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私が昔愛した人

「あたし、雨の味が好きなんだよ」

 そう言うと彼女は、小雨の降る中、路上の縁石に座り、スーパーで買ったタイムセールのマグロ赤身寿司をいとおしそうに食べはじめた。醤油のパックはそのままに、したたる雨に濡れるがまま食べるのだ。雨には濡らすくせに箸は使うところが、彼女が単に野性を求めて寿司を雨味にしているわけではないことを示している。

 私とすれば、彼女がするその一連のスムーズな行動に驚き、またあきれるだけだ。止めたりはしない。

 思い返してみれば、私が彼女を発見したときも、彼女は小雨の降る中、バス停でバスを待ちながら、バス停の細い屋根のかかっていない縁石にペタンとおすわりして、そのときは雨味のから揚げを食べていた。

 なんでわざわざ濡れるところで食べているんだろうと、同じバスを待つ私がいぶかしげに彼女を見ていると、彼女は先刻と同じ言葉を言いつつ、私にから揚げを差しだして、「食べてみる?」と、どこかくるくるした舌ったらずの言葉づかいで誘ってきたのだ。

 そのころの私は、なにごともうまくいかず、自暴自棄になっていた。スーツの内ポケットにポケットサイズのウイスキー瓶をいれて、歩きながらちびちびと飲んでいるような生活をしていた。

 それより少し前、私が退職する間際、私の体は鉛のように重く、顔色もどこか鉛のようだった。自分の体臭すら、鉛のような金属的な、鼻の奥をひっかくようなものに感じられたし、頭の働きもにぶくなっていた。

 持病の偏頭痛がひどくなり、あらゆる面で体調がすぐれなかった。すぐれなかったというよりも、やはりここも、にぶかった。めまい、立ちくらみ、動悸、息切れ、過呼吸、軽い幻覚や幻聴。自律神経がうまく作動してくれていなかった。そして、それに付随するうつ症状。毎晩、雪山の遭難者みたく、今寝たら死ぬ、という観念にとらわれ、眠れたもんじゃない。その結果生活リズムなんてあったもんじゃなく、私はそのころのある月に、3回救急車で運ばれることになる。外出先で急に意識を失い、倒れてしまうのだ。はじめは糖尿病が疑われたが、どうやら上述のとおり、自律神経の問題で、急に意識を失うのは迷走神経反射という現象が起こっているからだという。

 3回倒れたうちの最後2回、私は倒れた拍子に頭をしこたま床に打ちつけた。幸い脳におおきなダメージはなかったものの、それでめまいがよりひどくなった。視界が常に時計回りに傾いてゆくのだ。耳石が剥がれでもしていたのだろう。その結果、とうぜん、私はうつにありがちな選択として、辞職した。

 しばらくの静養を挟み、就職活動をすることにした。でも、私にとってそれは体面上のもので、実質はスーツの内ポケットのあれをちびちび飲みながらふらふらしていただけだった。処方された薬や漢方などを飲んではいたが、効果を実感することはできず、しかしより良い治療法を探す意欲はわかなかった。また、生まれついての人間嫌いで、頼る友人も家族もいなかった。

 あのころ、私は誰彼かまわず話しかける傾向にあった。人間嫌いの私はとうぜん社交的ではないが、あのときは違った。これは前向きになろうとした結果そういう行動をするようになったわけじゃない。誰彼かまわずに迷惑をかけ、八方を塞ぎに追い込んで自分の逃げ場をなくし、出るところのなくなったエネルギーを死ぬ動機にしようとしていた。と思う。外食をすれば盛り上がっている席の会話に混ざる、おばあちゃんの手を引く、等の迷惑行為をやっていた。やけっぱちの行動だった。

 その行為の延長線上で、私は彼女が差しだした雨味のから揚げを、迷いなく食すことにしたのだ。

 ね、おいしいでしょ。と、言いたげな顔つきで私をみつめる彼女は、通りすぎる車のヘッドライトやテールランプを化粧に、とてもかわいく見えた。


 そのあと、私たちは同じバスに乗って、とりとめもない話をした。

 話をしていると、彼女はわりとふつうの娘だということに気がついた。ふつうの若い娘はバスを待つあいだに雨味のから揚げを食べないし、それを見知らぬ三十男におすそ分けなどしないが、よくよく考えれば、すれに擦れたシャツを着ているようなババアならそういう行為を自然とするものだ。私は道すがらそういう見知らぬババアから唐突に生シャケの切り身をもらったことがある。そういうババアにも若い娘時代があったことを考えれば、これはままある女性の行為なのだ。などと考えて納得し、雨味のことは深く考えないようにした。話題にもださなかった。隣にすわる彼女は、いまは特に変わったところのない、ふつうの若い娘だ。だけど、私は数分前たしかに、この娘から雨に濡れたから揚げをもらった。でもそのことを口にだしたら、彼女が溶けて消えてしまうような、むしろ私がどこかよくわからない空間に吸い込まれてしまいそうな、とにもかくにもから揚げの話を切り出したら彼女は次の停留所で降りてしまう、そんな感覚があった。私はもっと彼女と話していたかった。

 変な娘っこをひろったヤボテンが行くところといえばホテルぐらいしかないが、このとき私はそうしなかった。というのも、私は面接に行く途中であったからだ。酒気をはらんだ上に女香をふりまきつつ、なおかつ大遅刻する。という事態は、さすがにあのころの私でも避けざるをえなかった。

 バス内で意気投合、というか、大人の悪知恵で意気投合したような雰囲気をつくったところ、私は彼女の連絡先を教えてもらった。

 やけのやけっぱちだった私は、たとえそれが詐欺商法のようなものであっても、それならそれでよかった。

 夜半になって連絡をしてみると、すぐさま返事が返ってきて、また会おう、という運びになった。ついでといってはなんだが、さっき会った面接担当者の名刺は捨てた。向こうも私に持っていて欲しくないだろう。

 そして小学生の約束のような早さでまた会った私たちは、ここでようやくベッドをともにしたのだ。

 彼女の容姿は、美人かブスかといったらブスの方だが、私はいわゆる美人が好きではない。この性向は兄弟親族にモデルが複数いるような環境で育った結果だと思われる。私は、子供の頃は、将来有望の容姿だったものだが、親不知が変なところから生えてきたあたりで、顔がゆがみ、美形のルートからはずれた。許すまじ親不知。

 彼女は愛嬌のある顔立ちで、「おかめ」の面を若くかわいくしたようだ。おかめの年齢を知らないから、若くなったおかめが何歳ぐらいになるのか知らないが。ともかく、私はそういう愛嬌のある顔の女が色に酔う姿、火照った顔を好む。つまりは、彼女は私のタイプだった。

 くしゃっと笑う彼女の笑顔がまたかわいかった。鼻をツンとさせ、眉間にしわを寄せる顔は、私の衰えた筋肉に喝を入れるには十分だった。

 胸の皮膚を突き破りそうにはげしく打つ鼓動と全身から噴き出す汗、荒い呼吸。上腕二頭筋は悲鳴をあげているのに、膝は笑っている。さながら阿鼻叫喚の地獄絵図を私の肉体は描いている。我ながらなんとも情けない体力になっていた。息をなるべく静かに整えつつ、敏感肌になった彼女をつっつきながら、私は不意に、腹上死のことを英語ではハピネスデスというんだったな、と思い、また、ハッピーなままならそれは悪くない、と考えた。


 それから幾晩か、そうした夜を過ごした。諸関節のなまくらな動きに固さがなくなっていくのと比例するように、私を悩ませる諸症状も和らいでいった。

 好きになった女と寝ることで治る程度の、ほんの些細な症状にいままで私はこうも苦しんできたのか、と、落ち込みもしたが、体調が良くなることを素直に喜べるぐらいにはなっていた。


 彼女は、ところどころ独特の感性がありながらも、総合するとやはり、わりあいふつうの娘だった。


「あれ、おはよう」

 自宅のベッドからはね起きた私に、彼女はおどろきつつも、朝の挨拶をした。

「寝てたのかおれは」

「うん。さっきまでぐっすり、まるで子猫のように寝ていたよ。そうまるで、子犬のように」

「猫か犬か、どっちかにしてくれ」

「あれはまるで、子トリケラトプスのようにぐっすりと」

「ツノが生えてるやつの安眠姿はいまいち想像できないよ。ツノ、3本も生えてるし、子トリケラトプス。目覚めて一発目に子トリケラトプスのことを考えさせられるとはおもってもみなかったよ。めんどくせえ。とてもイヤな朝ですね」

「だけど、あれだよね。はじめてだよ。あなたの寝顔をみたのは」

「おれもはじめてだ。彼女の横で油断したのは」

 そう言うと彼女は、

「へへへ」

 と、大根役者のセリフみたいにわざとらしく笑って、淹れたてとおぼしきコーヒーをズズと飲むと、あちぃ、と言いながらそっぽを向いた。私から見える寝癖のついた後頭部の向こうで、彼女が誇らしげな顔をしていればいいなと私は思った。

 というのも、私は恋人が隣で寝ていると眠れないのだった。そのことは彼女には言ってあった。

「だから、たいへんなんだよ。ああ、きみは気にしなくていいことなんだけど。もとの彼女とか、それでもめたりした。わたしといると安心できないの!? 信用できないの!? ってな具合で」

「まあ、そう思われるよね」

「何度も何度も理解してもらおうと、おれはこういう体質なんだからと説明しても、聞いてもらえたためしは誰ひとりない」

「人間って基本、同じ体験しないと理解はないし、結局のところそれは無理だからね」

「すごくそのとおりだと思うけど、若くしてさめてるねきみは」

「うーん。でも、だからこそ、自分がぐっすり寝ている横では彼氏にもぐっすり寝ていてほしい…んでしょうよ、どうせ」

「冷めてる感をむりくり出さなくてもいい」

「同じタイミングで寝て、偶然同じタイミングで目を覚ますなんてやっぱり私たち運命の赤い糸で繋がれた者どうしなんだわ! とかなんとか言っちゃってさ」

「若くして冷めてると中年になったとき変なところで熱くなるから気をつけろ。ああ、それからおれ偏頭痛持ちだからさ。痛くなるの頭。不意に。あたりまえだけど。そんですげー頭痛くなるとおれ、一言もものをしゃべりたくなくなるのよ。だってすげー頭痛いから。これ死んでなきゃおかしいだろってぐらい頭痛いから。でもそうなると、わたしにもう興味ないの!? ってなる。黙ってるから。無茶言うな、と」

「せっかくのデートなのに」

「せっかくのデートなのにどうしてしゃべらないの、と」


 私の偏頭痛は、概ねリラックスできる状態に近づいた時に起こる傾向がある。これは子供のときからで、昔は、学校からの帰り道だとか、によく起こった。学校だったり仕事にいっているあいだに起こることは珍しく、起こったとしても家に帰るまでは軽微な疼痛で済む場合が多い。

 すなわち、おれが恋人の前で頭が痛くなるということは、それだけ恋人のそばでリラックスした状態になっているということなのだが、リラックスしているならどうして夜寝ないの!? とかなんとかはじまって、これもこちらの言い分を聞かれたためしがない。私はほんとうに合わない女とばかり付き合ってきた気がするが、それもしょうがない。そのような相手からすれば理不尽な私に合わせてくれる女性というのは、実の母親ぐらいなものだろう。つまりは、私にとって恋人の存在、はては結婚生活というものは、生き地獄にしかならないのだ。人間嫌いを自認するものとしては、さもありなんだ。


「どんな子供だったかっていうと、これはもう一言でいうならば、絶世の美少年だった」

「おもかげすら残ってないのは、どういうことなのかしら」

「ウソではない。常に、特に上級生の女子たちに囲まれていたのだよ。バレンタインなんかもうバレンタインが嫌いになるぐらい独占していたからね。あまりに愛くるしい子で、そうさな、おれは、いわば、愛くるしさを唯一の長所として人生を歩んできたみたいなところがある。今度から履歴書とかの長所欄のところには、愛くるしさ、と書こう」

「ハゲの進行を止められないおっさんのどこが愛くるしいのでしょうか。証拠ないの? 写真とか」

「ない。ぜんぶ実家」

「えー、見たいなあ」

「無理ですねえ。実家はおれの居場所じゃないし」

「なにそれ」

「いやさあ、おれ子供のころ、ほんとにちいさいころ、休みの日に家族でどっか行くことになったんだよ。釣りか外食かなんか。出発直前に、おれ兄弟からからかわれたかなんかで、泣いてたんだよ。まあ、おれあんまり家族で外に出るの好きじゃなかったってところもあるんだろうけど。だって、外でるとほぼ必ず父親が怒りだすから。まあ、それはいいとして、泣いてたら、案の定、父親が不機嫌になるわけよ。これもいま思えばせっかくの休日に家族サービスのひとつでもしてやろうと思ってる父親の気持ちを考えれば理解もできるけども、おれそこで、家に居場所がねえのは俺のほうだ! って怒鳴りつけられたんだよ。年端のいかない幼子にそんなこというかね? たくさん不条理に怒鳴られたけど、これだけは忘れられない。そっからだ、おれが感情をおもてに出さなくなったのは。父親の居場所をつくらないといけないからさ。おれの居場所をなくしてでも。だから、おれは家には近づきたくない。おれの居場所じゃないんだ。考えると、あれからずっとおれは自分の居ていい場所を探してる気がするし、自分の居場所を他人から奪うのはストレスだなあ。だから仕事辞めたのかも。まあそんなことはいいとして、そしてなにより、そうして鬱積する感情は表情にでて、成長期の表情は顔の形を決めるから、大人になったころ、おれは美少年ルートから外れて、このように醜くなっていくことになるんだ」

「あー、たしかに、なに考えてるかわからない顔よくするもんね」

「そんなときはだいたいきみのことを考えているんだよ。とまあ、こんな歯が浮くセリフをさらりと言うことができるぐらい、上級生の女子たちに仕込まれる美少年だった」

「奴隷みたいよねえ」

「良い男ってやつは、女が恋を引っ掛けるための釘みてえなもんだと昔偉い人が言ってたきがするよ。だから、良い男ってのはまさしく恋の奴隷なんだよ。そういや下半身を見せびらかされたりしたもんな。ほんとよかったおれの貞操が無事で」

「わかんないよ。えぐい記憶を抹消してるだけで」

「怖いこというなよ」

「でも、だと変だよね。リラックスできる家に帰ろうとすると頭痛くなるじゃなかった?

 居場所なくてリラックスできるの?」

「え? あー、そうか。うーん。でも、過度の緊張状態にあるときに頭痛くなった記憶はないからなあ」

「あなた変なところで機転がきくじゃん。なんかさらっと変なこと言ったり、変な場面で変なことしたり、変な状況に陥ると変な成果をもたらしたり。変な逆境に変に図太いみたいな変な人じゃん」

「変、しかいってないなよねきみ。まあでも明らかに集団行動には向いてないから、変な奴だよおれは」

「あたしも集団行動は苦手」

「でしょうね」

「あたしなんて社会不適合者だからね」

「その自覚あったんだ」

「ひどくない? フォローしてよ。そういうパスだよいまの」

「自覚あるだけマシじゃん」

「フォローになってないよ。めんどくさがってるでしょ」

「…まあでも、お互い社会不適合者同士、くっついたらちっとはマシに、楽しく暮らしていけるかもなあ」

「それはダメだよ。社会不適合者同士が暮らしてたら、もっとダメになるじゃん」

「そうかな」

「そうだよ」

「そうか」

「うん」


 私が彼女の前で寝込むときに、私は様々な反省を踏まえ、奉仕の精神を持つことにした。

「なにかしてほしいことある?」

「いやあ…だいじょうぶ…テレビもつけていい」

「そうなんだ」

「でも…光をおれにあてないようにしてほしい…」

「へーい。薬は飲んだの?」

「ああ、ちょうど…きれてた」

「きれてたってなに? 賞味期限? って、はいはい、めんどくさいこと訊いたね。…これでしょ。おっ、ぴったし残つぶゼロじゃん」

「残つぶってふつういうかなあ…」

「じゃああたし買ってくるよ。ひとっ走りで買ってくるね。場合によってはふたっ走り、みっ走りになるかもだけど、犬に追っかけられたり追っかけたりしたら追撃のごっ走りになるかもだけどってどうでもいいね」

「犬を追っかけても…たぶんなにもいいことはないぞ」

「だよねー。じゃあまた」

「……………」


「ただいま」

「あれ…かわいこちゃんが突然おれの部屋に鍵まであけてはいってきた…どうしてこんなかわいこちゃんが、おれの部屋の合鍵を…って、ああ、おれの好きな人でしたか」

「おやまあ、珍しくうれしいことを言ってくれるものですね」

「おれはいま、AIなんだ」

「突然の機械化宣言。テツローもびっくりだ。なになに、どうされました?」

「おれは、いま…解脱状態にある」

「どっちなんですかね」

「あまりに頭が痛いから…こうして、瞑想して…心を無にして、オートメーション化して…肉体の感覚と、心とを…分離させることにしている」

「なるほど。まあ、あれですよ。意味はわかりませんけども」

「いま…おれの体には、おれの魂の極一部しか…とどまっていないのだ」

「おーい、きみの魂の大部分帰ってこーい」

「おれの魂の、極一部、おれの、純粋な…極めて無垢で、おれの肉体はいま、おれの純粋な魂の傀儡なのだ、よ」

「怖いよ。なんだそりゃ。こりゃダメだ。お薬のまっせ。早くのまっせ」

「こんなにかわいい人にお薬を飲ませてもらえるなんて…おれは…十分、生きた」

「なんだか御臨終間際みたいになってますけども? はい、これ」

「おれさあ、薬はよくのむんだけど…薬のむのに慣れてないんだよね…」

「ガキみたいなこと言ってるんじゃない! 鼻をつまむよ鼻を!」

「………じゃあちょっと、しばらく目を閉じていることにするから、すまんね」

「うん。ついでにポテチとか買ってきたから食べてる」

「ついでに買うなよな…」

「やっぱりそうだよねー。あたしもさ、ピザ味にしようか、うすしお味にしようか迷ってるときに、そう思ったんだ」

「迷ってる時間……」

「だよねー」

「…で、どっち?」

「うん。結局、明太子マヨ味にした」

「第三の勢力…だな」

「第三の勢力だよ。明太子マヨ軍は」

 そのあと、私はうつろな意識のなか、彼女がソファに寝転がりながらポテチを食べたり、鼻歌まじりでゲームをしているのを耳で聴いていた。ひどく上機嫌な彼女に、ゲームするならポテチは箸で食えよ、と文句は言えなかった。


 頭痛明けの日に、彼女は彼女流の瞑想法を教えてくれた。

「あたしは、イヤなことがしがみついてきたり、ダメだーってなったときには、こうイメージするの。こう、カポっと脳みそを取り出すでしょ」

「脳みそをいきなり取り出せますか?」

「できるできる。そしたら取り出した脳みそを春の小川のせせらぎにさらします」

「切った玉ねぎを水にさらします、みたいに言うなよ。怖いぞ。平野レミとかふつうに言いそうだけどさ。さてそうしたら取り出した脳みそをせせらぎにさらしていきますよー、とか」

「まあまあ、おちついて。そしたら、脳みそのすみずみまで小川のきれいでクリアな水でソソぐイメージをするの。ソソぐってあれよ、漢字で書くと雪、の雪ぐ。冷たいイメージをもちたいから」

「はい」

「ちょっと邪険にされたからって、ふてくされないでよ。で、そうやって春の小川にさらされていると、なんか脳みそからイヤなものが洗いだされていくといいなって思う」

「なんていうか中途半端だよね、それ」

「まあでも、試してみてよ。こないだみたく息絶える前に遺しておきたい言葉をつぶやかれるよりはマシだよきっと」

「それ、きみの方のリアクションだよね?」

「まあまあまあまあ」

「小川のせせらぎに、ねえ。ああ、そうか。わかった。だからきみは雨の味が好きなのか。雨は小川につながるからか。周りめぐっているのか。なるほどね。おれもきみのせせらぎ法を知ってたら、雨を愛おしく感じてただろうね」

「…うん。いやーはじめてだよ。雨のこと理解してくれた人は」

「当たりか。でもダメだよ。大人はね、こうやってうわべでそれっぽいことを言って、あなたのいうこと理解してますよってフリをして、相手の意思の自由を奪い、自分の利益になるほうに誘導するんだ。コールドリーディングっていうんだよ。騙されるな」

「なにそれ。あたしの感動を返してくれる? もう、すごく泣けてきたのに。あ、あれでしょ、泣かれたらめんどくせえなって思ったでしょ。ひどくない?」

 次にその機会があったときに彼女のやり方を試してみると、痛みが少しマシになった気がした。


 彼女とつきあうなかで、私の体調はかなり回復した。体調が回復するということは、考えることもまともになってくるということだ。また、失業保険の支給が切れる日が近づいてきてもいた。

 将来もくそもない三十男に、就職を控える学生をこれ以上つき合わせてはいけない、そんなまともな考えが私を支配した。

 私は徐々に彼女との連絡を控えるようにした。紅が黄色味をまして、やがて薄くなり、消えてしまうかのように、私は彼女の現在や思い出からそっと消えてしまいたかった。

 実際、私の身の回りも慌ただしくなっていた。運良く、就職先が見つかったのだ。そこは地方で、引っ越しもしなくてはならない。慌ただしくといっても、それまでのヤボテン生活に比べればの話だが。


「今のままじゃダメだって!? よくないって!? あたしのため!? そんなのウソじゃん! だって、あなたがあたしにいちばん言ってほしい言葉は、あなたは今のままでいい、でしょ! あたしだっておんなじだよ!」

 彼女は私の予想以上に取り乱した。それは、ここ数週間、まともに連絡すらしなかったことも影響しているのだろう。私がはじめてみる、彼女のよくある女らしい面だったかもしれない。

 私は、引越しのことは黙っていた。様子を見ながら、タイミングがあれば言おうとしていたのだが、彼女の涙は梅雨の長雨のごとくやむことはなく、機会は訪れなかった。

 水平線の口論が続き、しばらく泣いていると、彼女は突然、私の部屋にあったクロワッサンにムシャぶりついた。

「不味い。不味い」

 そう言いながら、彼女はクロワッサンをムシャムシャと食べ続けるのだ。

 私には彼女が、涙味のクロワッサンを食べる行為を私に見せつける理由がわかった。

 しかし、ここでそれを理解して彼女をなぐさめることをすれば、私の負けだ。冷たく突き放すのが、彼女にとって最良の選択なのだ。

「もう何も言ってくれないんだね。あたしが居場所になってあげたのに。あたしの居場所だったのに」

 そう言うと、彼女は大きなため息をついて部屋から出ていった。

 折しも天気は崩れ、ポツポツと大粒の雨が降りはじめていた。

 私は彼女を見送ることもなく、部屋の扉を閉めた。

 こんな天気なら、彼女は駅前のスーパーに立ち寄り、バス停の横の縁石に座って、存分に雨味の何かを食べるのだろう。それが何かはわからないが、けっこう真剣に吟味された食べ物で、少なくともさっきのクロワッサンよりはおいしいはずだ。

 そして、目と目があった誰かと一緒に雨味のそれを食べて、そして、いや、そんな特殊な出会いを通じなくとも、職場でなんやかんやあるだろう。そんなことを思いつつ、私は部屋の整理をはじめた。




 それから数年後、順調に、眼を凝らすと見ることができる透明人間のように働いていた私だが、きわめて性格のあわない上司から、一緒にカラオケ行こうぜ、と誘われたことをきっかけに、退職を考えはじめていた。すごく行きたくなかったのだ。ひと昔前のOLみたいな辞職理由に我ながら茫然としながら、週末は法事で実家に帰らなくちゃいけないんですよ、などとのらりくらりと誘いを断っていたある日、帰宅する途中、雨に降られた。

 普段、健康のためにそれなりの距離を歩いて帰ることを日課にしている私だが、こう無防備な状態で雨に降られればバスを利用する選択をするのは仕方のないことだ。

 すこし降られながら、足早にバス停まで向かう途中、いま、もしも、あの彼女がバス停の縁石に座っていて、どこか舌ったらずのくるくるした言葉づかいで雨味の何かを私に差しだして来たら、私はこれまで一切連絡を取ってこなかったように無視することができるのだろうか、と考えた。

 無視は、できない。そのまま彼女とバスに乗って、過去になにもなかったフリをしながらとりとめのない話をして、どこか遠くへ行ってしまうだろう。


 そんな完全な妄想が現実と化し、社会の追っ手から逃れに逃れた末に訪れた無人島にてふたりは不思議な遺跡を発見。どたばたしていると地獄の扉が開いてしまい、メフィストフェレスに踊らされ、無間地獄に堕とされてしまって、さあたいへん。はたして彼らはしあわせと楽しい暮らしを手に入れることができるのか。野天の結婚式で雨に降られ、「仕方ないね」「仕方ないよね、あたしたちだから」と笑いあい、雨味のウエディングケーキを食べることができるのか。

 私と彼女、きみとあなた、そんなふたりのハラハラドキドキ抱腹絶倒ちょいエロ摩訶不思議学園アドベンチャーが、はじまる。



 私が昔愛した人

 プロローグ〜完〜

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