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朱い霧  作者: 馬之群
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黒金の館

 桧山霧はごく普通の中学生に見える。グレーの髪に優しそうな瞳。少し背は低めで、性格は穏やかだ。朝起きた霧は私服に着替えた。リビングに下りてテレビをつけた。最近はずっと同じニュースが流れている。

 「…市に住む二十代の女性三人が行方不明になりました。」これで何人目だろうか。近頃こんな報道ばかりだから、数日後にはこの人たちとすれ違っても気付かないだろう。

 霧は小さく欠伸すると郵便受けに向かう。夏休みなので家にいる人が多い。二通の郵便物が入っていた。一通は恐らく暑中見舞いの葉書で、もう一通は厳重に封をしてある封筒だ。どちらも霧宛のものではなかったので家に帰る。

 リビングには桧山朝がいた。グレーの髪に頭の良さそうな顔立ち。実際かなり朝は頭が良いのだ。朝は大学院を出て研究職に就いている。それでいて運動神経も良いという非の打ちどころのない人物だ。霧は朝に向かって封筒を放った。

 「はい、朝。理絵さんは上?」朝はそうだと言うと早速開封し始めた。霧は理絵さんの部屋の前に立つと軽くノックした。

 「理絵さん、葉書が届いていたから本棚の上に置いておくね。」突然部屋のドアが開くとぼさぼさの髪を振り乱した四十代の女性が現れた。可愛らしい猫の柄のパジャマを着ている。

 「ありがとう。今トーストを焼くわ。父さんは起きている?」霧はまだだと答えてリビングに戻った。リビングでは朝が首を捻っていた。

 「どうしたの?」霧は朝の隣に座る。

 「研究所から送られてきたデータが変な値なんだよなぁ。測定ミスだと良いけど万一ってことがあるからもう一度文献を漁るか。」

 テレビのニュースは銀狼と呼ばれる一団の話になっていた。彼等は白い制服を着た一種の警察のようなものだと少なくとも霧は思っている。きっと自衛隊みたいなものだ。インタビューを受けている男性は茶色の猫っ毛で見るからに癒し系の人物だ。テロップによると理絵さんと同級生らしいが、かなりの童顔だ。

 「我々銀狼は国家権力です。設立されたのは最近ですし、あまり一般に周知されていないですが、緊急時に我々の指示に従わないと公務執行妨害です。」

 「食事中はテレビを消すこと。本も読まない。新聞もね。」理絵は両手にバタートーストの皿を持って現れた。いつの間に着替えている。髪はセットする余裕がなかったようだが。

 「母さん、日本人の朝食はご飯に決まっているじゃないか。こんなものじゃ腹が膨れないよ。」ぶつくさと文句をつけるのは五十代の少し腹の出た男性、広志さんだ。髪が薄くなりつつあることが悩みらしい。

 「それ以上腹を膨らせる必要はないでしょ。朝、研究は食後にしなさい。霧が食べられないじゃないの。」霧は苦笑いした。桧山家で理絵さんに敵う人はいない。広志さんはママレードの瓶に手を伸ばした。

 「そう言えば、霧、三者面談は来週だったな。」広志さんはトーストをかじりながら言った。

 県内有数の名門校に進学した朝と違って、霧の成績は中の上といった程度。県立高校には行けるだろうが、あまり上は望めない。桧山家の皆はそんな霧を責めることもなく、行きたいところに行かせてくれるらしい。

 霧はコーンスープを啜った。食事が終わって朝が黒いソファに沈んで本をめくっている時に霧は隣に腰掛けて話し掛ける。

 「ねえ朝、暇だったら一緒にゲームしない?先週買ったばかりの新作があるからさ。」朝は暇じゃないと苦笑いしながらも明日一緒に遊ぶことを約束した。

 霧は友達と外に遊びに行った。そのうち夕方になった。霧は友達と別れて人通りの少ない路地を歩いていた。膝を擦りむいていて早く手当てしたいと思っていた。一瞬後ろから風が吹き抜けて、蝉の鳴き声が止んだ。霧はその場に立ち止まる。

霧は何とも言えない嫌な予感に襲われていた。何度も後ろを振り返る。霧は駆け出していた。足音が迫る。追い付かれる…。霧は思い切って振り向いた。

そこにいたのは不思議な人物だった。年の頃は十一、二だろうか。今まで霧が見た中で一番美しい真っ黒な長髪に、人を見下すような真っ赤な瞳。ニッと笑った口には牙のような八重歯が覗く。霧は本能的にそれが人間ではないこと、簡単に人間を屠れる存在であることを察した。霧はその赤い目を見た途端に恐怖で脚が動かなくなった。

「逃げぬのか。聡い奴だな。話が早い。余と共に来い。そなたに選択肢はない。」目の前の人物は尊大な態度で命じた。声は見た目の歳相応の高さだが、背筋を凍り付かせる。

霧の脚はゆっくりと前に動き出していた。目の前の人物は一切表情を変えることなく待っていた。不意に目の前の人物は視線を霧から逸らした。霧は暗示が解けたかのように脚が動くようになり、走って家に向かった。後ろから足音は聞こえなかったが、振り返るつもりはなかった。

「どうしたの?そんなに慌てて。」霧は理絵さんに先程の出来事を早口で説明する。理絵さんは警察に通報しようかと言っているが、それを掻き消すかのように朝の大声が響いた。これは実に珍しいことだ。実際のところ、朝は何があっても声を荒げない人だ。

「今すぐに荷物をまとめて此処を出るんだ。後で説明する。」朝がこのように言う時は従うべきだということは全員が分かっている。そうでなくても霧が危険な目に遭ったのだから。暫くすると全員が各々の荷物を持って玄関に集っていた。

四人はワゴン車に乗り込み、広志さんはエンジンを掛けた。おじさんの家の方角だろうか。暫く四人は無言だったが、広志さんが言った。

「駄目だ。後ろのトヨタにつけられている。あれは撒けないぞ。」霧は朝の顔を見た。朝は顎に手を当てた。

「この車を乗り捨てて四方に散ろう。捕まったらマズいのは一人だけだ。」

「…僕でしょ?」霧は俯いた。家まで捨てて来たのに自分以外はその必要がなかったと知って申し訳なさでいっぱいだった。

「霧、何があっても逃げるのよ。私たちは大丈夫だから。」

四人は人の多い道の駅の駐車場で車を乗り捨てた。霧は出来るだけ人通りがない道を選んで駆け出した。公衆電話でおじさんに迎えを頼めれば何とかなる。上手いこと追っ手はばらけてくれた。もう少しだ。この角を曲がれば…。その瞬間、足に痛みが走った。

撃たれた?まさか。此処は日本のど真ん中だぞ。霧が振り返ると、異様な光景が広がっていた。追っ手は右手首に銀色のリングを付けている。そこから血の色の触手のような物体が伸びていて、霧の足を貫いていた。

「何故僕を襲うんですか?」相手は三人だ。だが、全員がリングを嵌めている。逃げ切れない。捕まったらどうなるのか予想もつかないが、歓迎されないことは確かだ。追っ手はじりじりと間合いを詰めるが、一向に襲ってこない。

「僕の血がお望みですか?」一番後ろの一人が一瞬歩みを止めた。霧はポケットからカッターを取り出すと自分の首筋に押し当てた。

「来るな。あと一歩でも近付けば貴重な血は全て地面に流れるぞ。」追っ手は全員立ち止まった。

「落ち着いてくれ。我々は君を傷付けたいわけじゃない。寧ろ保護したいんだ。誤解しているようだ。奴らの手に渡ったらそれこそどんな目に遭うか…。信じてくれ。」

霧はその人の目を見てしまった。すると死角にいた人物が触手を放った。霧は避けられないと気付いて目を瞑った。しかし衝撃が訪れることはなかった。恐る恐る目を開けるとそこには追っ手の首が三つ転がっていた。後ろに感じる強烈な威圧感は夕方のそれよりも遥かに強かった。霧は思い切って振り返った。その赤い瞳と視線がぶつかった瞬間、霧は緊張の糸が切れたように意識を失った。

霧はふかふかのベッドの上で目覚めた。朝日が窓から差し込んでいる。やたら大きくて天蓋が付いている巨大なベッドが目についた。ゆっくりと起き上がって足の痛みに顔をしかめる。羽毛布団を払い除けると包帯を巻かれた足が見えた。これでは歩けない。逃げるのは不可能だろう。

霧は自分のいる室内を見渡した。広い室内は西洋風の作りになっている。本棚には様々なジャンルの本が数百冊ほど詰め込まれている。ドアに鍵が掛かっているのかは分からなかったが、窓は内側から空きそうだ。霧は空腹感に苛まれた。前日の昼から何も食べていない。誰か呼ぶべきだろうか。手当てをしてくれたなら少なくともそこまで敵意がないと思っていいのだろう。

「すみません。誰かいませんか。」案外すぐにドアが開いた。すぐ外に待機していたのかもしれない。現れたのは三十代くらいの如何にも忠実そうな男性だ。真っ黒なスーツを着ている。

「起きたか。霧君だったね。傷はどうだ?」全くもって大丈夫ではなかったが、手当ての礼を言った。

「手当てして頂いた上にこんなことを言うのは厚かましいのですが、お腹が空いてしまって。何でも構いませんから、少し食べさせては頂けませんか。」霧は精一杯礼儀正しく聞こえるように努めた。相手は無礼だとは思っていないようだ。

「勿論だ。好きな物をリクエストしてくれ。他にも欲しいものがあれば遠慮なく私に言って欲しい。私は耕一と言って君の世話を全面的に任されている者だ。」霧は此処にいるのが大人数であるということ、長期間此処に閉じ込めるつもりであることに確証を得て一層脱出の難しさを感じた。

「ありがとうございます。それでは…オムライスを貰えますか。あと、その本棚にあるのなら『不思議の国のアリス』を。」耕一は霧の手の中に本を置くと部屋を出て行った。霧は耕一の指に触れた瞬間、その体温の異様なまでの低さに気付いた。人間ではない。

オムライスが届けられるまでにはそれほど時間が掛からなかった。ふわとろの卵はバターをふんだんに使っているのだろう、コクがあって風味が豊かだった。霧はあまりに空腹だったため、じっくりと味わう余裕もなく慌てて完食した。耕一は霧が食べている間ずっと部屋の隅で分厚い本のページをめくっていたが、霧がスプーンを置くと待っていたように話し出した。

「実に順応が早いようだが、毒が入っている可能性などは考えなかったのかな。」

「ご馳走様でした。美味しかったです。貴方が本当にそのつもりなら、僕がどんなに警戒してもなす術がありませんよ。」霧は手の震えを隠せなかった。額が汗ばむのを感じる。

耕一は高価そうな椅子をベッドの前に移動させて腰掛けた。耕一がベッドと窓の間に入ったため、霧からは外の景色が見えなくなった。

「単刀直入に言おう。吸血鬼と呼ばれる存在についてどの程度知っている?」霧はただの空想上の存在だと思っていたと打ち明けた。耕一は吸血鬼について語り出した。

「私は吸血鬼だ。人間の血を呑んで生きている。第二次世界大戦中に重傷を負った時に吸血鬼である上官が血を分けて眷属にしてくれた。その時は吸血鬼になるつもりはなかったが、終戦後、家族の元に帰ってみれば全員死んでいてね。恩人である上官に永遠に恩返ししようと思った訳だ。その上官も銀狼に殺されたから、真祖である射干玉(ぬばたま)様にお仕えしている。」

霧は半分も理解していないが、口を挟むつもりもなかったので最後まで聞くことにした。

「話が逸れたな。此処は射干玉様が支配していらっしゃる黒金の館という所だ。君を連れて来たのは君が非常に珍しい血を持っているからだ。現在地上にいる吸血鬼の中で最も濃い血を持っておいでの射干玉様は、そのあまりの血の濃さゆえに易々と血分をなさることが出来ない。相手が同化出来ないからな。一度吸血鬼にしてしまえば成長が完全に止まるから、成人前の子どもを吸血鬼化するのは禁忌なのだが、銀狼が動き出してしまったから止む無く早急に保護したのだ。君はまだ人間だから安心してくれ。」

霧は耕一の目を真っすぐ見据えた。嘘は言っていないと感じた。何から質問して良いのか分からなかったが、霧はゆっくりと質問した。

「何故僕を吸血鬼にする必要があるのでしょうか。」

「真祖になれるのは真祖の血を継ぐ者だけだからだ。十年ほど前、射干玉様は銀狼の卑劣な罠で大怪我を負わされたのだ。妹御の濡羽様が命懸けでお救い下さらねばお命も危うかった。お優しくて争いを好まない方だった。相手の被害も甚大だったがな。それ以降は真祖になり得る鬼之血と呼ばれる血を持つ者を必死に探していた。それが君だよ。」

普通であればこんな荒唐無稽な話を信じる人はいないだろう。だが、霧には少なからず自分が普通の人ではないと思わせる体験があった。

「吸血鬼は人の血を呑まないと生きていけないものなんですか?その人間はどうなるのでしょうか。」

「眷属は普通の人間の食事が出来る代わりに不老不死ではない。五感も集中しなければ人間並みの機能しか果たさない。吸血鬼になれば定期的に人の血を呑まなければならないし、吸血鬼に牙を立てられた人は死ぬ。先にその吸血鬼の血を呑んでその吸血鬼の眷属と化していれば吸血鬼になるだけで済むが。その代わり吸血鬼は不老不死だし、人外の身体能力を持つ。銀狼にだって一対一では決して負けない。」

成る程、眷属とは人間と吸血鬼の中間の状態のようなもので、人間が吸血鬼になるには一度は通過する状態なのか。霧は全くもって吸血鬼や眷属になりたいとは思えなかった。耕一のポケットから着信音が鳴った。耕一は部屋を後にした。

朝たちはどうなっただろうかと霧はベッドに倒れ込んで思いを馳せた。まずはこの館を見回らないと。

「霧君、真祖様が会いたいと仰せだ。車椅子を用意したから乗ってくれ。」

耕一は軽々と霧を車椅子に乗せて廊下に出て行った。想定外の広さだ。霧はそれまで自分はどこかの建物に幽閉されていると思い込んでいた。とんでもない。この一帯に暮らす人々全てが人外だ。雰囲気が何か違う。こんなにも人がいて子どもがいない。稀に成人していないような人もいたが、歳相応の無邪気さがどこにもなかった。

建物を出て中央にある巨大な城に向かっている。これは最早一つの集落になっているじゃないか。いや、家々はあるのに一軒も店がない。一羽の雀も一匹の蟻もいない。草一本たりとも生えていない。こんな場所があったらすぐに人が気付くはずだ。

霧が城を見て最初に思ったことは不気味なシンデレラ城といった雰囲気だということだった。中はずっと階段が続いている。耕一は霧をお姫様抱っこしようとした。霧は顔を真っ赤にして断った。耕一の肩を借りて歩こうとしたが、両足の骨まで折られているのに歩くのは流石に無理があった。耕一は霧の尊厳を尊重して背負って階段を上った。

一段一段上るごとに霧の鼓動は高鳴っていった。大きなドアを耕一がノックするのを放心状態で聞いていた。中から「入れ。」という声が聞こえて我に返った。

そこは最高位の方の部屋であることがすぐに見て取れた。華美すぎることはないが凝った彫刻が施された調度品に鮮やかな絵画が飾られている落ち着いた色合いの壁。カーペットは年中手入れされているのだろう、目の方向が揃っていてごみ一つ落ちていない。

玉座のような場所で絢爛たるマントに身を包んでいるのは、予想通り長い黒髪に赤い目の子どもだった。霧は車椅子に腰掛けたままなのは失礼に当たるのではないかと思ったが、いずれにせよ立っていることは出来ないので座ったまま言葉を待った。

「余は真祖の射干玉である。詳しい話は耕一に聞いておるだろうが、余はそなたを余の眷属にして、ゆくゆくは余の跡継ぎにしようと思うておる。予定外に早く呼び寄せることになってしまったことだ、早いうちに眷属としてしまいたい。ただの人間が此処に居続けるのはかなり危険だからの。」

霧はこれが提案ではなく命令であることがすぐに分かったので異論を挟まなかった。

「皆を中庭に呼び集めよ。霧よ、そなた生まれは何年じゃ。」

「二千六年です、陛下。」耕一が陛下と呼んでいたのを思い出して付け加えた。

「十四年しか経たないワインではさして味も良くないであろうな。まあ良い。二千六年のワインのボトルも持ってまいれ。」

耕一は深く礼をして出て行ってしまった。霧は射干玉と二人きりになった。成人前の人間を吸血鬼にしてはならないという規則があるならば、何故こんなにも若くして吸血鬼になったのだろうか。本当の歳はいくつなのだろう。尋ねる勇気はなかったので脳内で考えていた。射干玉はこれからしようとしていることを一通り説明した。霧は黙って聞いていた。

「そこまで聞き訳が良すぎるとかえって疑わしいというものだ。眷属になってしまえばもうそなたは銀狼に追われる身となり、家族と暮らせることはないぞ。今頃はその家族も銀狼の保護下にあるだろう。」

「恐れながら、陛下は銀狼と対立関係にあるのでしょう。それも強い力をお持ちです。僕としては陛下についてこの足と家族をさらった復讐をした方が良いのですよ。」

射干玉は軽快な笑い声を響かせた。耕一はワインとワイングラスを持って帰ってきた。金のナイフを射干玉に手渡す。射干玉は霧に一緒に来るように言うとバルコニーに出た。そこには先程道中に見たのとは比べ物にならない群衆が集っていた。

「本日皆に集まって貰ったのは他でもない、この少年を余の眷属にする記念すべき瞬間を見届けて貰うためである。」射干玉は凛とした声で語った。群衆はどよめいた。

耕一は赤ワインが注がれたワイングラスを射干玉に差し出した。射干玉は金のナイフで指を傷付けてグラスに血を注いだ。射干玉はそのグラスを霧に差し出した。霧は深紅の液面を見て少し躊躇ったのち一気に呷った。

それは今まで霧が口にしたどんな食べ物よりも美味しいものだった。とても甘いのだが、砂糖のように鮮烈で後味の残る代物ではなく、上品でまろやかな甘みだった。かと言って果物のように甘味以外の味が広がるわけでもなければ、穀物の甘さのように弱々しいものでもない。その直後にあれほどの苦痛を伴わなければ中毒になっていたことだろう。

身体が凍り付きそうなくらいに一気に冷えた。四肢の感覚が失われ、上体を起こしていることも出来なくなった。心臓の拍動が弱々しくなっていく。景色が滲み、意識が朦朧としていく中でも寧ろ渇きだけは存在感を増していった。目の前の真っ白な細いうなじに歯を突き立ててこの甘露を一滴残さず飲み干したい。霧にとって幸運だったことは、その衝動を実行に移すだけの体力が残っていなかったことだ。

しかしそれも束の間だった。霧はすぐに身体を動かせるようになった。衝動が薄くなるより早く。霧は目の前の獲物を仕留めるのにすべきことが手に取るように分かった。右手の爪だけを伸ばして自分の左手首を切った。溢れだす鮮血は流れ出すままに止められない死んだ血液ではない。霧の頭の片隅で微かな警告が鳴ったが、その時には自分を制する術はなかった。

群衆はパニック寸前になっていた。その渦中で射干玉は実に冷静だった。殆ど動きは見せなかったが、襲い来る霧の血を身動ぎ一つせずに空中で止めてしまうと、そのまま霧に返した。霧は押さえつけられて低く呻いていた。射干玉は冷たい目で霧を見据えながら近付いた。霧は最後の力を振り絞って車椅子から立ち上がるとそのまま意識を失った。

霧は見覚えのあるベッドの上で目覚めた。起きて最初に思ったことはやらかしたということだった。よりにもよってあの射干玉に襲い掛かったのだ。ただでさえ囚われている身の上なのに立場が悪化した。次に思ったことは脚が痛まないということだった。霧はベッドから出てみた。立てる。傷は完全に癒えていた。

「起きたか。渇きは癒えたかな。まさか教わりもしない血の能力を眷属と化して一分で使って見せるとは思わなかった。」耕一が本に目を落としたまま呟いた。

「少し気怠いですが大丈夫です。あの…ふと思っただけなのですが、あの方は本当に真祖なのですか。」耕一は初めて眉根を吊り上げた。霧はしまったと思ったが、訂正するのも変だと思って黙って返事を待った。

「間違いない。先代から真祖の御力が譲渡される瞬間に立ち会った者もいるそうだ。私はその頃生まれてもいないから聞いた話に過ぎないが、疑いの余地はないだろう。」

霧は何とか誤魔化したが、まだ腑に落ちないものがあった。あれほど美味しかった血に何処か物足りなさを覚えたのである。この舌はもっと美味しい血の味を知っている。そんな覚えはないのにその思いが拭い去れなかった。

「これで君も晴れて私たちの仲間となったことだ、今日は町を見て回らないか。失礼かもしれないが、君は本の虫といった類の人間ではあるまい。此処に閉じ籠っていても息が詰まるのではないかね。」

霧はこの町を好きになれそうもなかった。死の町だ。空気には微かに血の匂いが含まれるばかりでパンの匂いや花の香りなど全くしない。不気味な静寂に支配されており子どもの声も車の音もしない。無味乾燥な家々は違いが分からない。

「あの建物は何です?」霧が指したのは出入り口が地上から五メートルは離れている不思議な建物だ。わざと出入りしにくいように作ってあるとしか思えない。

「あそこには人間が閉じ込めてある。いなくなっても警察沙汰になりにくい自殺志願者やホームレス、裏稼業の連中を食用に囲っているのさ。人間界にちょっとしたツテがあるからな。絶対に逃がすなよ。どの道この町から出られないさ。」霧の顔色がサッと青ざめた。

耕一は歩みを止めなかった。霧は振り返って建物を見詰めたが、すぐに前を向いて耕一についていった。暫く二人は無言で歩いていたが、ある建物の前に着いたところで耕一は歩みを止めた。芳しく懐かしい匂い。カレーの匂いだ。

「此処にいるのは眷属ばかりだ。やはり私では歳も価値観も違い過ぎて話し相手には向くまい。」霧は社交的な性格ではない。眷属の人数は少なかったが、好戦的な人ばかりで仲良くなりたくなかった。

「折角気を利かせて下さったのに申し訳ありません。少し僕には合わないですね。」

「気にすることはない。吸血鬼は大分数が多い。中には気が合う人もいるだろう。」耕一は気を利かせて霧に自由に町を回るように言って自分は留まった。

霧はすぐに人間が閉じ込められた部屋の前に戻った。中に入る方法が分からない。立ったまま色々と考えを巡らせていると後ろから若い女の子の声が聞こえた。

「入る気がないならどいてくれない?」霧が振り返ると物静かな印象のセミロングの茶髪の女の子がいた。十五、六歳くらいの見た目だ。ちょっと可愛い。

「ごめんなさい、入り方が分からなかったので。」霧は後ろに下がった。

「貴方は真祖様の眷属ね。人間の血は呑めないと思ったけど。冷やかしかしら。」霧は違うと言ったが少女は聞いていないようだ。少女は建物の方を向くと、宙に飛び上がり、途中に一回壁を蹴ってドアノブを掴んだ。そのまま中に入っていった。

くのいちじゃないんだから。霧は中に入るのを諦めようかとも思ったが、自分の目で確かめないと後悔する予感がした。上手くいく保証はなかったが、自分の左手首を掻っ切った。ドアノブに血の触手を引っ掛けて思いっ切り縮める。霧の身体はかなりの勢いで壁に擦りつけられた。それでも取っ手を掴むことには成功した。左手の傷はもう塞がっている。

案の定ドアの向こう側は飛び降りる以外ない構造になっていた。脱走を防ぐ目的なのだろうが、此処まで不便な建物は見たことがない。意を決して霧は飛び降りた。轟音と共に足に鈍い痛みが走った。それでも足を貫かれた時に比べれば大したことない。内側には先程の少女がいて、呆れたような顔で此方を見るとこう言った。

「大したものじゃない。昨日眷属になったばかりなのに此処に来られるなんてね。名前は何て言うの?」

「桧山霧です。貴女のお名前は?」少女は右手を差し伸べた。「楓と呼んで頂戴。敬語なんて使わないで良いわよ。」霧はその右手を取った。

中は監獄のようになっているかと思いきや、拍子抜けするくらいに普通のシェアハウスか何かのような施設だった。運動出来るジムや娯楽室もある。人々は緩み切った顔をしている。いずれ出荷されるとも知らずに暮らす豚みたいだ。鳥肌が立った。

「目の焦点が合っていない…。楓さん、これは…。」

「楓で良いと言ったでしょう。この町に生き物が長時間いるとおかしくなるの。私は両親と一緒に人間界で暮らしているわ。因みに両親も吸血鬼よ。此処にはたまに血を貰いに来るだけ。」

楓は奥の部屋を開けて、巨大な冷蔵庫から血液パックを三つ取り出した。そのラベルには不思議な記号が書いてあった。三つとも微妙に色が違う。好みに合わせているということか。楓は霧の表情を見ている。

「分別はあるようだから、一つ忠告よ。この人たちを逃がしても誰のためにもならないわ。此処は人間界に行き場のない連中の最後の居場所なの。行きましょう。」

楓は軽やかにこの施設から出て行った。霧は乱暴に抜け出した。楓は霧についてくるように言った。霧はそっと楓の隣に進み出た。楓はある部屋の前で止まった。

「…の検査を…。…はこのままでは時間の問題です。どうか…。」立ち聞きするつもりはないのだが、話している男性は随分感情的になっているようで、声が筒抜けだ。楓はノックした。

中には耕一と五十代くらいの男女がいた。楓の両親だろう。見た目というよりは雰囲気が似ている。

「この話はここまでだ。私はお暇させてもらう。力になれずすまない。」耕一は霧に一緒に来るかと訊いたが霧は断って留まった。お互いに軽く自己紹介した後、楓は交渉の結果を尋ねた。楓の父親はまたしても此処で暮らすことを認めて貰えなかったと苦々しく言った。反射的に霧は質問した。

「住むのに許可がいるんですか。」楓の両親は顔を見合わせた。父親が口を開いた。

「成人前の人間を吸血鬼にしてはならないという掟のことは聞いたかな。我々はそれを破ったから此処に住むことは出来ない。」楓が説明し始めた。

「私は労咳にかかって治療法もなく、余命宣告を受けていたの。嗚呼、要するに肺結核よ。お父さんとお母さんは私を治すために何でも調べたわ。最後に行き着いたのは吸血鬼になるということだったのよ。二人とも自分の血と引き換えに頼み込んでくれたわ。でも子どもを吸血鬼にすると追放処分になるから誰も引き受けなかったの。」

霧はズボンをギュッと握り締めた。その先の展開は容易に想像出来た。

「二人は自分たちを吸血鬼にするように頼んだの。その願いは聞き入れられたわ。でも二人は吸血鬼となってすぐに私を吸血鬼にしたから追放されることになったの。私たち家族は狩りが出来ずに飢えていたわ。成長しないから住処を転々としないといけなかったし。」

霧はさっきまで人間を家畜のように扱うあの施設が許せなかったが、ここまでの話で気持ちが大分揺らいでいた。

「お母さんがあのシステムを考え出してくれなければ今頃は三人とも銀狼に狩られるか飢えるかしていたと思うわ。此処の人間や眷属の食料を買う費用を調達出来る上に、若い人間の中に我々の手駒となり得る人を増やせるもの。画期的な意見だわ。まだ人間は気付いてすらいないでしょう。そのお陰で血だけは手に入るわ。」

霧はそのシステムとは何かと訊いたが、楓の母親は楓を止めた。

「楓がこんなに話すとは思わなかったわ。霧君、これからもうちの楓と仲良くして頂戴ね。人間界を転々としているから中々友達が出来ないのよ。」

霧は最初に連れられた館に帰った。中では耕一がくつろいでいた。

「友達は出来たかね。」

「ええ。あの…楓さんたちはこのまま人間界で暮らし続けると…危険ではありませんか。」

耕一は少しの間言葉を切ったが、徐に言った。「最近は技術も進歩している。遅かれ早かれ銀狼に見つかって処刑されるだろう。だが彼らが選んだ道だ。」

霧は理解に苦しんだ。常識的に考えて、此方で暮らすべきなのは発覚の可能性が高い楓の方だ。それでも射干玉に直談判する勇気はなかった。そもそも取り合っても貰えないだろう。そんな自分に嫌気がさした。

そして運命の日はかなり近かった。霧は人間界への行き来の仕方を教わった。此方から人間界に行くにはただ行きたい場所を思い浮かべて目を閉じるだけでいい。帰る時は郊外の墓地に生えている巨大な欅の木に吸血鬼や眷属の血をほんの一滴垂らせばいい。

人間の中に吸血鬼に人間やその血を売るブローカーがいるから絶対にその人々を襲わないようにと注意された。ついでに食材の買い出しを言い付けられて渋々向かった。店先のテレビからニュースを聞いてしまった。思わず買い物袋を落としたが、気にも留めなかった。

楓が指名手配されている。住所と顔写真まで公開されている。バレたのか。霧が真っ先にしたことは銀狼本部に出鱈目の目撃情報を送ることだった。これで少しは時間稼ぎになると良いが。一人では国家権力に逆らえない。霧は射干玉に会いに走った。

「陛下!失礼します。」息を切らせて霧が入ると丁度射干玉は着替え中だったようだ。後ろ姿だったが、胸から腹にかけてさらしを巻いている上半身が見えた。射干玉は悠々と上着を羽織って言った。

「無礼者。何の用件だ。」霧はハッと我に返って説明した。

「たわけが。狼の口の中に飛び込むつもりか。行くでない。その女子のことは忘れよ。」

霧は苛々して叫んだ。「時間がないのです。止めても行きます。あの三人が何処にいるかだけでも教えて下さい。」

不意に射干玉は振り返った。その赤い両目に一瞬怯んだが霧は負けじと見返した。射干玉は「市立図書館の裏だ。」とだけ言った。霧は礼を言うや否や目を閉じた。楓のいる場所に直接現れるほど愚かではなかったので、少し離れた場所に行った。間に合ってくれ。霧は祈っていた。集中しなければ五感が人並みだということは集中すればそれ以上のものを発揮出来るはずだろう。

進むべき方向が間違っていないことはすぐに分かった。道が封鎖されている。吸血鬼対策に上も見張っている。中からは血の匂いが漂っている。急がないと。でもどうすれば…。悩む霧の耳に野次馬の文句が聞こえてきた。

「中にいるのはたかが女の子一人とその家族だろ?何でこんな凶悪犯みたいに物々しい体制なんだよ。ふざけるな。通せよ。」柄の悪い男性ががなる。

「申し訳ありません。もう暫くお待ち下さい。」銀のリング。銀狼だ。

「理由も言わずに締め出すから不安を煽るんですよ。見せられないようなことをしているわけでもないでしょう。納得いく説明をして下さい。」後ろから誰かが叫んだ。

良い流れだ。群衆を扇動して中に入ってしまえ。霧は不自然にならないように考えを巡らせた。

「僕は彼女の友達です。彼女が悪いことをするはずがありません。」霧は叫んだ。隣の男性は情に脆いタイプだな。その先は独り言のように呟いた。

「銀狼に捕まった人の中で裁判を受けた人はいない。みんな消息不明になるんだ。楓先輩のお父さんは立派な議員さんなのに。」

周囲にどよめきが広がっていった。政府の陰謀説といったゴシップは野次馬の好奇心を刺激するのに十分だったらしい。群集心理とは恐ろしいもので、皆で行進すれば逮捕されないと思っているようだ。銀狼は案の定武器を使わなかった。そんなことをしたら収拾がつかないだろう。霧はこっそり電柱に飛び乗って群衆より先回りして現場に向かった。

いた。アパートの屋上に三人。それも崩れかけている。案外三人とも負傷していない。わざと崩してその瞬間に群衆に紛れ込めば逃げられるんじゃないか。楓には自分の帽子とウィンドブレーカーを着せれば少年に見えるはず。両親に関しては報道がされていないからどうとでもなる。

問題はタイミングよくアパートを崩落させる方法だろう。現場に近付くわけにもいかない。手榴弾か何かがあればいいのだが、火炎瓶の作り方をスマホで調べるか?ガソリンスタンドとゴミ箱の中の空き瓶と木綿のハンカチがある。霧は焦る心を落ち着かせてせっせと火炎瓶を量産した。

楓たち三人はかなり強い。息の合った連携で周囲に敵を寄せ付けていない。銀狼は恐らく周囲の被害に気を配って全力が出せないのだろう。丁度新品の血液パックが手元にあるから持久戦でも大丈夫だ。

狙うはあの三人に全員の意識が集中する瞬間だ。それにしても…これが吸血鬼の戦い方か。周囲にうっすらと赤い霧が立ち込めて視界を遮っているが、その中に赤い鎧を身に付けているかのような影が三つ。赤い大剣の一振りで敵が数人薙ぎ倒される。

激しい戦いだが、よく見ると楓が参戦していない。徐々にオーラが強まっていく。来る。霧は火焔瓶に火を点けた。誰かが怒鳴ったがもう遅い。楓が技を打つタイミングに合わせて霧は火焔瓶を投げ込んだ。轟音と共にアパートは崩壊していった。楓は人には到達出来ない所まで飛んだ。これは想定通りだ。しかし両親は楓と反対方向に飛び、銀狼はそちらを追い始めた。

霧は楓の方に走った。今にも飛び出さんばかりの楓を押し止める。

「放して!このままじゃお父さんとお母さんが…。」楓は力の使い過ぎなのか霧の腕を振り解けない。

「今は無理だ。すぐに敵が引き返してくる。これを着て。早く!」楓はまだもがいている。霧は楓を一発殴ろうかと思ったが、代わりに優しく抱き締めた。楓の嗚咽が耳元で低く木霊する。

野次馬は期待通りの場所で喚いていた。あまりにも都合良く動いてくれるので逆に不安になるほどだった。二人は一番後ろに紛れ込んだ。あとは自然に帰るだけ。

「銀狼の応援が此方に向かっているわ。逃げましょう。」二人は出来るだけさりげなく立ち去ったつもりだったが、後ろから呼び止められた。

「ちょっと待て。君たち、顔を見せてくれないか。」万事休すだ。

野次馬の一人がその隊員の顔面を殴った。鼻血が出るくらい強く。隊員は顔面を抑えて後退りした。霧は楓の腕を掴んで走り出した。人気のない辺りに出た時に楓は電信柱の上を走ろうと言った。霧はそれに従った。境界に着いた。寂れた墓地だ。

霧はおざなりに辺りを確認すると人差し指を噛んで血を欅の木に擦り付ける。するとそこはもう吸血鬼の町だった。帰ってきた。楓を救えた。霧は楓の方を見た。あまり感謝しているようには見えない。

「何で…私だけ助けたの…。放っておいてくれればよかったのに!お父さんとお母さんを囮にして一人だけ生き延びるくらいなら…死んだ方がマシよ。」霧の胸が痛んだ。慎重に言葉を選んで言った。

「君が辛いということは分かる。でも僕はこの判断が間違っていたとは思わない。同じ状況になったら同じ行動をとると思う。」

「止めて!貴方に何が分かるの?永遠に苦しめられるのよ。」楓の表情は哀しみから怒りに塗り替えられていく。

「…君の言う通りだ。僕には…分からない。」

吸血鬼が集まってきた。耕一もいる。二人は射干玉の元に連れていかれた。霧はバツが悪かった。もっと楓の気持ちを考えるべきだった。粘り強く他の吸血鬼に協力を求めたら三人とも助けられたかもしれない。

「何故陛下にお会いする必要があるのですか?」霧は耕一に尋ねた。耕一はすぐにわかると言った。その表情は険しく足取りは重々しかった。

二人は玉座に向き合う形で立たされた。両サイドにずらっと吸血鬼が並んでいる。これじゃあまるで法廷だ。霧の不安は的中した。状況を説明するよう言われたため霧が口を開こうとしたら楓が先に話し出した。

「皆の者、どう思う?」射干玉は意見を求めた。

「此方に永住権がないのでしょう。銀狼に追われる身となれば匿ってもらえるなどという前例を残すわけにはいかぬでしょう。と言って銀狼に引き渡すわけにも参りますまい。」小柄な男が言った。

「待って下さい。今彼方に送られたら楓は死にます。」霧は割って入った。

「控えろ、霧。君の発言は認められていない。君の行動が銀狼を刺激したことも事実だ。」耕一は毅然とした態度でたしなめた。霧は口を噤んだ。射干玉に目で訴えようとする。

長々しく中身のない議論が繰り広げられるのを見て焦燥感に駆られていった。この流れだと楓は見捨てられるか処刑されるかの違いしかないように見えた。ようやく霧は事の重大さに気付いた。

吸血鬼は長時間立ったままでも疲れないのだろうが、霧は次第に頭がぼんやりして吐き気がしてきた。それでも我慢して立ち尽くしていると、フッと意識が遠のいた。楓がそっと霧の身体を抱き留める。

「今日はここまでにしよう。判決が出るまで二人の身柄は余が責任を持って預かることとする。異論ないな。」射干玉は威厳たっぷりに睨んだ。誰も異を唱えなかった。吸血鬼は真祖に一礼して部屋を出て行く。射干玉は耕一だけ呼び止めて何か囁いた。

霧は真祖の許しを得てソファに深く身体を預けて水を飲んだ。射干玉は気付けにと水の入ったグラスに自らの血を一滴垂らす。効果はてきめんだった。

「有難う御座います。…陛下も僕は楓を救い出すべきではなかったとお考えでしょうか。」

霧は近くに楓がいないことを確認して質問した。射干玉は唇の端を持ち上げた。真っ白な牙が光る。

「真祖としては褒める訳にいくまい。だが…。」射干玉は霧の耳元に屈んで囁いた。「一人の吸血鬼としては、そなたの勇気ある行動により同胞が救われたことを喜ばないはずがなかろう。よくやった。」射干玉は何事もなかったかのようにポーカーフェイスを装っている。

それはそうだよな。楓たちの居場所を教えたのは射干玉だ。勿論助けて欲しかったに決まっている。霧は初めて射干玉に人間味を感じてより敬服するようになった。

この一件はもう噂になっているようで、町を歩いているとひそひそと囁く声が追ってくる。どんな内容なのか気になるところだが、どうせ碌な噂じゃないだろう。パンを貰いに行くと眷属の少年がニヤニヤしながら近付いてきた。

「なぁ、銀狼が百人で囲っている中からお姫様を救い出したってマジ?」霧は呆れて声も出なかった。勝手に尾ひれが付いて武勇伝になっているのか。

「言っておきますが、僕は銀狼と全く戦っていませんよ。」面倒なことになる前に帰ろう。このままだと喧嘩を吹っ掛けられる。その予感は的中した。相手は不意打ちを掛けたつもりだろうが、警戒していた霧はサッとかわした。野次馬は喚声を上げた。

「何をしているのですか。」吸血鬼だ。向こうもこっちの顔は知っているようで、顎で行くように合図した。霧は会釈して走り去った。

霧が城の一室でハムサンドを食んでいると楓はレコードを眺めながら何の曲が聴きたいか訊いてきた。霧はクラシックに詳しくなかったため楓に任せた。流れた曲はピアノ曲であることは分かったが、曲名も作曲者名も分からない。興味もなかった。

「霧、ごめんね。八つ当たりだったわ。助けてもらっておいて酷いことを…。」丁度霧は最後の一口とばかりにサンドイッチを口いっぱいに放り込んでしまっていた。これでは格好がつかない。慌てて飲み下して返事した。

「謝らないでよ。僕の初めての吸血鬼友達だから助けようと思っただけだって。」結局むせ返ってしまった。カッコ悪いな。

部屋をノックする音がした。耕一が射干玉の部屋に二人を呼んだのだった。嫌な予感がする。耕一は早速報告した。

「現場に行ったところ、綺麗に拭ってはありましたが血文字で我々へのメッセージが残されていました。」後から聞いたところによると吸血鬼の血に関する感性はずば抜けており、ルミノール反応を起こさなくても肉眼で拭き取られた血痕を識別出来る。銀狼もそれを知っており、吸血鬼だけにメッセージを送ったらしい。

「三日後の真夜中に廃工場で二人を処刑するそうです。」まだ生きていたことに驚きだ。人質にして罠に掛けようとしているのはいくら霧でも分かった。そして楓は一人でだって救いに行くというだろうことも予想出来た。

「陛下、私は行きます。止めないで下さい。」楓は射干玉が何か言う前に発言した。

「許さぬ。」射干玉は全く取り合わなかった。楓は何か言いかけたが片手を上げて制した。真祖の制止を振り切る勇気はなかったようだ。

「そなたは行くな。霧も来るなよ。その小娘を見張っておれ。余が行こう。此処まで挑発されて行かねば沽券に係わる。」霧はこの二日で射干玉のことが大分好きになっていた。小さい身体が随分頼もしく見える。詳しい作戦を話し合うというので二人は元居た部屋に戻ることにした。

「射干玉様なら大丈夫だよ。楓、良かったね。すぐに家族と再会出来るよ。」霧は嬉しさを露わにしたが、楓は浮かない顔だった。

「銀狼は一度捕らえた吸血鬼を絶対に逃しはしないわ。いくら射干玉様が天狼に勝てると言っても助け出すのは厳しいはずよ。」耳慣れない単語に、霧は銀狼のことを何も知らないことに気付いた。楓も話をしていた方が気を紛らわせるだろうと思って質問した。

「銀狼の武器はこの間見たでしょう。あの場にいたのは全員ただの銀狼だったから、武器は紅華ね。吸血鬼の血で作り出された武器よ。吸血鬼は大抵の怪我はすぐに再生するけど、他の吸血鬼の血が入ってしまうと人並み程度に低下するの。その代わりそれを使うには奴ら自身の血を紅華に吸わせないといけないから長くは持たないわ。ただの銀狼は吸血鬼に隊列を組んで襲わないと勝てないくらいの強さよ。眷属と同じくらいの強さでしょうね。」

吸血鬼ってそんなに強かったのか。確かに周囲を囲まれている割には三人で善戦していたな。オリジナルには及ばないというわけか。

「それで天狼というのは銀狼の中のエリート集団よ。朱雀と呼ばれる武器を使っているわ。これは真祖の血をもとにしているの。黒いリングだからすぐに分かるわ。現存する朱雀は三つ。うち一つは銀狼のリーダー、蜥蜴が持っている。もう一つは昴という人物が持っている。最後の一つは持ち主がいないわ。朱雀は扱いが難しいのよ。初期駆動でさえ消費する血の量が多いの。第二段階まであるそうだけど、見たこともないわ。真祖様であれば天狼さえ敵ではないけど、普通の吸血鬼には天狼に勝つ術はないわね。」

「つまり、強い順に並べると真祖、天狼、吸血鬼、銀狼と眷属ってこと?」

楓は個体差があるものの基本的にそうだと言った。成る程。一介の眷属が銀狼の取り囲む場所から吸血鬼を救い出したら武勇伝になるわけだ。下手について行ったら足手まといになるのが関の山か。

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