おねしょ。気の短いこと
年金暮らしのフチ老には、こまったものだった。
若いころからその面はあったが、歳を重ねるにつれ、待つ、ということがきかなくなった。
それは老人にはよくある症状ではあるのだが、いかんせん度がすぎて、いつも彼のまわりには怒声がついてまわった。本人にその自覚がなく、肉体も精神も健康であることが、輪をかけて周囲のものにとって迷惑だった。それに医学的な説明が加われば、納得き、なんとか折り合いをとろうとすることもできるのだが、健康にとくに問題はないとなると、これは生まれもった性格の発露であって、また説得するには頭がこりかたまっているし目上のものなどもういないしで、どうしようもなかった。
車で助手席に座らせようものなら、街宣車よりやかましかった。工事の交通整理なんかにあたると、
「なんなんだあれは。どうしてこっちがとまってなくちゃならないんだ。さっきからずっとじゃないか。なんの権限があってとめやがるんだ。ばかやろう。おい、すすめ。すすめよ。邪魔するんならひいちまえ!」
という塩梅だし、走っている車線がすこし遅れれば、隣の車線にうつれ、また戻れ、ほらあの車を抜け、といった次第で、やかましいったらない。
フチ老の日課は、近所の喫茶店に出かけることだ。そこでも彼は待ってられない。その店にはわずかながらに喫煙席があって、混んでいる時間帯は競争だった。
フチ老は、とうぜん席の空く順番をまってられるはずもなく、無用に長居していたり、待ち合わせで二席取っていたりする人をがいれば怒鳴りこんで席を確保する。ふたりがけのテーブル席をひとりでつかっているものがいれば、叱責し、余剰人員を相席させようとする。他人と相席するぐらいなら立ちながら喫煙するというひとの感情は思慮外のおせっかいだ。
どこかに連れて行けば面倒を起こすし、家にいたって、あれが遅いこれが遅いで、なにかにつけ息子の嫁にあたり、厄介者だった。
「じーさんはあんなに順番をまたないのに、どうして墓にはいる順番はゆっくり遅らせてるんだろうかね。はやくばーさんに再会してほしいよ」
と、親戚が集まるときにはきまってそう言って、日ごろのつのった鬱憤をはらしていたりした。
ある日、そのフチ老がひとを殺してしまった。
というのも、いつものように出かけた喫茶店で、いつものように怒鳴って席を確保したところ、怒鳴った相手が倒れてしまって、そのままなくなったのだ。相手は若い男で、生来神経が細く、ふってわいた緊張状態に神経が錯綜し、席をどこうとたちあがると瞬間的に気を失って、しこたま頭を床に打ちつけてしまったのだった。
これには我が道を行っていたフチ老もまいった。まさか自分の怒声、性格がひとを、それも若いひとを殺してしまうだなんて、思ってもみなかった。
法的な責任追及などはなかったものの、家族からはついに愛想をつかされ、もう誰も口をきかなくなったし、指図を受けるものもない。
法的な処理は済みフチ老に罪はつかなかったが、それに納得しなかったのは相手の祖父ニコチ老だった。かわいい孫がじじいに殺されたとあっては、すこぶる憤慨しているようだった。
ある日、フチ老にニコチ老から手紙がきた。それは面会をしたいという旨だった。納得できない、やりきれない思いを当人にぶちあてないと気が済まないというのだ。
家族から相手にされなくなった加害者のフチ老に、それを拒否することはできなかった。また、彼にだって贖罪の意識はあったから、その機会は望むところだった。
手紙が来てから一週間ののち、面会日の前日、また手紙がきた。
急に具合が悪くなったので、面会日を延ばしたいとのことだった。
拒否権はないので、フチ老は承諾した。
そんなドタキャンがしばらく続いた。
明日に延びて、やっぱり都合がつかない。今度は里帰りするので一ヶ月後に、でもまたその前日に都合が悪くなって、面会日は先延ばしになる。
こうなってくると、声を荒げることをやめて反省をしていたフチ老も、その性格がかま首をもたげてくる。面会日が近づくにつれ、憤怒の感情を受ける覚悟をし、しかしそれが土壇場でキャンセルされ、また一から覚悟をしなおす。先延ばし、先延ばし、先延ばし、で、いったいいつになったら会えるのかわからない。が、会ったら会ったで、謝罪をしなければならない立場だから、それに文句のひとつもいえない。彼はまだかまだかとイライラしていた。声を張り上げて、ニコチなる人物を叱責したかった。
ついに無礼を承知で、こちらからそちらの家におうかがいします、と連絡して、約束をとりつけ、約束の日時に家の前まで行ったときもあったが、ニコチ老は朝早くに体調を崩し、病院に運ばれ面会謝絶だといって、やっぱり会えない。
そんな日々が続いて、めっきりフチ老はくたびれていた。家庭でも、いまではフチ老のペースではことが運ばないし、かといって声を荒げてしまえば、犬畜生に劣る精神の持ち主になってしまうことは理解していた。
難儀な日々を過ごすうち、ついに、面会は叶った。
駅前で待ち合わせをしたニコチ老は、たいへん気の良い人物で、これまでのいきさつを謝罪した。殺されたって文句はいえないとさえ覚悟をしていたフチ老は拍子抜けし、どうもどうもとやわらかな態度で出迎えた。
立ち話で済むはなしではないので、ふたりは移動した。ニコチ老が指定したのは例の喫茶店だった。
ニコチ老はゆったりゆったり歩いた。赤信号をきっちり守った。たまに立ち止まって、息を整えたりした。フチ老は移動先が決まってからというもの、早くその場にたどり着きたくなってしかたなかったが、歩を合わせなくてはならず、このひとの良い、それすなわち自分よりも弱い老人に、イライラした。
お昼過ぎのその喫茶店は、混雑していた。
案内役というわけではなかったが、席を確保するのはフチ老の役目だといえる。聞けばニコチ老もタバコを吸いたいという。フチ老は、しかし、それまで通り声を荒げてむりくり席を確保することはできなかった。なんせそれで死なせてしまった者の身内がとなりにいるのだ。
とりあえず禁煙席に座ると、ニコチ老は丁寧に非礼を詫びつつ、トイレにいった。
トイレの前には、何人か待ち人がいた。フチ老は、トイレのドアをノックし、小用のものから順に並べさせたくて仕方なくなったが、そういうわけにもいかない。
ようやくニコチ老が個室にはいると、これがまた長い。まったく出てくる気配がない。
やることもなく、待ちに待ってついにおとずれた贖罪の機会がこう蛇の生殺しでは、フチ老の我慢も限界だった。
フチ老は仕切られた喫煙席に向かい、ひさかたぶりにおせっかいを怒鳴りちらした。
「しかし因果なものだね。同じ場所で倒れて死んじまうんだから」
「おとなしくしてて急に怒鳴ったものだから、頭の血管が切れてしまってね。これは憤死というやつかしら」
「その待ち合わせの相手のじーさんは、その後どうだい?」
「それがね、先方にうかがったんですが、そんなひと知らないっていうんですよ。だいたい両家の父、まあ祖父はとっくになくなっているって」
「ああ、そりゃおまえ、そうなるとこりゃ誰かが殺し屋に頼んだな。プロの手口だよ」
「まあ、そんな、おそろしいことを言わないで」
「じーさんが死んだことで一番得をするやつが頼んだに違いない。先方の方々もじーさんにうらみはあったろうが、あちらはじーさんへのうらみよりは、彼の持病をよりうらんでいたように見えたから、違う。となると、じーさんの小言をきかなくて済むようになり、これからの介護をしなくてすむきみが、一番得をするひとだね」
「まあ、そんなこと外で言わないでくださいよ。冗談ではすみませんよ」
「ははっ。それにしても、さっきからずっとまっているのだがね、ツマミのひとつも出てこないのはどうしたものだい?」
「あらいやだ。おじーさんと似たようなことをおっしゃるのね。私にだって都合というものがありますよ」
「ふむ。これも血のせいかね。なんだか歳をとっていくと、嫌いだったあの性格がおれの中にもあって、自制しなきゃならないときがある。そのうちああなるのかとヒヤヒヤしているよ」
「蛙の子は蛙なのね」
「どうかな。ははっ」
嫁は頭のなかでヘソクリの勘定をしたが、今度は夫に気をつかう必要がないことに気がついて、さっそく明日にでも頼んでみようときめた。
一度強引に順番をとばすことをおぼえた嫁には、夫が順番に老いてあのフチ老のようになることを待つのは我慢ならない。




