった。霧はホッとするどころではなかった。より手強い奴に捕まった。
「大丈夫ですか?」まさか貴方のせいで大丈夫じゃなくなったとも言えない。軽く頷いた。
天狼は拳銃を拾い上げて調べた。霧は逃げ出したかったが、天狼に睨まれて断念した。
「発砲の形跡がある。一発使用したな。何処で使った?」もう帰らせて。自分の正体は兎も角、中学生に係わらせる話を越えているじゃないか。
「すぐ近くだ。この更に奥。」天狼は霧に拳銃を渡した。霧は軽くパニックに陥った。天狼は霧も一緒に来るように言い、護身用にと渡したのだ。
三人は細い路地を抜けていった。霧は救難信号を打った。相手は天狼だから助けが来たところで勝てっこない。自分が逃げ出す隙さえ作ってくれればいい。誰かが気付いてくれることを祈りながら歩いて行った。血の匂いが濃くなっていく。
そこは袋小路になっていた。弾痕が残っていて少し血痕もついていた。しかし誰もいない。ここに来て霧は男の正体に気付いた。吸血鬼に人間を売り捌いている売人だ。道理で天狼に対する驚きがあまりないわけだ。最悪な状況だ。自分のせいでこの男が銀狼に捕らえられたら、逃げ延びても無事では済まないかもしれない。
「思ったより事は大きいようだな。二人とも俺と一緒に銀狼に来て欲しい。」
「僕もですか。」霧は時間稼ぎしようと食い下がった。天狼は素っ気なく返事すると歩き出した。駄目か。手には拳銃があり、天狼は背を向けている。でも顔を見られているから逃げるなら射殺しないといけなくなる。それは出来ない。たとえこの人が吸血鬼を何人殺しているにせよ、その一線を越えるつもりはない。
来る。このスピードは人間じゃない。でも一人か。天狼はまだ気付いていないようだ。霧は素知らぬ顔で歩いて行く。
仮面をつけた吸血鬼は完全に天狼の隙を突いた。しかし天狼の反射速度は尋常じゃなかった。吸血鬼の放った無数の攻撃は薙ぎ払われてしまった。霧は半ば素で悲鳴を上げた。しかし男の怖がり方に比べれば可愛いものだった。大の男がこの世の終わりのような騒ぎで喚いている。声が上ずっている。
「悪魔だ…。悪魔が殺しに来たんだ。助けてくれぇ。」悪魔かどうかは兎も角、男を殺しに来たという点はあながち間違っていないようだ。口封じに来たのか。霧は逃げ出す隙がないことに焦っていた。天狼が強すぎて押されているが、距離を置いたら深追いはしないつもりのようだ。
霧は目の前の死闘に熱中しすぎた。男が拳銃を奪おうと近付くのに気付かなかった。右手を強打されて拳銃を奪われた。霧は悲鳴を上げた。天狼はそちらに注意を奪われた。ハッとしたように吸血鬼に向き直った時には拳銃を手にした男の胸板は吸血鬼によって貫かれていた。霧は脚の力が抜けて地面に座り込んだ。
天狼は一気に吸血鬼を仕留めようとするが、吸血鬼はいつまでもぐずぐずするほど間抜けではなかった。天狼は逃げる吸血鬼を追い駆けようとした。そうしたら絶対に天狼は吸血鬼を仕留めるだろう。霧は天狼の足を掴んで縋った。手の震えが治まらない。
「行かないで!怖い。傍に居て。」天狼は屈むと優しい表情になって霧に手を差し伸べた。
「怖がらせてごめんね。もう大丈夫だから一緒に来てくれるかな。」霧は逃げ出すことを諦めた。自分はまだ眷属でしかない。血液検査をされない限り大丈夫だ。銀狼から追われる身ではあるが全員が自分の顔を把握しているわけではないようだ。
昴は消防と警察に電話した後、本部に向かって歩き出した。道すがら二人は話をした。恐らくは天狼が気を遣ってくれたのだ。天狼は名を昴というそうだ。確かそんなことを楓が言っていたっけ。
銀狼の本部は一見ごく普通の警察か役所のような外観だ。霧は出来るだけ下を向いて昴の陰に隠れながら進んだ。昴は気を遣ったのか個室に案内した。霧はホッとした。
「さて、何故彼のことを尾行していたのか聞かせてもらってもいいかな。」やはり来た。道中ずっとその言い訳を考えていたのだ。あまりまともなわけは浮かばなかったが、仕方ない。
「実は僕の恋人が最近行方不明になったんですが、その前に頻繁にあいつに会っていたようだったので、気になってつけていたんです。まさかあんなことになるなんて…。」あの男が本当に売人だったらこの説明でもおかしくないはずだ。
「その恋人の名前は?」霧はニュースの記憶を呼び覚まして失踪した女の子の名を告げた。昴は書類を渡して記入するように頼んだ。霧は人間界で名乗るように言われた偽名を書き込んだ。霧島桧という安直すぎる名前だった。
「桧君、大変だったね。家まで送ろう。」冗談じゃない。住所も出鱈目なんだ、絶対に送らせるわけにはいかない。霧は一人で大丈夫だと熱弁した。一刻も早く帰りたい。いや、厳密には帰りたくもなかった。厄介事を引き起こしてしまったから。
霧は玄関から出て行くところだった。後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。心臓は早鐘のように打っている。
「桧山さんも大分此方に馴染んできましたね。ところで弟さんの件ですが…。」やはりさっきの声は朝のものだ。銀狼に入隊したのか。霧は走ってその場から去った。覚悟はしていたが、朝は敵になってしまったようだ。ショックだった。朝とは本当に仲が良かった。敵に回したくない。
霧がとぼとぼと歩いていると、人通りの少ない道でうずくまっている男性がいた。二十代前半くらいだろうか、髪を金に染めている。普段なら声を掛けなかったかもしれないが、出来るだけ帰る時間を先延ばししたかったから声を掛けてみた。霧の警戒心はかなり薄いものだった。
「大丈夫ですか?具合が悪いのでしょうか。」男は此方を見た。目が合った瞬間に只者でないことを悟った。霧が全身武装化する方が、男が霧を咬もうとするよりわずかに早かった。助かった。霧は男に自己紹介しようと思って両手を上げて武装化を解いた。
「貴方は吸血鬼ですね。僕は真祖である射干玉様の眷属、霧と言います。」男はサッと顔色を変えると華麗な土下座を披露した。今度は霧が慌てた。こんな所ではなんだからと近くのファミレスに移動して話を聞くことにした。
「お願いだ。オレに会ったことは向こうの連中には言わないでくれ。」男は武尊と名乗った。何か重大な失態を犯して追放されたそうだ。実の妹がまだ健在だから匿ってもらっているらしい。霧は食料をどうしているのか訊いた。
「吸血鬼は血を吸った人間を死に至らせるけど、それは直接咬んだ場合だけだ。普段は妹の血を保存してそれを呑んでいる。最近妹が病気がちだったからつい襲っちまって。」緊急用に射干玉から血液パックを渡されているし、信憑性がある。
霧は何となく髪色を変えた理由を尋ねた。武尊は今時の若者に溶け込むためだと堂々と言い放ったので霧は堪えきれずに笑い出した。金髪の人なんてほんの一部なのに。努力する方向が違いすぎる。
それから二人は今時の若者について長いこと話に花を咲かせた。紅茶一杯で粘っているので店員は怪訝そうに見ている。
「教科書に載っていたでしょ、イエズス会の宣教師、なんて習った?」霧はもう敬語ではなくなっている。
「ザビエルだろ。フランシスコ・ザビエル。」
「やっぱり?今はシャビエルになっているんだよ。いや、ジェネレーションギャップだね。」
「は?…なんだよ、それ。シャビエルって…。」武尊は腹を抱えて笑う。
「いらっしゃいませ。二名様で宜しいでしょうか。」霧の後ろの席に案内された二人組を見て武尊は真顔になる。アンケート用紙の裏に書いて寄越した。
『銀狼が後ろにいる。帰るぞ。』霧もそうしたかったが、耳を澄ませて聞こえてくる声は昴だ。今目の前を通るのは嫌だ。つい数時間前にあることないこと言って帰ったから此処にいるのは不自然だ。
『僕は行けない。君だけ帰って。』武尊は首を横に振った。『黙っているのも怪しまれる。話を続けながら向こうの話も聞こう。』聴覚が優れているとは言っても楽なことではなかった。
「あれほどの深手を負ったにもかかわらずNは生きていたと言ったな。これを報告すればV計画は途絶えるだろう。今が大詰めなんだ。少し報告は待ってくれないか。」
「仰る意味が分かりません。あれほどの脅威を隠蔽するおつもりですか。」昴の声だ。憤慨しているようだ。
「まあそう言うな。Vが成功すればその脅威すら何とか出来るだろう。失敗してもこの世から悪人が減るだけだ。」人が死ぬってことか。平然と言っているが極悪人だな。
二人の着信音が鳴った。昴だけが開いた。「Xが現れたそうです。F高校の生徒が数人被害に遭ったようです。行きましょう。近いですよ。」二人は店から出て行った。
「武尊、Xって言うのは…。」
「オレ達みたいな奴らだ。昴が向かったから助からないだろうな。」霧は自分でも助けるべきなのか分からなかった。相手は人間を襲う連中だ。それでも今見捨てれば絶対に後悔する。助けに行こうと立ち上がった。
「待て。勝算があって行くのか。」武尊に袖口を掴まれた。
「いや、勝てないと思ったら引き返す。自分でも馬鹿だとは思うけどさ、これで何もせずに帰ったら友達が死んでたら一生後悔する。」武尊はこっそりと不気味な面を渡した。
「これくらい着けろ。オレも一緒に行くから、オレが引き返せと言ったら従うんだぞ。」武尊は支払いを済ませるとF高校に走り出した。武尊も大概お人好しなんだな。
F高校はこう言ったら失礼だが、かなり荒れている学校だ。治安は最悪で、噂によると麻薬にまで手を出す生徒が多いとか。そうは言っても未来ある若者だから見殺しにはしたくない。
現場は割と騒然としていた。暴れているのは一人じゃないな。何人か倒れている。銀狼はもう到着している。これを口封じするのは一苦労だろうな。強いようだが、不自然なほど短絡的な行動をして今にも全滅しそうだ。但し銀狼の中にも貧血とみられる症状の者がいるようだ。
「あれは救えないぜ。『狂い咲き』だ。血が足りなくて理性を失っている。状況から考えて誰か一人の吸血鬼が一度に複数の人間を吸血鬼にして自分は逃げようとしたんだろう。」わざわざ危険を冒してそんなサイコパスを助けるのは嫌だな。
そこに現れたのは昴だった。昴は朱雀を起動させると、一太刀で相手を鎮めた。武尊は感嘆の声を漏らしたが、霧は違和感に気付いた。無駄に動きが大掛かりだ。もしかして隻眼だから距離感が掴めないのか。そう言えばさっきも距離を取った敵に追撃出来ずに追い駆けようとしていたな。
「もう大丈夫です。この中で怪我をされた方は此方までお願いします。」
嫌な予感がする。まだ吸血鬼は逃げていない。何かする気だ。油断している銀狼を生徒が襲った。だが彼らは別に吸血鬼化しているわけでもないようだ。何故か無差別に周囲の人を襲っている。霧は吸血鬼の女性が逃げ出すのを見た。暴れ出した生徒は目が血走っている。これもあの吸血鬼が引き起こしたのか。どうやって?霧は俄然興味が湧いてきた。
昴は逃げた吸血鬼を一人で追い始めた。これではあの女性の命は風前の灯火だ。霧は武尊に目配せして追い駆けた。暴れている生徒は銀狼が沈静化するだろう。昴はゆったりと追っている。相手が人気のない場所に移動するのを待つつもりかな。
人気のない路地裏で昴は攻撃した。武尊が横槍を入れる。昴はすぐに此方を見た。目が合った。霧は深呼吸すると手持ちの射干玉の血を呑んだ。昴は此方の出方を窺っている。速い。身体能力が上がっているのに、昴の動きを注視してようやく対応出来る速さだ。女性は昴が戦っている隙に逃げようとしたが、昴は許さなかった。霧も逃がすために来たわけではない。
結局女性は逃げることを諦めたが、戦闘に加わりもしない。消耗しすぎたのかもしれない。二対一の争いになった。思ったより昴に勝てそうだ。相手が長時間朱雀を使いすぎているからかもしれないが、全く引けを取らずに戦えている。特に霧の強さは目を見張るものがある。
「お前は何者だ。そんなに強い個体は今まで見たことがない。しかしその若さで吸血鬼になれるはずがない。」昴が言った。
霧は何も言わなかった。顔どころか声も知られているのだ。迂闊に答えると後々厄介なことになる。自分が優位に立っているわけでもないのに軽口を叩くのは自分の首を絞めることになる。
霧は技の多様さと正確性では昴に敵わないことを瞬時に悟った。自分の方が一撃の威力が高いことと防御力が高いことも。武尊は状況判断力と決断力が優れている。霧は武尊の指示に全面的に従うことを決意した。相手は掠り傷一つ負っていないが、此方も傷は浅いのですぐに治っていく。
武尊が目をくらませた瞬間を狙って霧は昴の死角となる右側から攻撃した。昴は防御したとはいえ負傷した。霧は追撃しようかと思ったが、武尊は止めた。すんでの所で昴の攻撃が霧から逸れた。傍にあった電柱が折れた。明らかに先程の昴とは違う。
「真祖でもない吸血鬼二人で俺に朱雀の第二段階を使用させたことは認めてやる。特にそっちの黒髪。」鬼気迫る迫力にいたたまれなくなったのか、吸血鬼の女性は実に愚かな選択をした。その場から逃げ出したのだ。
「待て!」霧は叫んだ。もう庇いきれなかった。その女性はあっという間に朱雀の生贄となった。灰になってしまった者のために時間を無駄にして唯一の逃げ延びる機会を失うわけにはいかない。霧と武尊はその場から飛び去って、仮面を脱いで人ごみに紛れた。
「助かった…のかな。」霧は息を切らして囁いた。
「嗚呼。あいつも連戦の中無理に起動させた。長時間は戦えない。追ってこないはずだ。しかしあの女が死んだのは痛いな。前にオレにクスリを売ろうとしやがった。まあその件は資金稼ぎのための商売だろうが、その客があいつを逃がすかのように都合よく狂っただろう。何か仕込んだのは間違いなかったのにな。」
武尊が詳しく言ったところによると、吸血鬼は眷属の食料や輸血用の血、人間を買うため、古くから麻薬や武器の密輸、転売をしているそうだ。冷静に考えれば実入りのいい商売だ。如何に優秀な警察でも自分の血をポイントに擦り付けるだけで煙のように消え失せ、好きな場所にまた現れる奴を捕まえるのは至難の業だろう。
あの高校にいた人間が狂ったのはあの吸血鬼の能力ではなく、あの女性が彼らに売り捌いていたクスリに仕掛けがあると武尊は考えたのだった。まあそうだろうな。そこに関しては霧も同意見だ。そんな力を持った吸血鬼ならばもう少しまともな戦い方があったはずだ。
「もう僕は行かないと。バイバイ、武尊。また何処かで会えたらいいね。」
「そんなつれないこと言うなよ。オレの住所は○○町一丁目六番地だ。電話番号は―。いつでも来いよ。」霧は驚いて聞き返した。
「僕に住所を教えて良いの。もし僕が報告したらどうするのさ。」武尊はニッと笑ってこともなげに言った。
「でもお前は言わない。だろ?」霧もニヤリとした。
「まあね。」霧はすぐに会いに行こうと思った。
帰ってみると予想通り騒ぎになっていた。夜遅く出掛けて帰ってきたのは黄昏時では無理もない。楓は両親が殺されたため霧のことを相当心配していたのだろう。霧を見ると抱き付いて怪我はないか、事件に巻き込まれてはいないかとしつこく問い質した。射干玉が霧を呼んでいるので霧はやっと楓から解放された。
「それで?」射干玉はそれしか言わなかったが、霧はその不気味な赤い目を見られなかった。静かな怒りの焔が燃え上がっているのを感じたからだ。
「申し訳御座いません、陛下。実は偶然近くで銀狼が同胞を狩っておりまして。どうにも身動きが取れなくなりまして、身を潜めておりました。ご迷惑をお掛けしました。」
射干玉の両目は血のように紅く、無慈悲に見えた。霧は全て見透かされているのではないかと錯覚して真実を告白しそうになった。射干玉は霧に下がって疲れを癒すように言って、それでこの件はお仕舞いになった。
霧は楓に吸血鬼が取り引きしている麻薬についてさりげなく尋ねた。楓は怪訝そうに霧を見詰めた。霧はサッと目を逸らしてしまった。
「外で吸血鬼に会って麻薬の件について聞いたのね。そうでもなければ貴方が知るはずがないわ。私の目を見て答えてよ。違う?」
「君には敵わないな。いいかい、絶対に他の人には言わないでくれよ。」霧はこの外出中に起きた出来事を残さず打ち明けた。楓は呆れて言葉も出ないと言った表情だ。
「一番の驚きはね、天狼に会って無傷で帰ってきたということよ。武尊というのは射干玉様の双子の妹君であらせられる濡羽様のお付きね。十年前の事件で射干玉様を庇って濡羽様が逝去なさった時、傍にもいなかったから罰せられたのよ。射干玉様は彼にお会いにもならなかったそうだわ。余程ご立腹だったのでしょう。悪い人じゃないわ。力もそれなりにあるもの。」
霧は武尊の住所は伝えなかった。また会うつもりだと知られれば楓は猛反対すると目に見えている。霧は改めて麻薬の件に関して質問した。
「私の母がそれに関して何か提案して採択されたということは知っているけど、詳細は知らないわ。麻薬の保管場所は知っているけどね。嘴を挟まない方が良いのではなくて?それとも貴方はまだ人間の味方なのかしら。」楓の口調は本気でなじっているようには聞こえなかった。寧ろ面白がっている響きがある。
「楓ならば出入りしても疑われないよな。大丈夫。陛下に反逆を目論んでいるとかではないから。ちょっとした好奇心だよ。」楓は好奇心に駆られてはいないようだった。しかし霧が長々と説得すると、遂には少し見るだけということで承諾した。
霧は備品の買い出しのやり直しを命じられて堂々と外に出た。武尊に電話すると買い物を済ませた霧の所に武尊が合流した。楓に武尊のことを話したが信用置けるから心配要らないと伝えると、武尊は霧が言うなら信じると言った。
「血の匂いがするぜ。人間のものではなさそうだが。近いぞ。」武尊が言った。
匂いを辿った二人が川沿いの土手で見付けたのは一匹の野良犬だった。シベリアンハスキーだろう。棄てられたのか、かなり痩せていて肋骨が浮き出ている。肩の辺りを怪我している。他の犬に咬まれたようだ。
「これは酷いな。家から食い物と救急箱を持ってくる。霧、見てやってくれ。」
武尊は家に駆け戻った。霧は一瞬顔を強張らせたが、引き受けた。自分の手や顔に傷がないことを念のため確かめると犬に触れた。温かい。犬が咬み付こうとしたので霧は全力で手を引っ込めた。危ない所だった。
武尊が戻ってきた。犬は警戒しているのか、食料に口を付ける素振りは見られなかった。手当だけすると二人はその場を立ち去った。
「手慣れてるな。犬を飼ったことがあるのか?」
「子供の頃少しね。はい、お仕舞い。」霧は包帯を巻くと立ち上がった。
有難いことに武尊はそれ以上訊かなかった。二人ともその犬を連れ帰って飼えないし、病院に連れていけないのは明白だった。しかしこの怪我では餌を摂ることなど出来ないに違いない。二人は交互に餌をやることに決めた。夕方七時頃に餌と水を持ってくることを約束した。
最初は吠えてばっかりだった犬も通い詰めると足音を聞いて尻尾を振って出迎えるようになった。元々飼われていたのだろう。人に馴れるのが早い。すっかり毛艶も良くなって、凛々しい顔立ちが見て取れるようになった。武尊のアイディアで、その犬はレイピアと呼ぶことにした。諸刃の剣か。カッコいいな、と思って即決した。
「最近何処をほっつき歩いてるの。また厄介事に首を突っ込んでいるんじゃないでしょうね。」
「とんでもない。此処は息が詰まるから散歩しているだけだよ。誓って何も面倒は起こしていないさ。」少なくとも今のところは、と思ったが、それは心の中に止めた。楓は妙に勘が鋭い。
次の日に餌をやりに行った霧は呆然とした。いない。レイピアが消えた。霧は周囲を見回って、何度も名前を呼んだが返事がない。霧は不安に襲われた。武尊に来てもらった。武尊も心当たりがないという。武尊の考えは前向きなものだった。
「誰かが家に連れ帰って飼ってくれたんだろう。きっと保健所の職員は最近手当てされた犬なんて連れていかないさ。あいつの幸せを祈ろうぜ。」そうかもしれない。レイピアはかなり人馴れし始めていた。それを見て飼おうと思った人がいるのかもしれない。そうでないと言える根拠もないし、いずれにせよレイピアのために二人が出来ることはここまでとしか思えない。
「今日は元気がないわね。何かあったの。」
「まあね。でも誓って面倒な話は生じていないから。内緒で捨て犬の世話をしていたんだけどいなくなったってだけ。」
楓も親切な人が飼ってくれたに違いないと慰めた。そうだとしても情の移った犬が突然いなくなるのは辛いことだった。
霧は放心状態が続いたので、けじめをつけるために餌をあげていた時間にレイピアのいた場所に向かった。鳴き声が聞こえた気がして、首を振った。あまりに未練がましいぞ。ところがその鳴き声は段々強まっていった。まさか。
見覚えのある凛々しい顔のシベリアンハスキーが走ってくる。赤い首輪に長いリードをしているが、飼い主はいない。霧に気付いて飼い主を振り切って駆けてきたようだ。
レイピアは千切れんばかりに尻尾を振ると、霧の顔を舐めまわした。霧は顔中綻ばせて喜んだ。だが後ろから飼い主と思われる人の声が聞こえた瞬間、霧の幸福感は消し飛んだ。そう、その声の主は全ての吸血鬼の畏怖の対象である青年、天狼の昴だった。
「あれ、君は確か…桧君だったかな。奇遇だね。」何で律儀に覚えているんだよ。まさか全部知っていて泳がせているのか。
「覚えていて下さったんですね、昴さん。その子は貴方が飼っていらっしゃるんですか。」レイピアは昴の方に戻っている。
「そうさ。シリウスって名付けた。どうやら君が世話してくれていたようだね。ありがとう。生き物が好きで怪我していたから引き取ったのだが、もし君が飼うなら返すよ。」
天狼か。確かにぴったりじゃないか。霧は丁重に断ると、引き取ってくれたことに関して礼を言った。昴は雑草の上に腰掛けた。促されるままに霧も昴の右に座る。
「先日は怖がらせて申し訳なかった。改めて名乗ると俺は吸血鬼対策課の昴という者で、あの時俺と戦った仮面の男は吸血鬼だった。本当は極秘なんだけど、君は完全に見てしまったからね。」
その仮面の男は射干玉様の右腕である耕一と言う大物なのだが、昴がそこまで知っているのかは分からない。霧は不躾かもしれないと思いつつも質問した。
「失礼ですが、その左目は義眼ですよね。やはり…その…吸血鬼に…。」そんなことを訊いても意味などないが、このままだと人間らしいリアクションが出来ない。初めて吸血鬼の話を聞いた時でさえ普通の反応が出来なかったのだから。
「嗚呼、これね。十年前にやられた古傷さ。この仕事は何かと危険が付き物でね。」昴は少し悲し気な表情になった。
「それでもその仕事を続けるのは何故です?吸血鬼なんてほっといても問題ないのでは?今まで噂にならなかったってことはそこまで脅威でもないんでしょう。」霧は少し意地悪な質問をぶつけた。
「君は結構核心を突くね。そうだよ。吸血鬼は唾液に含まれる成分の中に人を死に至らしめるものがあるに過ぎない。此方側の理解さえあれば共存だって不可能ではない。でもね、それはあり得ない。この秘密が公になれば若いうちに吸血鬼になってしまいたい人の増加、吸血鬼の軍事利用、様々な問題が生じるだろう。吸血鬼は絶やさねばならないんだ。」案外真面目な話に怯んだ。
「馬鹿なことを訊きました。では…全く人を害さず、細々と暮らす吸血鬼にも生きる資格はないものでしょうか。」昴の右目が物問いたげに見詰めている気がして、霧は疑われたかとドキッとした。
「正直に言えば、一人一人に抱えている事情があるのだろうと悩むことはある。だが俺はそれを判断して良い立場にない。上の指示に従うさ。」
霧は足元の花を無意識に握り潰した。自分の方こそどっちつかずな態度を取り続けている。これが彼の正義か。霧には彼を殺す覚悟はないことが自分でもよく分かっている。特にこうして話をしてしまった今やそれは不可能だ。
「貴重なお話を有難う御座いました。シリウスも元気そうで良かったです。」霧はシリウスを撫でた後、昴に右手を差し伸べた。昴は霧と握手すると帰っていった。霧も吸血鬼の世界に帰った。
「そなた、近頃何処に行っておるのだ。」霧は飲んでいたコーヒーを盛大に噴き出した。むせながら返事する。
「申し訳御座いません。少し人間界が恋しくて散歩しているだけです。」射干玉は目付きだけで人を殺せるというくらい恐ろしい瞳で見詰めている。
「余に嘘を申すとは命知らずよの。誰におうた。隠し立てするとためにならぬぞ。」射干玉は霧の顎を上げた。緊迫感に耐え兼ねた霧は話し始めた。「実は…。」
「私が密かに稽古をつけていたのです、陛下。」楓が割って入った。射干玉は楓の方を睨んだ。
「ほう…。まことか。」射干玉は考え込むと言った。「さすればその成果を見せてみよ。耕一、相手してやるが良い。手加減は無用ぞ。」
皆は競技場に移動した。ルールは単純明快。どちらかが場外に出るか降参するまで戦うこと。霧はここで負ければその後無事で済まないことは分かり切っていた。耕一の戦い方は昴との闘いを見て少し分かった。無駄な攻撃は最小限にして、隙を見て一撃で仕留めるつもりだろう。
やはり攻撃がいなされる。昴より弱いのに決定打に至らない。それでも霧が圧倒的に優位なのは誰の目にも明らかだった。耕一が霧の攻撃を避け切れずにもろにくらった。その隙に霧は大技を準備した。
「それまで。そなたの勝ちだ。楓よ、そなたは善き師匠となったようだな。礼を言おう。」途中で止められた。霧は不服だったが、取り敢えず助かったことに安堵した。
「それにしても粗削りなのが惜しいの。余が鍛え直してやろう。」全然助かっていなかった。霧は顔を引きつらせながら礼を言った。
「そなたは一度に操れる血の量が並みの吸血鬼の倍はある。気付いておらぬようだがの。それでいてスタミナもあるようだ。ただ、その膨大な力を使いこなせておらぬ。宝の持ち腐れというものだ。見よ。」
射干玉は和紙と普通の紙を重ね、十メートル先から攻撃した。和紙は八つ切りになったが、もう一枚には傷一つない。何と繊細な技だろう。
「若者はせっかちになりがちだが、これくらいの精密さを身に付けずに破壊力のある技を習うは赤子に爆薬を預けるようなもの。焦らずに基本を身に付けるが良い。小手先の技などなくともそなたは十分戦えよう。」
楓から習った時の三倍も時間が掛かった。しかし競技場を大破させた訓練よりも一枚の和紙を裂いた訓練の方が後々まで役立った。射干玉はおまけのように真祖くらいしか使えない技を伝授した。霧はその技の成功率は一%にも満たないほどだったが、焦って台無しにすることはなかった。
「それにしても奇怪よな。そなたはほんに鬼之血か。余や余の妹が眷属だった時は斯様な真似は少しも出来なかったぞ。」訊かれても困る。鬼之血という情報も射干玉から聞いたに過ぎない。
朝は自分の血の検査結果を知っている。銀狼の一員だからおいそれと尋ねる訳にいかないが、連絡を取れば詳しく分かるはずだ。
「確かに射干玉様の仰る通りよ。私にも今の貴方くらいの力があったら自分の家族を救えたはずだわ。そう言えば貴方の家族はどうしているの。」楓は訊いた。
「血の繋がった家族はいない。僕は孤児なんだ。」
「…そうなの。ごめんなさい。辛いことを思い出させたわね。」楓は申し訳なさそうに言った。
「僕が桧山家の戸口に棄てられていた時、ほんの赤ん坊だったから実の両親のことは何も知らないんだ。その日はとても霧が濃かったそうで、お義母さんは僕を霧と名付けたらしい。」霧は語り出した。
桧山夫妻には既に十歳になった実の息子、朝がいた。だが施設に預けられればその赤ちゃんは愛情に飢えた暮らしを送るだろうと思うと、それに耐えられなかった。家族全員がその子を養子として迎え入れることに賛成した。そしてその子には養子であることは告げず、実の子として育てた。実際偶然にもその子は朝にどことなく似ていた。小さい時から桧山家で育ったためかもしれない。平和な家庭に事件が巻き起こったのは子どもが五歳になった時だった。
その当時桧山家には二人の息子の他、もう一人家族がいた。一人という数え方は決して適切ではないだろう。ペットの犬が一匹いたのだ。愛くるしい秋田犬で、人懐っこい性格だった。名前はスマイリー。家族は皆その犬を可愛がっていた。勿論霧も含めて。その日霧は懸命にその犬に芸を仕込もうとしていた。初歩の芸、『待て』である。五歳の男の子の忍耐力は底が浅く、思い通りに動いてくれない犬を少年は軽く打ったのだ。
訳も分からず打たれたスマイリーは少年に咬み付いた。決して重傷ではないが、少し血が滲み、霧は大声で泣いた。泣き声に気付いた家族が血相を変えて駆け寄ったのは霧を心配した訳ではなかった。スマイリーは口から泡を噴いて苦しそうにのたうち回っていた。すぐさま獣医に連れて行ったが、手の施しようもなく死亡した。奇妙なことに毒の類は一切検出されなかったらしい。
泣きじゃくる子どもから詳しい状況を聞き出すのは容易ではなかった。事件の全貌が分かると、どうにもこの子は普通の人間ではないと結論付けない訳にいかなくなった。病院で詳しく検査しても普通の人間と何ら変わりないとの回答だった。一般的なAB型のRHプラスだという。
生き物に霧の血を与えると、どんな少量でも死に至った。その事実を全く公表しなかったし、実験も殆ど行わなかった。しかし怪我したら必ず自分で完璧に処理するようきつく躾けられた。珍しい血について調べていくうちに、吸血鬼の存在を知った。朝は自分の進路を変えて吸血鬼に関する研究を行える施設に就職を決めた。桧山家の人々はそれ以前と変わらずに接してくれていたが、霧の態度はどんどんよそよそしくなっていった。
このような経緯があったからこそ霧は急に拉致されて眷属にされたにもかかわらず、一向に逃げ出して家族の元に帰ろうだと言った素振りがないのだ。元から此方が自分の暮らすべき世界だったのだと思ったのだ。
「ちょっと待って。」楓は遮った。「それはおかしいわ。鬼之血だろうがちょっと舐めた程度で生き物を殺すような代物じゃないわよ。そんなの聞いたこともないわ。」霧は朝に自分が何者なのか訊くことを決意した。
「そう言えば、麻薬の件はどうなったの。」霧はふと思い出した。楓は辺りに人がいないことを確かめてから声を低めて言った。
「それこそごく少量の吸血鬼の血が含まれているのよ。あれを呑み続ければ皆眷属に近い状態になるでしょうね。かなり流通しているから銀狼と人間界で戦うとしたら良い手駒になるわ。銀狼は人間を攻撃してはならないことになっているもの。」
「マインドコントロールみたいなものか。酷いじゃないか。」楓に言ってもしょうがないよな。楓も困ったように笑った。
「ええ、そうね。でもはなから薬物に手を出すような人よ。流石にここまでの事態になるとは予想していないでしょうけど、理性を無くすことは覚悟の上なのではなくって?」こうして良心は麻痺していくのか。悔しいことに霧も強く否定は出来なかった。
後日、霧は買い出しを任されたため、堂々と人間界に行き、すぐに近くの公衆電話で朝のスマホに電話した。丁度朝も時間があったようで、一回で出てくれた。
「もしもし、桧山です。」
「僕だよ、朝。元気?」電話口から息を呑む音が聞こえた。お互いに手短に現状を報告し合った。朝は何と天狼の素質があったそうだ。霧にとっては嬉しい知らせとは言い難かった。霧は本題に入った。自分の正体について尋ねると、言いにくそうに伝えた。
「今は詳しく教えられない。だが、鬼之血ではない。もっと希少な『始祖』という存在だった。これを知られたらお前は無事では済まない。決して他の吸血鬼に伝えないでくれ。まだ始祖として覚醒していないようだな。手遅れになる前に銀狼に来てくれ。お前の身の安全は僕が責任を持って保証しよう。」
「ありがとう。でも出来ない。こっちに友達もいるし、皆を裏切ることは出来ない。」朝は何か言いかけたが、気が変わったらしく途中でやめた。そのまま通話を切った。
一層謎が深まった。霧は考えた挙句、武尊を呼び出した。自分が始祖だと伝えずに始祖の情報を聞き出せばいい。武尊は他の吸血鬼との繋がりもないから安全だろう。二人は近くの公園に行ってベンチに腰掛けた。暫し雑談したのち、霧は何気なく訊いた。
「真祖と言えば、何処かで真祖に似た言葉で始祖って聞いたんだけど、聞いたことある?」
「嗚呼。神話みたいな存在だぜ。吸血鬼の血だけを吸って生きる吸血鬼だったかな。オレらと違ってそもそも人間ではなくって、何処からともなくやってきて人間に化けているってさ。実際にその姿を見た人間も吸血鬼もいないらしいから単なるデマだろうさ。一番古い吸血鬼でさえ知らないみたいだからな。」
確かにこの話を聞く限り吸血鬼にバレたら大変なことになりそうだ。人間に吸血鬼だとバレた時と同じことになるだろう。しかし色々と納得がいく。他の吸血鬼に比べてかなり強いのは彼らを捕食する側だからだ。朝の言う覚醒を迎えたらもっと強くなるのかもしれない。そうしたら楓や武尊も平気で殺す化物になるのか?
「ふーん、もう一つ聞いたんだけど、君は元々濡羽様という方のお付きだったって?」
「まあな。多分意識的に目の色も隠していたみたいだが、実は射干玉様と瓜二つの顔立ちで、ただ性格だけは正反対の方だったよ。物静かでお優しい方だった。射干玉様は常々本当は濡羽様の方がお強いと仰せだったが、オレには信じられなかった。だから命令に逆らってまで戦闘に加わるとは思わなかった。十年前の事件をきっかけに追放されたが、射干玉様は私情で動くことは決してない方だ。直接会って弁明の機会を与えることもせずに追い出してしまわれるとは、余程妹御の死が哀しかったのだろうな。」
話を冷静に分析した霧はある可能性に気付いた。何故他の人は思い当たらないのだろうか。そう考えれば武尊が追い出されたことも納得いく。武尊だけがこのからくりに気付く恐れがあったのだ。
「もし…十年前に亡くなったのが実は濡羽様の方ではなく、射干玉様の方だったら?今射干玉様と名乗っているあの方が実は濡羽様だったら?顔立ちもそっくりな上に、身近にいた君は追い出した。あり得ない話ではないはずだ。」武尊は露骨に顔をしかめた。
「つまり…お前は濡羽様が兄上の死を偽装してその権力を奪ってのうのうと暮らしていると、そう言いたいのか?」静かな口調なのがかえって本当に怒っていることを示している。
「あ、いや…そうじゃない。濡羽様のことをあまり知らないのにこんなことを言うのは失礼だろうが、射干玉様は最後の真祖なんだろう。その方が亡くなったとあれば吸血鬼の皆は混乱に陥る。それを避けるためじゃないか。あくまでもただの勘だから、気に障ったのなら謝るよ。」
これはまずかったな。去り際も武尊は不機嫌さを隠しているように見えた。成る程、その発想はなかったが、濡羽が成り済ましているとすれば反逆罪を問われても仕方ない立場だ。しかし濡羽が故意に兄を殺して成り代わったというのは考えにくい。もしそこまで冷徹な人ならば武尊を生かしておくのは大失態だ。霧がそうだったように入れ替わりの秘密に気付く人が現れる可能性が高い。兄のことは憎んでいたが、武尊には好意を寄せていた可能性もあるが、いずれにせよ計画性は低い。
帰った霧は射干玉(或いは濡羽)の顔をしげしげと眺めた。綺麗な顔立ちで、少女だと言われればそう見える。この年齢の子どもが本気で性別を隠したら見分けがつかない。声は高いが、変声期前の少年の声の高さは侮れない。
それから数日間は何事もなく過ぎていった。それは嵐の前の静けさというやつだった。事件が生じたのは突然だった。町中に警報音が鳴り響いたのだった。楓はそれを聞くなり仮面を着けて、霧にもすぐにそうするように言った。霧は訳も訊かずに従った。楓は霧の手を引いて外に出た。そこで霧が目にしたのは銀狼の集団による一方的な殺戮だった。
「戦ってもきりがないわ。逃げましょう。」霧は行きたい場所を思い浮かべようとした。しかし後ろから声がして邪魔された。集中が途切れると移動出来ない。
「お前の相手は僕だ。」朝だ。霧は楓に先に行くように言って朝に斬りかかった。
「朝、まさか密告したのか?僕の通話した場所からここを突き止めたなら見損なったぞ。」朝は黙るように合図すると霧を連れて行こうとする。霧は頭に来て朝に攻撃した。
「悪かった。後で謝るから、今は僕と一緒に来てくれ。お前は状況が分かっていない。」朝が思っているよりは分かっているさ。だからと言ってこれはあんまりだ。自分一人のために他の吸血鬼を皆殺しにするつもりはない。
霧は無視して朝と戦い出した。射干玉との訓練の成果は着実に表れている。
「朱雀の第二段階は使用しないのか?このままだと負けるぞ。」軽口を叩いたが一向に起動する気配がない。使えないのかな。気絶させれば他の銀狼が面倒を見るだろう。あまり痛くないように狙いを付けた。
「桧山さん。」誰かが叫んで霧の攻撃を防いだ。他の銀狼の存在を忘れていた。厄介だ。霧は一回冷静になって辺りを見渡してみた。射干玉は一人で昴と蜥蜴を同時に相手している。流石だ。楓は何処かと見渡して、銀狼に囲まれているのを発見した。負傷も多い。霧は朝を雑にあしらうと楓の所に駆け寄った。
霧は単騎で銀狼の真っただ中に飛び込んだ。少し負傷したが問題ない。楓の所に辿り着いた。霧は相手を殺し兼ねない技は使わなかった。楓にはそんな余裕がないようだったが。少々手こずったが包囲網から抜け出すことは出来た。
「僕は射干玉様を助けに行こうと思う。(必要ないかもしれないけど。)君は怪我が酷いから此処で脱出してくれ。」あまり楓は賛成していないようだが、議論する気力もないようだ。
「…ええ。気を付けて。」楓はスッと消えた。良かった。これでひとまず無事だ。
射干玉の元には耕一がいた。相手も天狼三人(うち二人は朱雀を第二段階で使用している。)と銀狼数人だ。逃げ出す吸血鬼が多いせいでどんどんこっちに加勢する銀狼が増えてくる。二人に消耗の色が見えてきた。霧も頭痛と倦怠感に苛まれ始めた。
「腕まで失ったあの深手でよくも生きていたと思ったが、そこまで弱くなったのでは最早脅威ではないな。一人で朱雀を二つ鎮めたあの力はもうないようだ。」蜥蜴は挑発する余裕がある。このままでは三人ともやられるのは時間の問題だろう。
「霧、陛下を連れて此処から逃げろ。」射干玉は耕一を叱り飛ばした。
「配下を犠牲に生き延びるつもりはない。余が逃げるのは一番後だ。」霧は耕一の案に賛成だった。他に吸血鬼は残っていないようだし、皆の希望となる真祖は何を犠牲にしても生き延びるべきだ。真の支配者ならば、そうするべきだと思う。今死んでも敵に厄介な武器を贈呈するだけに違いない。
「霧、行け!」射干玉にその意思がないのに強引に連れ出すのは容易ではなかったが、耕一が時間を稼いでいる隙に射干玉を掴んで人間界に引きずり込んだ。
非常時用の支部がいくつか人間界に存在するのは知っていた。射干玉を連れてきたのはその中でも最大の地下シェルター付きの施設だ。射干玉は壁を思いっきり殴った。歯軋りしているのが見える。
「こうしている場合ではないな。安否確認をせねば。固定電話から掛けよう。そなたも手伝え。」支部に一軒一軒電話して名簿を作成するという地味で気の長くなるような作業を続けた結果、かなりの被害があったことが判明した。備え付けの冷凍庫に血液のストックがあるから当分引き籠っていても大丈夫だが、食糧問題もある。
射干玉と二人きりで生活するのは不安が大きかった。冷凍食品は血液より早いスピードで減っていく。買い物に行かなくては。射干玉は黙々と作業に耽っている。何を考えているのか分からないな。
濡羽が考えていたのは兄についてだった。幼くして二人とも吸血鬼となって以降、事あるごとに濡羽は射干玉に護られていた。濡羽は他人と関わるのが怖くて仕方なかった。長い間兄以外の誰にも心を開かなかった。兄も濡羽につきっきりで面倒を見ていた。しかし兄は或る日先代から真祖の力を継承することになる。吸血鬼全員のことを考えて行動せざるを得なくなった兄は濡羽に構うことが出来なくなった。濡羽にはお付きが与えられた。
長らく平和な時間が続いたが、その間も人間の技術革新は留まることを知らなかった。不思議な武器にやられる吸血鬼がちらほらと現れ始めていたが、対策が立てられずに時は流れた。吸血鬼の血から武器を作っていると突き止めた頃には真祖にすら数を頼みに渡り合える存在になっていた。射干玉以外の真祖は他の吸血鬼から隔離されて狩られてしまった。
その時までは吸血鬼は基本的にバラバラになって人間界で暮らし、重大な事件がある時だけ真祖が開いた別次元の空間に集うスタイルが一般的だった。人間は此方の正体が分かった所でどうすることも出来ない非力な存在だと思っており、自尊心の強い古株の吸血鬼は逃げ隠れするような姿勢は取りたくなかったのだ。
射干玉の前にやられた真祖の配下から得た情報で、射干玉はぎりぎり対応出来た。敵の手首に嵌められた武器(特に黒いリングを重点的に狙った。)に執拗に攻撃することで二振りの朱雀を壊した。これがなければ今頃吸血鬼は一網打尽にされていたはずだ。
その戦いがあった時、濡羽以下の吸血鬼は吸血鬼だけが入れる空間にいた。その当時のお付きは武尊という義理人情に厚い好青年で、射干玉からの命令を遵守して濡羽が助けに行かないように見張っていた。古い吸血鬼は人間が何人群れようとも吸血鬼が複数で戦うのは恥だと思っていた。特に真祖という立場のある射干玉は一人で戦うしかなかった。
濡羽は言う通りにすると言って武尊を部屋から追い出すと、射干玉のいる場所に向かった。吸血鬼にとって最後の希望である兄が老害の戯言を気にして亡くなるかもしれないと思っただけで、いたたまれなかった。
その場は既に凄惨な有様だった。血の海に立っている黒髪の少年はすぐに人間数人分の血を呑まなければ命に係わるほどの重傷を負っていた。鬼気迫る姿でさらに死屍累々の光景を作り出していく様は畏敬の念を抱かせた。濡羽は銀狼数人を屠った。それが初めて感じる肉を切り裂く感触だったが、恐ろしさは怒りに封じ込められた。
これによって戦局は覆った。朱雀二振りを失ったことと天狼二人の負傷、おびただしい死者を出してようやく追い詰めたと思ったら新たに無傷で怒り狂った加勢が来たのだ、如何に相手が瀕死と言えども士気が上がるはずもない。
濡羽はあまりに感情的になったせいでいくらか敵の攻撃を受けたが、それでも何事もなかったように敵を手にかけた。蜥蜴は撤退の指示を出した。射干玉は心臓付近に深手を負っている。苦しい息遣いで手近にある死体から紅華を奪って寄越すように頼んだ。濡羽はすぐに従った。
「時間がないから…これで代用する。手を…。」濡羽は射干玉が差し伸べた紅華の反対側を掴んだ。「真祖射干玉、祖宗より預かりたる真祖の力を…かの者に譲渡する。」濡羽は紅華が熱くなっていくのを感じた。その熱いものは濡羽の体内に流れ込んだ。
濡羽は射干玉が死を覚悟して力を譲っていると気付き、手を放そうとしたが、自分の意志では止められなかった。紅華は益々熱くなり、表面には小さなひびが入り始めた。そしてもう少しで力の全てが受け渡されるという段になって音を立てて紅華は砕け散った。
「やはりこのようなまがい物では限界か。」射干玉は深く溜息を吐いて目を閉じる。「余はこのまま眠りにつく。そなたは真祖として吸血鬼を束ねよ。…そして、朱雀を一つ奪って、そなた自ら余を起こしに来るのだ。この傷を回復するにはもっと安定して力の受け渡しが出来る媒体が必要だ。出来るな?」
濡羽が涙ながらに頷くと、射干玉の身体は力を失って倒れた。濡羽は涙を拭うと熟考を巡らせた。真祖が重体で意識不明となれば吸血鬼は自分に忠誠を誓いはしないだろう。そうなれば人間に容易く狩り尽くされる。彼らは濡羽でなく真祖の射干玉が凱旋することを望んでいるのだ。その瞬間恐ろしい思い付きが浮かんだ。服を交換して赤い瞳の色を隠すための眼鏡を外し、髪を解いて態度を改めれば、自分が射干玉でないと気付くのは武尊くらいのものだろう。
その宵、人々が見たのは、ぐったりと動かない血塗れの濡羽を抱えた射干玉の姿だった。射干玉はもう少しで負けそうだった自分を妹が命懸けで救ってくれたと言い、皆の前で力強く宣言した。
「余はこの目で人間共の卑劣さを見た。奴らは勇ましく名誉の死を遂げた同胞の血を用いて我らを狩るためのおぞましい武器を作ったのだ。余は自らそのいくつかを破壊したが、奴らの数の多さの前に屈した。我らが力を合わせてこの暴挙に立ち向かうは決して我らが汚点とはならぬ。それは同胞の力の強さを認めることにはなっても、決して盗人の誇りとはなり得ぬからだ。立ち上がれ、勇敢なる我が同胞よ!余に従え!」
濡羽の最初の演説は大成功だった。返り血に塗れて哀しみに打ちひしがれているのに、それを武器に変えて吸血鬼を一つにまとめ上げたのは見事としか言いようがなかった。濡羽は人前に立つのは大の苦手だったが、その時は様々な感情が入り混じって緊張などという余計なものは入り込む余地がなかったのだ。
濡羽は射干玉に上手く成り済ませるかの方が問題だった。最初の数日は傷を言い訳に誰にも会わずにやり過ごした。射干玉のくせや話し方の練習をし、胸にはさらしを巻き、武尊には本当に申し訳ないと思いつつも傍から追い払った。
あれから十年間、一向に気付かれる気配もなく、支配も手抜かりないと思っていた。だが、このままでは吸血鬼が根絶やしにされる日も遠くないかもしれない。今手元にある切り札は信じられないほどの強さを持ったこの少年以外にない。眷属でもここまで強いならば、吸血鬼になれば間違いなく一大戦力となる。決断の時かもしれない。