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おねしょ。ジョーくん

「マチコシャン、マチコシャン、もっとお話をきかせてよ。もっともっと、お勉強がしたいよお」

その生き物、生き物の定義にこれがあてはまるかどうかはわからないけど、それはわたしが家に帰ると、きまって今日わたしにおこったことを話せとせがむ。

わたしにはいちおう友だちも彼氏もいるけど、性格の本質としてあまり社交的ではなく、他人とのコミュニティを限定したい思いが強くて、休みの日に積極的に外にでるのが好きなわけでもないし、さいきん彼氏とは疎遠になっているし、そうなると必然として家にひとりでいることが多い。

「今日はね、タマキのやつがまーたおんなじミスしてさ、泣いてたよ。そしたらまーたウエダのやつにいーこいーこされてね。バカらしいったらないよ。仕事をなんだとおもってるんだろうね」

「マチコシャン、マチコシャン、おこった? むかついた? とさかにきた?」

「とさかにくるだなんて、そんなことばおしえたっけ」

「お勉強したんだ。ぼくは、ゆーしゅーだからね」

そう言ってそれは、からだをすぼめたりふくらませたりを何度もくりかえした。その行為は人間でいうなら、誇らしく胸をはる、にあたるらしい。

わたしが「えらいえらい」とほめそやすと、それはさらにしゅっポムしゅっポムとその行為をつづけた。

おそらく頭にあたる部分を撫でてやると、それはとろけたゴムみたいにぐてっとなって、机の上で、まるで道におとしてしまったソフトクリームみたいになる。

それを、わたしはジョーくんと呼ぶ。

「ジョーくん。ジョーくんは今日なにしてたの?」

「それをきくんだね! それをきいてしまうだなんてマチコシャンはすごいなあ!」

ジョーくんは今日の1日を、わたしに、まるでトムソーヤの冒険みたく、大げさに話しはじめる。

「そしたらね、ゴキブリのやつ、ぼくの足もとをねらってきたんだ。でもざんねん。ぼくの足もとには、しもべのハエトリグモがたくさんいてね、かれらがいっせいに飛びかかって、ゴキブリのやつは見当がはずれてウオウサオウしていたんだ。ははは、愉快ったらなかったよねえ」

「え? この部屋ゴキブリでるの?」

「大丈夫でしゅよマチコシャン。ぼくがゴキブリの魔の手からマチコシャンの安全をまもりましゅから。二度とマチコシャンの部屋にははいらせましぇん」

ジョーくんは、毛糸のボールぐらいの大きさで、形もそれに小さくて細い足がついただけのシンプルさだ。ふたつの線みたいな目と、大きな口があって、色は覚めるように赤く、水に溶けていく血の色をしている。

触るとやわらかいのだけど、そのやわらかさは毛糸のようではない。毛糸やスポンジのように弾力のあるやわらかさではなくて、シフォンケーキのようなたよりないやわらかさだ。

いっしょにお風呂にはいったあとなんかに、たわむれにキスをしたとき、ジョーくんの味と感触はポテトサラダのそれによく似ていることがわかった。


ジョーくんといっしょに住むようになって、もう2ヶ月がたつ。

あの日、仕事でミスをしたわたしは、上司にしこたま怒られて、なぐさめられたくって彼氏に連絡をとったら既読無視されて、電話にもでなくて、とぼとぼ帰り道を歩いていたら酔っぱらいのおっさんに絡まれるしで、最悪だった。ストレスを発散する趣味や遊びもしらないし、興味のないわたしは、死にたくなってしょうがなかった。そんなときに、部屋によくわからない生き物がいたとしても、もうどうにでもなれ、というものだ。「なにこれジョークでしょ?」と、わたしがどこかその存在におもしろみを感じて言ったから、それをジョーくんと呼ぶようになったのだっけ。

おもえば、すくなくともわたしには、もうどうにでもなれ、と思ったときに、ふだん受け入れないものを受け入れることがある。

ふだんなら相手にしない、教会勤めの外国人の勧誘の話を聞いてみたり、カフェで誰彼かまわず話しかける人と話してみたり、歩いているときにあははと突然笑ってみたり。

つまりそれが、わたしの不器用なストレス発散法なんだろう。

なんだかよくわからない生き物のジョーくんと話すことは、わたしのストレス発散の手段に最適なものとわかるのに、そんなに時間はかからなかった。この気味の悪い生き物とことばをかわすことは、スリルがあるし、なによりこんな生き物を飼っているのは世界でわたしひとりだとおもうと、とてもここちがよかった。

ジョーくんは、とくに便利なものではなかった。だいたい手がないから、テレビのリモコンやスマホを取ってくれるわけでもない。

ただ、どうやらクモを使役する能力はあって、ジョーくんはよくクモをつかった話をしたし、クモをつかっているのをみせてくれる。

一度、どこから連れてきたのか、バードイーターというわたしの手のひらより大きいタランチュラをみせてくれたことがある。それはさすがに気持ちが悪くて、キツく持ち入れを禁止した。

ちいさなクモも気持ちが悪いのだけど、ジョーくんの友だちだし、今日のようにゴキブリ退治などに役立っているようで、黙認している。

「いつかウデムシのやつらを滅ぼしてやるんだ! あいつらはキショクがわるいったらないねえ!」

どうやらジョーくんは、ウデムシという虫と敵対関係にあるらしく、いつかウデムシを倒すことが、魔王を倒す勇者、のようなものらしい。

でも、ウデムシの話をしだすときまってジョーくんは、

「マチコシャン、マチコシャン、ウデムシはこわいよねえ。ウデムシはおそろしいよねえ」

といって、ぷるぷるとその身を震わす。ジョーくんのウデムシ退治はまだだいぶ先のようだ。

ふるえるからだを指で撫でてやると、ジョーくんは、安心するのか、子猫のようにわたしの膝の上で眠る。くるまるようなからだではないのだけど。


その日、わたしは、久しぶりに彼氏と連絡がついて、夕方から予定があったけど急に会うことになった。気が重かった。そうするしかないし、わたしもそれを望んでいるにちがいないとはおもうけど、わたしはせまくて限定的なコミュニティのなかで生きているので、別れ話はつらい。

彼氏は、おかしくなっていた。眼窩が落ちくぼんで、クマがひどくて、動きは緩慢でにぶく、あまりしゃべらなかった。

あまりしゃべらないくせに、はっきりと、別れろ終わりださよならだもうお前とはつきあいきれない、とは言った。それしか言わなかった。

わたしは、泣いた。まさか泣くまで落ちこむとはおもってなかったけど、涙が止まらなかった。

わたしが了承すると、彼氏はふりかえることなく、去っていった。

夕方から、会社の同期たち数人と飲み会だった。

わたしは、久しぶりにもうどうにでもなれという心境になって、同期のひとりと寝た。同僚の誰と誰がのような話はよくあったけど、わたしには同僚とそういう関係を一度でもつことは気持ちわるくて、避けていたけど、そのときはもうどうにでもなれだった。


朝帰りすると、ジョーくんは机の上で死んでいた。

机にはジョーくんの体液だろうか、緑色の液体で「ウデム」と、ミミズがニコチンにやられたようなくねくねした字で書かれていた。ジョーくんの、ダイイングメッセージなのだろうか。

わたしは、無性にさびしくなって、こわくなって、さっきまでいっしょにいた男に、いま少し話をできるかと連絡をした。

彼からは、業務連絡以外しないで、とかえってきた。彼には彼女がいた。

「ジョーくん、ジョーくん、話したいことがあるの。話したいことがたくさんあるの。話したいことがあるのに死んでるんじゃないよ。えらくないじゃん。変な虫になんか負けてころされてる場合じゃないんだよ。ジョーくん、ねえ、返事してよ。さびしいよ。イライラするよ。かなしいんだよ。お勉強しようよねえ」

ジョーくんはうつ伏せに倒れたまま、動かなかった。

わたしがジョーくんのからだを握るようにもとうとすると、ジョーくんのシフォンケーキのようなもろいからだが、砂のように崩れて、さらさらになって、チリになった。わたしは、ずっと泣いた。


あれからすこし時がたった。わたしの歳頃ですこし時がたつと、だいぶ環境に変化をきたす。

結婚したし、子どもをうんだ。ジョーくんのことは、忘れたわけじゃないけれど、思いだして泣くようなことはない。

ただジョーくんはいったいなんだったんだろう。と、おもう。

ジョーくんは、きっとわたしがあらゆるストレスにやられて、そのストレスから身を守る精神の自衛機能として生み出された、わたしの妄想の産物だったのだ、幼児の見えない友だちのようなものだ、と、結論してはいる。してはいるのだが、腑に落ちないこともある。たとえばわたしはジョーくんに会うまで、ウデムシなんて虫のことは知らなかった。わたしのしらない単語をたまにジョーくんは言っていた。となると、ジョーくんは一言のもとにわたしの妄想の産物とはいえないのではないか。ではいったい、と堂々めぐりになって、それでもやっぱり妄想だよと結ぶ。

とはいえ、あれから変なものは見ないし、それなりに愛する夫と愛する赤ちゃんを相手に、平和な日常を送っている。

ただ、ふと思うのだ。

いまは、子育てに集中できて、平和だけど、赤ちゃんが大きくなれば公園デビューもしなけりゃならないし、親同士のコミュニティに参加しなければいけない。そのコミュニティは、できるひととできないひと、たったそれだけの、ちいさなちがいを許してくれないだろう。わたしはただ限られたちいさな社会のなかで生きていたいだけなのに、なぜだかそれはゆるされない。それはふつうに生きてきて重々わかってる。

そうなると、わたしはストレスをためて、現にいま想像するだけで憂鬱だ、そのストレスは必ず夫に向けられる。狭いコミュニティで生きるわたしには、ストレスをぶつけたり、わがままをいう相手は夫しかいない。

そうなると、夫はわたしに、あのときの彼氏みたく、愛想をつかすことだろう。

そうなると、わたしのストレスはより重くなって、またジョーくんがあらわれるんじゃないか、と。

「マチコシャン、マチコシャン」

あの声が、なつかしい。どんな声だったかふしぎとおぼろげだけど。

「こないだはやられちゃったけど、ぼくもすっかりつよくなって、もうウデムシなんかにころされたりなんかしないよ。ぼくは、つよくなったんだ」

ジョーくんきっとそう言ってわたしの前にあらわれて、しゅっポムしゅっポムと得意げに身をふくらませたりちぢまったりで、わたしがご褒美に頭をなでてやればとろけてしまうんだ。

わたしのかわいい赤ちゃんは、男の子だから、ジョーくんをいじめてしまいやしないかと、心配だ。

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