表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/25

ほっこり庄屋さん

「あなたがたはおおいに責任を自覚する必要があります。すなわち、あなたがたは無自覚に、いや、自覚をしながらもなお、それでも、なにかと理由をつけ自らを正当化しながら、なんとまあ、無自覚を装い素知らぬ顔までして、新たな生命をこの世に生み出してしまったのですから」

簡易テーブルに両肘をたてて、老女は私たちに語りだした。枯れ木のようにシワだらけの紋様に反して福々しく水気に満たされた顔をしている。頭はつるっぱげで、僧侶だという。頭以前に着ている服装からして僧侶然としている。狭い会場にはどこからか米の炊き上がりみたく甘ったるい匂いがする。香木でも炊いているのだろう。やけに甘い匂いだ。鼻の頭にホイップクリームがついているのではないかと思うほどだ。私は甘いものが嫌いだ。思えば元旦那は甘いものが好きだった。甘味を食べるためのダシに連れまわされるのがだんだんうっとおしくなっていったっけ。

「ですから、そりゃ大変でしょう。親になる覚悟と呼ばれるわけのわからないものすら、あなたがたにとっては苦痛でしかない。そりゃあそうです。そりゃあそうですよ。だってそれは本音を偽る欺瞞でしかないのですから。現実逃避でしかないのですから。親になる覚悟なんてあなたがたにとっては、そんなものは、着ている洋服を誰かからまるで似合っていないと言われたときに、その洋服の素材だとか機能性をアピールして自分のファッションセンスのなさを擁護する程度の、さもしい言い訳にすぎないことを自覚しているのですから。だって、あなたがたは怯えているのだもの。隠してはいるけども、死ぬことに怯えて、怯えて、恐怖しているのだから。なぜ自分が死ななきゃならないのか、あなたがたはとうの昔にその結論にたっしていますね? そうです。生きているからです。生きているから死ななきゃならない。いつか死ななきゃならないのに、その時がくればきっと死ぬほど苦しみ、死ぬほど嘆き、その果てに自分の全てが、自分の意識が、自分の時が、目に見えているもの全てが、永遠に無くなってしまう、それなのに今を生きていること、この恐怖と後悔。生きていてよかったと思えることもあるでしょう、しかしそれは果たして死の恐怖、自分が消えて無くなることとトレードオフになるほどの価値があるのか。そんなことにあなたがたは日々怯えているのです。その怯えを隠して生きているあなたがたは、だから、ウソをつく。だから、責任を自覚しなくちゃならないのです。新たな命をこの世に作り出してしまったことを、誰かにすがり誰かにすがられなければ寂しさのあまりまともに生きてもいけないこの希望のない妥協に満ちた世界に生み出してしまったことを、とどのつまり結局死ぬより他に道のない絶望の世界に新たな生命を誕生させてしまったことを、あなたがたは自覚し、責任をもたなくてはならない」

老尼はさっきからこのようなことを、端々で言葉を変えながらも、くりかえしくりかえし語り続けている。抑揚のない語り口と動きのない姿勢と相まって、まるで念仏を聴いているみたいだ。だんだんと頭がぼんやりしてくる。とうぜん、私はこのセミナーに参加してしまったことを猛烈に後悔をしている。

「親というのは子供からみれば、いうなれば、殺人者のようなものです。だって、子供は生まれてこなければ死ぬこともなかったのですからね。生まれた瞬間に祝福と同時に時限爆弾を持たされたも同然ですからね」

隙をみてちらりと腕時計を見やると、おおよそ1時間ものあいだこの調子だ。

しかし、ひょっとしたら私が時計をちらりと見やる行為を契機にしたのかもしれないが、やっとこさ老尼は話を進めだした。

「それでは、ではどうやって責任をとればいいのか、ということになってきます。あなたがたはたくさんたくさん、そのことについて悩み、己を恥じ、悔やみ、ときには怒り、憎み、とまあ、頭のなかがこんがらがってこんがらがって、まるで内側が全面鏡張りになっている球体の中に入ってしまったような、江戸川乱歩の書く鏡地獄の中にいるような感覚から抜け出せないでいるのでしょう。しかし、答えはかんたんなんですよ。とてもシンプルです。まっすぐに、なんやかんや理屈をつけずに、まっすぐに、これ、言ってしまえば、死ねばいいんですよ。そして、殺せばいいんです」

なぜだか知らないが、彼女がそう、おそらくは決めゼリフを吐くと、うわあうわあ、と嗚咽を漏らす声が背後から聴こえた。参加者は前列に5人、後ろに3人。この中に新参者は私だけかもしれないと思うと背筋が凍る。

たしかに、私は育児に疲れて、それこそ老尼が言うような理由で子育てに矛盾を感じて、このシングルマザーのための育児セミナーに参加することにした。対面し、グチを共感できる仲間ができれば、愛娘に対する私の邪心も忘れられるのではないかと思った。害のない程度に薄めることができるんじゃないかと思った。しかし、いまさらながら、溺れるものは藁をも掴むということわざ通り、これじゃまるでカルトの洗脳だ。冷静を装いながらも、冷静な自分のした判断だということを言い訳に、私はこんなカルトのセミナーに参加してしまっている。つくづく自分というものを信用してはいけない。そもそも、それで失敗したと自覚しているからここにいることになったというのに。

「愛すべきものを殺すことは罪なのでしょうか」

ほら、やっぱりカルトだ。法と倫理がどちらが先かなんてこと以前に、人を殺せば罪に問われることはあたりまえで、法と倫理をないがしろにするものをカルトと呼ぶのだ。というか、それ以前の問題だ。

「死はみなに平等に訪れるものですね? ならば、死に方を選ぶことはそんなにいけないことでしょうか。死に方をデザインするのもまたライフスタイルなのではないでしょうか。そして、悲劇にもこの世界に生まれ出でてしまった新たな生命を、私はこれを生の牢獄囚と読んでいますけども、この生の牢獄囚を死をもって解放せしめることはおかしいことでしょうか」

よくもまあぬけぬけと、そして見た目ほど歳をとっておきながら私たちと年端もいかぬ子たちにむかって死ねばいいのですとのたまうことができるわね、と私はムカムカした。だったらまずお前から死ねといいたい。でもたぶん、そんな質問は想定されていて、きっと、「私は修行者であり、この生の牢獄にとどまり続け、一人でも多くの命を解放することが使命だ」とかなんとかいうのだろう。

「生にしがみつく必要というものは、それほど強くあらねばならぬものでしょうか。己が生きている意味、などという考えから抜け出せないままこじらせるとどうなるか。己が生きていた痕跡を残そうとするだけです。既存のものを己の発案で別の呼び方にするだとか、あるいはあらたな解釈という建前で歴史の否定、文化の否定、伝統の刷新という名目の破壊、また往々にしてあらたな争いの火種を招く、おおむね凡なる者には出過ぎたマネをするだけです。己が生きている意味を考える、という思考は、実は未来をみているわけではないのです。実は、過去をみているのですよ。過去、というよりは通過点といったほうがいいかもしれません。が、いずれにせよ、先のない思考なのです。だって、それは後追いの思考ですから。生まれた時からずっと後追いなのです。私はなになにをする為に生きてきた、という物言いですね。これはもう、過去という字は過ぎ去ったものと書きますが、まさしくその通りで、先の話ではないのです。後ろむきなのですよ。後付けなのです。仮にごうつくばりが歴史に名を残すことに成功したとして、その人はその先のことを特になにも考えてない投げやりな場合がほとんどです。やったもん勝ちだと考えているのでしょう。迷惑な話です。生きている意味を考えて行動するというのは計画的なのか刹那的なのか、よくわかりませんね。後向きだからです。後ろを向いていたら計画的でも刹那的でもありませんよね。後ろ歩きで前進しているんですよ。生きている意味を考えると、後ろを向かざるをえないものですからね。では、前向きな思考というものは何かといえば、これはもう思考じゃないんです。行動しかないんです。そうですね、死ぬことです。あっさり死ねばいいのです。前を向けば目の前には闇すらない死しかないのです。宇宙の端っこと同じですよ。死ぬまでに何かをやり遂げなければならない、何かことをなさなければならない、そんなものは死の恐怖に付随する強迫観念であり、現実逃避です。刷り込みと思い込みの産物です。無用の長物です。はた迷惑な話です。他人の死を観察し自分だけは生き残ろうとするあさましい思考です。何もしなくてもいいのですよ。特別ななにか、あなたの人生、あなただけができる特別な役割、そんなものは無くていいんですよ。何にも無くていいんです。あっさり死んでもいいじゃないですか。あっさり死んでもいいじゃないですか。明日地球がペテルギウスの超新星爆発のエネルギーにあてられて壊滅したとしたら、誰かの生命に意味なんてあったといえるのですか。生きていることに理由がなきゃいけないんですか。あのとき死んだ私の子供は、価値のない人生だったのですか」


延々と続くかと思われたババアの独演会が終わったのは、日が落ちてからだった。昼過ぎからはじまったのだから、実に6時間ものあいだ、ババアは念仏をとなえていた。驚くべき体力だ。聴いていたほうの私はくたびれてくたびれて、娘を預けていた実家に帰ると何もする気が起きず、娘のお昼寝布団に横たわり、そのまま寝てしまった。夜半にふと目がさめたとき、私のかたわらで眠っていた娘が寝汗に包まれていることに気がついた。

すこし体を冷ましてやろうと、水に濡らしたタオルで体をぬぐってやる。

娘のか細くて、生ぬるいちいさな首にタオルをあてたとき、ふと、脳裏にあのババアの顔と声が浮かんだ。

ハッとして、私は子供みたく大げさに首をふり、イヤイヤ、をした。苦笑いを浮かべ、娘の頭を、起こさぬよう慎重に、静謐な左官仕事をするようになでた。


セミナーに参加してからしばらく経ったある日、ありがたいことに参加後になにか壺を買えだとかお札を買えだとか引っ越せだとかそんな詐欺商法はなかった、とあるニュースがテレビで流れた。

地域コミュニティバスが8トントラックとぶつかって、死傷者がでた。一報はそんなニュースだったが、詳細にいたると異様になった。視聴者提供の現場動画で、見覚えのある僧侶然とした老婆がバスの中から這い出てきたふた組の母子にむかってがなっているのだ。

片一方の母子の幼子は、どうやら息がないらしい。老婆はふたり生きのこった母子にむかって、「お友達の子が死んで、それでもあなたは無傷でいようとしているのか。あなたはそれでも生きてゆけるのですか。殺しなさい。さいわい、その子も意識がない。首を絞めるのです。殺しなさい殺しなさい。それこそが友誼とゆうものじゃないですか。同じになりなさい。痛みを分かち、同じ涙を流すがいい。殺すのです」

そんな老婆ののたまいに、あろうことかその母親はふらふらと子供の首を締めはじめた。混乱のなかにあって同調圧力が働いたのだろうか。

野次馬のなかから男が飛びだして横たわる我が子を馬乗りになって絞め殺そうとする母親を、女の股に手を突っ込んで前転させるようにして引っぺがした。なるほど、過剰に乱暴な引っぺがし方かもしれないが、ひどく理にかなっている。母親の重心は前のめりになっているから前方に移動させやすいし、ひっくり返る中と後で母親が横たわる子の首を絞め続けることは不可能だ。パタンときれいに、そしてあっという間に回転していたので、子の首にたいした圧力はかかってないだろう。と、そんなところで動画はおわった。ババアはそのあと捕まったという。


老婆が会場で言ったことは逆説的に、私に娘を愛する覚悟を持たせることになったとさえ思っていた。かなりの荒療治だが、そういった意図があのババアにあったのではないかとさえ、その後の詐欺商法がなかったことから、思ったこともある。

しかし、老婆は本気だったのだ。本気で、真剣に、私や子供に死んでほしかったのだ。

家畜の屠殺という現実を目のあたりにしてショックを受けるかのごとく、私はあらためて底知れない寒気を感じた。

大きくて透明な風船のなかに何千何万もの蚊を捕まえて、空気だけを抜く。そしてなかに残るもじゃもじゃしたグレープフルーツ大の黒い塊を、ぎゅっと牛の乳を絞るようにつぶす。半覚醒の睡眠時、羽音を頼りに何度も耳元を空叩きしながら、私はたまにそんなことを夢想し、実際にそんな夢を見ながら蚊との格闘を続けることもある。うざったい蚊を大量にまとめ仕留めることは実に心地のよいイメージだ。でも、蚊の詰まったもじゃもじゃした風船が目の前にあって、あまつさえそれぞれが血を吸いパンパンに赤く膨れているものものだとしたら、私は気味が悪くて潰すことをためらうだろうし、潰せたとしても、とても心地よいものじゃないだろう。

そのとおり。私は、娘の命を奪うことなどできない。たとえその機会があったとしても、実際には実行できない。できないのだ。絶対に。


でも、最近ふと、娘から甘い匂いがすることがある。私の鼻の頭にホイップクリームでもついているんじゃないかというような強くて甘い匂いがする。そのたびに、老婆の顔が脳裏に浮かび、ニヤニヤと下卑た微笑を浮かべるその顔が、やってしまえと例の言葉を吐いてくる。そのたびに私はイヤイヤをして振り払うのだが、甘い匂いは思いがけずにやってくる。

あのとき、なぜ私の後ろの席の母親が嗚咽を漏らしたのか、少しわかる気がした。たぶん、私ももう一度あの老婆の講演をきけば、そうなるだろう。言葉にならない声をあげ、むせび泣くのだ。娘を殺してあげられないのは、だって、やっぱり、つらいもの。その自分の弱さと妥協の言い訳が、愛しているという言葉に繋がるのが許せないもの。


と、そんなネガティヴシングルマザーである私の悩みと嘆きをエネルギーにして、歌を作りました。「ほっこり庄屋さん」です。聴いてください。


ほっこり庄屋さんはドジ助だ

いつも山道すっころぶ

転んだ庄屋さんころがって

目ん玉飛び出てほっこりだ


ほっこり庄屋さんはスレギスだ

いつも皮肉を言っている

ぺらぺら喋って舌噛んで

顔面蒼白ほっこりだ


ほっこり庄屋さんはねたまれる

いつも呪われわら人形

裏山の土をいじってみれば

呪いの人形わらわらと


ああーほっこり庄屋さん手足ももげる

だるまになって笑ってる



以上

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ