声を聞かせて名前を呼んで
「ああうるさい、一体なんだ」
森の魔女が小屋の外に出たのは、細い銀色の月が暗い空に浮かぶ、冬の夜だった。静寂を愛していた彼女が森の奥深くに住んでもう百年近い時間が流れていたはずだが、こんなに騒がしい夜は初めてだ。
深夜だというのに、ギャアギャアと鳴きわめく大鳥が、何羽も大きな翼を広げ森の上を旋回している。
「お前、見てきておくれ」
扉の前に立った魔女は、傍らに佇んでいた金色の目をした黒猫に声をかける。にゃあ、と返事をかえした猫は音もなく森の中へ歩いていった。
「静かにさせて来ておくれよ」
その背に向かってそう声を掛け、魔女は小屋の中に戻る。艶やかな黒髪が背で揺れた。
◆◆◆
黒猫を放ってしばらくすると、森はまた静寂に包まれた。ほう、とため息をついて大鍋の前に座り、ぐつぐつと煮立つそこに乾燥した蜥蜴の尾を一掴み投げ入れる。と。扉を叩く控えめで小さな音。それから、声が続いた。
「だえかー」
舌っ足らずな、幼児の声だ。
「なんなんだよ」
がたん、と音をたてて椅子から立ち上がった魔女は、まっすぐに扉に向かうとそれを開け、視線を下に向けた。
「やっぱりだ。人間の子供。ああっ、汚らしい!」
嫌悪感を隠そうともせず、そこに立っていた子供――まだ赤ん坊に毛が生えた程度の――に言葉を投げつける。子供は一瞬びくりとやせ細った体を震わせた。茶色の巻き毛はぼさぼさで、泥と血であちこち固まっている。顔には涙と鼻水の跡が幾筋もついているのが見えた。大きすぎる上に穴だらけの、薄汚い衣服を身につけている。すえた臭いが子供から立ち上っていた。
「なんの用だい」
「こえ」
魔女が冷たく問うと、子供は両手を高く上げて、抱いていた黒猫を見せてきた。
「ああ、これはうちのだよ、連れてきてくれたのか」
「そうでち」
黒猫は暴れもせず、大人しく子供に持ち上げられている。子供の指は赤くかじかんでいて、ひどく冷たいだろうに。
「ああ、ありがとうね、そのへんに放してやっておくれ」
「あい」
魔女が言うと、子供は素直に猫を地面に降ろした。黒猫はぴたりと子供の足元に寄り添って立ち、金色の目で魔女を見上げている。
「中にお入り」
「あい」
「お前じゃないよサルーに言ったんだ」
「たるー」
「サルーだよ、さ!言ってごらん、サ。サルー」
「た。たるー」
「さ、だよ、さ!」
「たっ。た!」
しつこく子供の発音を直していた魔女は、はたと自分を取り戻した。黒猫は相変わらず子供の横から動かない。
「なにをやってるんだか、あたしは。いいよお入り」
「たるーおはいり、ばいばい」
「お前も入るんだよ! どうせ口減らしだろ、今年の夏は寒かったからね」
魔女が言うと、黒猫はぐるると喉をならし、ようやく小屋に入っていった。
◆◆◆
「またここにいたのですか」
茶色い巻き毛の青年が、苔むした石の前に座り書物を広げている魔女の傍らに腰を下ろす。
「お前か」
「ここには私しかいないでしょうに」
「そうだね、前はサルーもいたんだが。賑やかだったねあの頃は」
目を細めて石を撫でる魔女の手に、青年が自分の手を重ねた。
「あなたに毎日怒られた」
「騒がしいのは嫌いでね――その筈なんだが、今は妙に昔が恋しいよ。年かね、あたしも」
ぽつりとこぼした魔女の言葉に、青年は目を丸くし、それから大きな口をあけて豪快に笑った。
「あなたは出会った時から少しも変わらないのに」
「ふん、心が老いるのはどうしようもないだろ」
鼻をならして答える魔女の手を自分の口元に引き寄せ、青年はそこに口づけた。
「私と恋をしましょう、心はいつでも若返れます」
「たるー、たるーと言いながら小便垂らしていた赤ん坊のお前を知っているのに、恋なんてできるわけがないだろう」
「そのことは早く忘れてください」
魔女の言葉に青年は頬を赤くしてつぶやいた。魔女は空いた手でそんな青年の鼻をつまむと、幸せそうな美しい笑みを浮かべる。
「あたしの宝物の記憶だよ、忘れたりはしない、決して。お前、大きく健康に育ってくれたね」
「ラートリー、愛しい救いの魔女、どうか私の愛を受け入れてください」
青年はそう言うと、がばりと魔女を草の上に押し倒した。
「やめないか、なにを突然」
「私がお嫌ですか」
青年はそこで言葉を切って、組み敷いた魔女の美しい顔を黙って見つめる。魔女の表情はいつもと変わらず、冷静だ。
「だから、もう何年も私の名を呼んでくださらないのですか」
「お前」
「私にはあなたしかいないのに。愛をくださらなくてもいい、せめて名を呼んでください」
「わ、わかった。そういえばそうだね、名前、お前の名前ね……」
魔女は形のよい唇を開き、青年の名前を口にしようとした。青年はじっと魔女を見下ろし、待っている。
「……」
魔女の口は小さく開いては閉じ、開いては閉じしてなかなか声を発さない。
「ラートリー?」
青年が魔女を呼ぶ。呼びながら、顔を魔女にぐいと近づけた。
「呼ばないと口付けします。もちろん頬にではありませんよ」
「ばっ、ふ、ふざけるのもいい加減にしろ、ルチアーノ……」
青年の名を呼んだ自分の声の甘さに驚いた魔女の顔が、みるみる赤くなっていった。両手を上げて顔を隠す。魔女の黒いローブから伸びた白く細い腕、その手首にルチアーノが優しく触れ、魔女の顔から手をどけた。
「もう一度呼んでください、ラートリー」
「……ルチアーノ……」
魔女の甘い声に、青年は満足げな笑みを見せた。そっと腕を取り、彼女を抱き起こしてそのまま優しく抱きしめた。
「約束ですから、呼ばれては口付けできない。今日は」
「バカを言うな今日も明日もない」
「サルーに礼を言わなければ」
魔女を腕に抱いたまま、青年は苔むしたサルーの墓石に目を向けた。魔女もそちらを見る。
「鳥から私を救い、あなたの元へ導いてくれた」
「また猫を探すか?」
「いいですね、私が探してくるとしましょう。ですからラートリー、あなたは」
そう言った青年は、魔女の腹部にそっと手を当てにやりと悪戯めいた笑みを浮かべる。
「舌っ足らずな赤ん坊を」
「生意気を言うな! 燃やすぞ!」
暖かな春の陽の降り注ぐ森に、青年の笑い声と魔女の怒声が響いた。