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おねしょ。ゴス幼虫

 その日は梅雨があけたばかりにもかかわらず、朝からさめざめと雨がふっていた。半そでではいささか肌寒い夏の日だった。

 めずらしく仕事が早くおわって、私は夕暮れ前に帰路についた。こんなはやく家に帰ってもすることもないので、私は少し遠回りして、安いと近所で噂になっているスーパーに寄り道することにした。男やもめの生活で外食が続き、料理に興味はないがたまには自炊する気にもなる。

 スーパーに向かう途中、神社脇の小道を黒い傘がふさいでいた。開いている傘の翼のふちにはレースのフリルがめいっぱいついていた。日傘だろう。

 紳士として傘を拾い閉じてふんわりと締めるのもできたし蹴っ飛ばしてもよかったのだが、私ははやく仕事が終わったことに浮かれていたのか、道をふさぐその傘を童心にかえり助走をつけて一足とびに飛び越えた。

 空中にいるあいだ、私は、傘の翼のしたに人間がいることに気がついた。が、それに気がついたところで私の体はいまさらどうすることもできない。

 なんとか無事に着地をした。同時にパッとうしろをふりかえる。そこには、ゴスロリというのだろうか、黒いドレスにフリルついてムダにふくらんだ服を着て、髪に大きな青いリボンをつけている少女が、私をみるでもなく、たぶんそれまでずっとそうしていたように、傘のしたにうずくまって濡れそぼる地面を見つめていた。

 ふりかえった当初、私はかってにひとの頭を飛び越えた非礼をわびようとしていた。そのために即座にふりかえった。だが、相手が相手だ。なんだかよくわからないファッションをひけらかし、ひとが自分の頭を飛び越えて現れたというのに、少女は身じろぎひとつしない。私はその容姿と態度にイラっとした。開かれた傘を前にして浮かれ気分で飛び越えるという選択をしたはずかしさを憤りに変えて相手にぶつけた。

「君、こんなところでなにをしてるんだ。通行の邪魔だ。なにをかんがえているんだ。あぶないじゃないか」

「…幼虫」

「なんだ?」

 少女の声は地面にむかってすいこまれていくようにか細かったが、私の傘がパラボラの役目をはたしたのだろう、よくきこえた。が、いまいちことばの意味がわからなかったので、ききかえした。

「セミの幼虫」

 少女は地面を指さした。少女の指さすところには、私のクツがあった。

 足をどかすと、そこには潰れひしゃげたセミの幼虫だったものがあった。

「それを見てたんだ。今日は雨でしょ。土も柔らかくなって、アリのやつもひっこんで、すごく運がいい幼虫だなっておもってたんだ。ゆっくりゆっくり這いまわっていたの。高く高く登ろうねって。でも、これだもん」

「私がその幼虫を踏みつぶしたのは事実だが、だいたい君がこんなところで道をふさいでいるのがわるいんだ」

「そう、みーんな、私がわるいんだ。みんなそう言うし、わたしもそう思うし」

 わたしはだんだん気味がわるくなってきたが、少女の容姿から察する身体能力をかんがみると、心に余裕がうまれた。肉体的にも社会的にも、弱者にたいしてまっとうに生きている私が劣っている部分などひとつもない。優越感に陶酔して気味わるさを押し込めた私は、少女にさらなる文句を言ってやった。

 しかし少女は私の口から発する罵声などどこ吹く風だった。

「男のひとはね、わたしをみるときまってその青いリボンがいいねって言うの。みんなきまってね。その青が黒に映えるねって、全体を引き締めてるね、そのチョイスはセンスいいねって。みんなそう言うの」

 少女は、ろうそくのように白い肌で、よく見るとうそみたく美しかったが、凛と見開かれた大きい目は視点が定まっておらず、私の方をみながらも黒目がゆらりゆらりと箱ブランコのように動いていた。

「おかしいよ。こざかしいっていうのかな。わたしこのリボンだいきらいなのにさ」

「だいきらいならなんでそんなものをつけているんだ」

「これはね、わたしの目なの。わかる? いろんなものがみえるんだよ。ビーってなってみえるの。わかる?」

「そんなこと言われてもわかるもんか。わかってたまるか」

「だから外せないの。トウイツしたいのに。だから、だいきらいなんだ」

「ああ、もう、わかったから。とにかくそこをどきなさい。たちなさい」

「あなた、失礼なひとね」

「君が失礼なやつなんだ!」

 少女はこんな調子で、いっこうにらちがあかないので、

「帰り道でまだ君がここにすわっていたら、警察を呼ぶからね」

 とウソを言って歩き去ろうとした。

 歩を進めようとした私を少女が呼びとめた。

「待って」

「なんだ。まだなにかあるのか。私もそこまでヒマじゃないんだぞ」

「高い場所に行きたいんだけど、わたしもう歩けなくて、こまっていたの。地面のしたにいってしまうところだったの」

「なにをいってるんだ。自殺志願者か君は。高いところにいってとびおりるつもりじゃないだろうね」

「とびおりるなんてしないわ。だってわたし飛べるようになるんだもの。だから大丈夫」

「おい。物騒なことを言うな。ほんとに警察を呼ぶぞ」

「あなたの体を貸して。わたしそこでドロドロを羽に変えるから」

 少女は動きはじめた。少女の全身は思ったより小さかった。というよりも、しゃがんでいたと思っていた少女の体は、あれで立っていたのだった。

 少女は傘を置きっぱなしにして、両手を不器用に地面について、赤ん坊のハイハイのように、もそもそとうごめいて、私に近寄ってきた。

「おねがい。高いところになって。一晩でいいのよ。ドロドロがミルクより白くなって、かわいたら黒い羽になるだけなんだから。レース模様みたくきれいな羽よ」

 不器用に手を上下させながらもそもそと近づいてくる少女に、私はそれまで感じていた優越感を置き去りにするほどの恐怖を感じた。

「やめなさい。やめろ…やめろ!」

 足が、動かなかった。足もとをみると、踏みつぶした幼虫の体液が糸をひいてクツと地面とを結びつけていた。

「痛くないのよ。一晩借りるだけだからさ。ほら、やっと着いた。わたし、歩くのはニガテだけど、登るのは得意なの」

 私をよじ登る少女の腕の力は、機械のように力強く、落とそうと抵抗する私の腕をものともしなかった。

 少女はすぐに私の背中に到達した。

「一晩だけだから。おねがいよ」


 そのあと、気がつくと私は救急車の中にいた。

 私と目があった救急隊員が、一瞬ぎょっとした顔をしたが、すぐさま状況の説明と、家の連絡先を聞いてきた。私はあの小道に倒れていたという。目撃者によると、走りだした私がジャンプをした際、着地に失敗して背中から倒れて後頭部を打ったらしい。

 それを聞きながら、情けなさよりも先に私は、あれは夢だったんだ、と安堵した。とはいえ、たしかに後頭部がズキズキと痛む。頭が固定されていて触れないが、隊員の説明を聞く限り、おそらくガーゼかなにかで止血処置がとられている。

 家の連絡先と言われても、私の家には誰もいない。とっさに出てくるのは実家ぐらいなもので、あまり大事にはしたくなかったが、仕方なくそれを教えた。隊員は即座に電話をかけた。親に状況を伝えているのを聞きながら、私は恥ずかしくなった。大丈夫そうだから来なくていい、と言ってはみたが、頭をしこたま打った搬送者が大丈夫だと言うことなんて、酔っぱらいが酔ってないというようなもので、相手にされなかった。私はそれを理解し、ムダな抵抗はやめ、流れに身をまかせることにした。それしかできることはないのだが。

 病院で頭の検査をしたが、異常はなかった。ただ、頭の傷口が汚れていたらしく、その処置でえらい目をみた。

 離れたところにすんでいる親が心配して、今夜だけ入院することになってしまった。医者はめんどくさそうにその手続きをした。

 日が落ちきったころ、私はベッドの上に着いた。なんだか無性に疲れて、そのまますぐに眠ってしまった。

 不用意な時間に眠ってしまったものだから、深夜に目がさめた。

 私はのどがかわいて、ベッドを抜けた。なぜだか立ち上がれなくて、ハイハイのかっこうで、もそもそと歩いた。

 階段を登り、屋上に出た。扉に鍵はかかっていなかった。

 病院はそんなに高い建物じゃなかったが、避雷針があった。もう雨はあがっていた。

 私はフェンスをよじ登り、また避雷針をよじ登った。

 先まで到達すると、私はじっと空を見た。じっと、ただただじっと。

 遠くの空が、あかるくなってきたのが見えた。私は頭に念をいれた。

 すると、傷口をおおっていたネットとガーゼが落ち、パクリと傷口が開く感覚があった。

 いいぞ、私はさらに念を送った。ドロドロに溶けた脳みそがミルクよりも白い羽になる、そんなイメージの念だ。

 すぐに、それは私の後頭部から出てきた。そろりそろりとゆっくり後退するエビのようにそれは出てきた。

 それから突如視界がビーっとなって、そのあとみえてきたのは、青っぽい私の背中だった。

 日の光を浴びると、羽はじゅうぶんに伸びて、乾ききったようだ。

 私は脱け殻からさっと飛び去った。脱け殻には小便をひっかけてやった。




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