恋空
澄み渡る秋空が、空高く雲を泳がせ心地良い秋風を運ぶ中、僕は幼馴染の歌穂と一緒に畦道を歩いていた。
「夏も終わっちゃったねぇ」
歌穂が僕にそう語りかける顔は、どこか夏の終わりを惜しむ哀愁を感じさせた。
「そうだね。もう、秋だ」
歌穂は明日季節外れの転校をする。
唐突だと思った、なんでこんな時期に。
そんな言葉しか、思い浮かばない事に歯噛みする。
「開? どうしたの? さっきから上の空だけど」
「ううん。なんでもないよ」
「なんでもない。ね」
歌穂は僕がなんでもないと言ったことに納得していない様子だったけれど、それ以上は何も言ってはこなかった。
きっと、お互いに分かっていたんだ、この想いは打ち明けてはいけないって、本当は離れたくなんか無いって。
でも、それを伝えてしまえば僅かに残された時間を辛いものにしてしまう。
きっと、綺麗なままの思い出ではなくなってしまう。
僕は、このきらきらと輝くような時間の最後の思い出は、彼女の笑顔で纏めてしまいたかった。
彼女も多分、そうだと思う。だから、僕たちはお互いにぎこちない会話をして、夕暮れの畦道を、ただ歩いていた。
澄んだ空気の中で、僕たちだけが澄みきらないまま。
時間だけがただ過ぎていく。
「あのさ、僕……」
僕が重たい空気の中、口を開こうとすると、彼女は静かに首を横に振った。
「ううん。言わないで。私きっと、またこの場所に帰ってくるから」
彼女のその言葉に、僕は吐き出しかけた言葉を、飲み込むしかなかった。
僕たちの頭の上には、夕暮れに照らされたのんきなうろこ雲だけが泳いでいた。
何も言えないまま、気がつけば僕は彼女の家の前に着いていた。
今日はこのまま、彼女の家で最期の夕飯を一緒に食べることになっていた。
僕の家庭は、お母さんが一昨年に亡くなって、今はお父さんが働きながら一人で家を守ってくれていた。
だから、度々こうして幼馴染である歌穂の家でご飯を食べることがあった。
「お邪魔します」
玄関をくぐりいつも通りの言葉を、いつも通りではない状況に呟く。
「おかえり、開くん。今日の晩ごはんは開くんが好きなハンバーグよ」
歌穂のお母さんの言葉にいつもなら喜ぶけれど、今日だけはいつもとは違って、なにかの終わりを感じた。
「ほらっ、開。食べよう?」
「うん。そうだね。僕おばさんのハンバーグが大好きだったんだ」
他愛のない会話をしながら食べるハンバーグが、なんだかいつもより苦く感じた。
★
あれから、幾度の秋が過ぎただろうか。
僕は、何も知らなかった幼い子どもから、知りたいことも、知りたくなかったこともそれなりに経験して大人になっていた。
大人になれば、世の中の楽しいことをもっと沢山知ることができると無邪気に夢を見ていた僕はもう、ここにはいない。
必ず帰って来る。そう言っていた歌穂も、あれからこの田舎に帰って来ることは、一度もなかった。
「ふぅ。今日も暑いな……」
額から落ちる雫が地面に染みを作っていく。
僕は大人になり、今は果樹園で働いている。
八月中旬の夏の暑さが厳しい中、ひたむきにりんごの収穫をしていた。
懐かしい想い出に浸っていたからだろうか。昼食後に木陰で涼んでいると、歌穂のことばかりが浮かんでは消え、まるであの秋の雲のようだ。
僕は、その懐かしい想い出を噛みしめるように、目を閉じた。
「歌穂……」
ふと、名前を口に出して呼んでみた。当然、返事はない。
歌穂はもう、ここには居ないのだから。
「開さん? いくら木陰とはいえ、水分を摂らずに寝ていると、熱中症になりますよー」
なぜか懐かしい声と一緒に、頬に冷えたペットボトルの感触がした。
この声は誰だったか。
そんなことを思いながらも、とかく気を配ってくれたことにお礼をしないと。
「あぁ。すみません。ありがとうございます……」
そう言いながらゆっくりと目を開けると、そこには想い出の彼女の面影を感じる女性が立っていた。
「あっ、と。えっと……。どちら様、でしょうか?」
僕は喉の奥で言葉をつっかえさせながらも、辛うじてそれだけの言葉を吐き出した。
するとその女性は、くすくすと笑いながら僕に飲み物を手渡して来て。
「なぁに。開? たったこれだけの時間で、私を忘れちゃったの? 傷つくなぁ」
僕は、息を飲んだ。
その女性の喋り方は、忘れたくても忘れられない。彼女のそれだった。
「歌穂……、なのか?」
「うん! ただいま。開!」
そう言って笑った歌穂の顔は、夏の太陽にも負けないくらいに明るくて。
さっきまで感じていた寂寥感が解けていく。
「歌穂っ! おま、お前っ! 帰ってきたのか?!」
「うんっ。ただいま。って言ったでしょう?」
僕は、思わず歌穂を抱きしめると、おかえり、おかえり。と何度も呟いた。
歌穂は、ちょっと痛いよ開。なんて言いながらも、僕が落ち着くまで、背中を優しく叩いてくれていた。
「落ち着いた?」
「うん。ごめん、取り乱した……」
「へへ、開はこの年になっても泣き虫だったかぁ。なーんて。実は私も開が横になっているところを見て、ちょっと涙ぐんじゃったんだけどね。まぁ? どこかの誰かさんはひと目では分かってくれなかったみたいですけどー?」
「いやっ、それは……。なんだか綺麗になりすぎてて、一瞬女神か何かかと……」
僕が小さな声でぼそり、と言い訳すると、歌穂は音が聞こえそうなくらい急激に顔を赤くして。
「ばかっ……」
とだけ、呟いた。
「でも、いつからこっちに?」
「今日だよ。さっき着いて、開がここで働いてるって聞いたからさ。荷解きもせずに来ちゃった」
てへへ、とばかりに舌を出している彼女は、僕の想い出の中の彼女そのままで。
呆れた顔をしながらも、口元は自然と緩んでしまう。
「分かった。それじゃあ仕事が終わったら手伝いに行くよ。場所は?」
「あ、そうだね。えっとねー……」
歌穂の家の場所を聞くと、それじゃあ。と別れて僕は仕事に戻った。
なんだかいつもよりも仕事が楽しく感じて、時間はあっという間に過ぎていった。
「お疲れ様でしたー」
僕は果樹園のオーナーさんに挨拶をすると、帰り支度を済ませて帰ろうとした。
「あぁ。そうだ」
果樹園を出ようとしたところで、ふと思いつき、果樹園で作っている商品を手土産に買っていく。
☆
昼間聞いていた家に着き、インターホンを鳴らすと、中からどたどたと慌ただしい足音が聞こえて、玄関が開けられた。
「いらっしゃい、開っ。今、夕飯の準備してるから適当に座っててー」
「あ、あぁ。うん」
歌穂の勢いに少し怯みながら、家の中にあがらせて貰うと、居間で座って待つことにした。
入ったことはないけれど、なんだか女性にしてはシンプルな部屋だと思う。
居間も食卓やテレビなどがあるくらいだ。
僕は食卓の座椅子に腰掛けると、なんだか落ち着かなくてそわそわとした。
「? この匂い懐かしいような……」
台所から漂ってくる、肉が焼ける香りが鼻孔をくすぐった。
少しすると、エプロン姿の歌穂が料理を運んできて、懐かしい匂いの正体がすぐに分かった。
「お、ハンバーグだ!」
「へへーん。開が好きだったハンバーグだよ! たっくさん練習したんだからっ!」
歌穂は得意げに笑うと、僕に「冷めない内に食べて!」と言って、エプロンを外し、僕の正面に座った。
僕は、ハンバーグを口に運ぶと、思わず顔がほころんだ。
「うん! 美味いよ歌穂」
「やった! 練習したかいがあったよー!」
そう言って笑う歌穂は本当に嬉しそうで。
なんだか、あの頃に戻ったみたいだと思った。
ハンバーグを食べ終わって、二人でお茶を飲んだ後、僕は手土産の存在を思い出して、がさがさと袋から取り出した。
「そう言えばお土産持ってきてたんだった。歌穂、ほらこれ」
「わ! りんご飴だ! 私が好きだったの覚えててくれたんだ?」
「うん。それ、僕が働いてる果樹園で作ってるんだ」
「やった! いただきまーすっ」
りんご飴を舐めながら上機嫌に微笑む歌穂に心がぽかぽかと暖まる。
「そういえば、あのハンバーグ本当に美味かったよ」
「うん。開が好きな味なんだろうねぇ。これね、開のお母さんのレシピなんだってさ」
「えっ? 母さんの……?」
「うん。私のお母さんが開のお母さんが亡くなった時に、レシピ本を貰ってたみたい」
「そっか……」
僕は母さんの味が食べられている嬉しさと、少しばかりの寂しさを感じた。
でも、歌穂が戻ってきてくれた。それに、母さんの味まで食べさせてくれた。
僕は、あの日伝えられなかった想いを伝えるなら、今しかないんじゃないかと、そう思った。
「歌穂、あのさ。僕……。歌穂のことが好きなんだ、誰よりも。ずっと、ずっと……。だから、もう離れたくないんだ。歌穂、僕と、一緒に居て欲しい」
「うん? いいよ? どうしたの、そんなに改まって」
あ、あれ? 伝わってないんだろうか?
僕は今一世一代の告白をしたつもりだったんだけれど……。
「あ、いや友達としてじゃなくてその、結婚して欲しいって意味で……」
「ふふ、じょーだんだよ。はい。喜んで。不束者ですが、宜しくお願いします」
☆
それから数年後、僕たちは同じ果樹園で働いている。
今日も、りんごの収穫作業だ。
「開ー?」
「ん?」
「大好きだよ」
「あぁ、僕もだ」
そんな甘酸っぱいりんごのようなやりとりをする僕らの頭の上には、秋めいて澄み渡る空と、うろこ雲が泳いでいた。
恋空はりんごの品種であり
恋心と秋の空であり
リンゴの花言葉が選ばれた恋 選択とか最もやさしき女性に 永久の幸せ 最も美しい人へ だったりするのですよ。
2018/10/01追記:何やら日間ランキングに入れていただけたようで、どうもありがとうございますー。
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