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日が暮れ始めた頃、ようやく仕事を終えたレオンとサヤは、慌ただしそうに帰り道を急ぐ者や、夕飯の材料を買い出しに来た者、職場の仲間を連れて呑みに繰り出そうとしている人たちを避け、歩く。
目指す場所は彼らの拠点である、路地裏の小さな店だ。
「あー…なんでこうなるんだろうなぁ…」
レオンは両手を頭の後ろで組み、空を見上げながらも器用に人を避けて呟いた。
そんなレオンを見もせず、サヤは真っ直ぐと前を向いたままその呟きに答えた。
「なんででしょうね。自分の胸に手を当てて考えてみたらどうですか?」
「……それはつまり、あれか? オレが原因だと?」
「他になにが原因だと?」
明らかにレオンさんのせいですよね? と言わんばかりの口調でサヤは言う。
その台詞に返す言葉をレオンは見つけることができず、あー、うー、と意味のない声をあげ、がっくりと肩を落とした。
本日の依頼は『絡んだ糸を解く』というものだった。それだけで依頼完了となるはずだったのだが、何故かその他の雑用をやることになり、気付いたらこの時間である。
サヤはレオンが悪いと言いたいのだろうが、雑用をやるはめになったのはサヤにも原因はあるのだ。お湯を沸かせだの、お茶を淹れろだの、洗濯物を取り込めだの…。サヤが勝手に雑用を請け負い、なぜかその雑用をレオンがやることになるのだ。そのくせ、請け負った本人は指一本も貸そうとせずに依頼主と楽しそうに雑談をしているのだ。だからこの時間になったのはレオンだけのせいではないはずだ。
…最も、レオンがはっきりと断れば良かっただけなのだが、今回の依頼主は昔からレオンに良くしてくれている人なのだ。その恩もあって、断りづらい。
よく店を贔屓にしてくれてもいるし、ご飯だってご馳走になったことは一度や二度ではない。
そんな恩人が困っているというのだ。手を貸したくなるのが人情ってものだろう、とレオンは心の中で言い訳をした。
レオンとサヤがそんな軽口を言い合っていると、レオンたちの小さな拠点が見えてきた。
だがしかし、その拠点の様子がいつもと違う。
いや、拠点自体がなにか変わっているわけではないのだ。ただ、その拠点の入り口に見覚えのない人物が立っているだけで。
レオンは眉を寄せ、サヤは警戒するようにその人物を見つめる。
レオンたちに気付いたのか、その人物が振り返った。
その人は、とても美しい女性だった。黒い艶やかな巻き毛、海のように濃い青の瞳、右目の下には泣き黒子があり、スタイルも世の女性なら誰もが羨むほどで、とても色っぽい。
しかし、娼婦のような色気とは違い、彼女はどこか凛とした美しさを兼ね揃えていた。ただ振り返る動作ですらも、流れるように美しい。その動き一つ一つが洗練されているとわかる所作だった。
彼女はレオンたちを認識すると、扇を取り出し広げた。
そして妖艶な微笑みを浮かべ、その容姿にぴったりな色っぽい声音でレオンたちに問いかけた。
「あなた方が、噂の『解き屋』かしら?」
「そうですが、何か御用ですか、レディ?」
「レオンさん、鼻の下伸びてますよ」
ぼそっと呟いたサヤの台詞をレオンはスルーし、彼女と向き合う。
彼女はレオンたちを上から下までじっくりと眺めたあと、「ふうん…」と呟き扇を閉じた。
「随分と、お若いのね」
「よく言われます」
「…些か不安になったけれど、いいわ。あなた方に依頼があるの。依頼を受けてくださるかしら?」
「…内容にもよりますが。こんなところで話すのもなんですし、中へお入りください。狭い場所ですが、外よりは寛げるでしょう」
「そうね。お邪魔させて頂くわ」
彼女が頷くのを確認し、レオンは店の鍵を開け、彼女を中へ招く。
そしてにこっと人好きのしそうな営業用の笑顔を浮かべ、彼女に告げる。
「ようこそ、『解き屋コマイヌ』へ。あなたのご依頼をお伺い致します───」
レオンは彼女を店の中に通し、来客用のソファーへ座るように勧める。
彼女はそれを当然のように受け、優雅にソファーに腰を下ろした。レオンはその彼女の前の自身の指定席へ座ると、サヤがタイミング良くお茶と茶菓子を持ってやって来た。
「よろしければどうぞ」
「ありがとう、頂くわ」
彼女はわずかに微笑み、サヤにお礼を言ってお茶を飲む。
その所作はほれぼれとするほど優雅で美しい。
彼女はどこかの名家の出身か、または貴族の生まれなのだろうと、レオンは当たりをつけた。
「申し遅れたわね。わたくしの名はアリーセ。アリーセ・フレンツェルよ」
「オレはレオン。こちらは助手のサヤです」
レオンがサヤをアリーセと名乗った女性に紹介すると、サヤはへこりと軽く頭を下げた。
アリーセはそんなサヤの様子など気にも止めず、「早速、依頼の件なのだけど」と話を切り出した。
「あなた方は色んなものを解けるそうね? なんだったかしら…そうそう。『あなたの家の絡まった糸から引っ越しの荷解きまで。“解く”ことならなんでも致します』だったかしら」
「…よく覚えておいでで。確かにそれがうちのキャッチコピーですが」
「あなた方のことは社交界でも噂になっていてよ。──縁でさえも解ける、と」
意味深に微笑むアリーセに、レオンは眉を落とした。
そして息を吐き出すと生真面目な顔をしてアリーセをじっと見つめた。
「……なるほど。あなたのご依頼はそっちですか」
「察して頂けたようね」
アリーセは満足そうに頷き、「今回、わたくしが依頼したいのは───」と呟いた時、ドアに備え付けられたベルがリンリンと軽快な音を鳴らした。
レオンがアリーセから視線を逸らしそちらを向くと、すでに動いていたサヤが入ってきた人物を出迎えていた。
「いらっしゃいませ、ようこそ『解き屋コマイヌ』へ。大変申し訳ございませんが、今は接客中ですので、少しだけそちらでお待ち頂けないでしょうか」
サヤはそつなくその人物を出迎え、入口から入ってすぐに置いてある小さな二人分の椅子を指し示す。
しかしその人物はそんなサヤの言葉の一部にだけ反応を示した。
「ここは『解き屋』で合っていましたのね。そして今は来客中、と…。失礼ですけれど、今来られている方のお名前を教えて頂けないかしら?」
「申し訳ございません。お客様の個人情報ですのでお教えするわけには…」
「…そう。そうよね…うーんでもこちらにいらしているはずだし…」
「あの、お客様?」
一人でぶつぶつと何かを呟き出したその客人に、サヤが訝しげな表情を浮かべて話しかける。その人物はそんなサヤの表情を見てにっこりと微笑んだ。
サヤはその笑顔を見て嫌な予感を覚えた。
「───ごめんなさい」
「はい?」
その人物は目を閉じてすうっと息を大きく吸い込み、カッと目を見開いた。
「お義姉さま!! いらっしゃるんでしょう! お義姉さま、アルベルティーナです! あなたの義妹のアルベルティーナがお迎えに上がりました!!」
大きな声を出したその人物の声に、レオンの目の前に座るアリーセが顔を顰めた。
そしてすっと立ち上がり、店の入り口へ向かって歩いていく。レオンもその後を追った。
「アルベルティーナ」
「アリーセお義姉さま。やはりこちらにいらしたのですね。探しましたわ。さあ、私と帰りましょう。旦那様も、レオさまもお義姉さまのお帰りを待っておられますわ」
その人物は出てきたアリーセの顔を見てほっとした表情を浮かべ、早口にそう告げてアリーセの腕を取った。拒否されるのを拒むように素早い動きでアリーセを店の外へ連れ出そうとしている。
「離しなさい、アルベルティーナ。わたくしは戻りません。それに、あなた先ほどの大声は一体なんなのかしら。淑女らしからぬ行動はしないようにと、あれほどわたくしが言っているのにわからないの? あなたの頭は空っぽなのかしら?」
「申し訳ありません、お義姉さま。様々な方に迷惑をかけて家を飛び出すよりも淑女らしい行動をしていたつもりだったのですけれど」
しれっとした顔でそう言ったアルベルティーナを、アリーセは怖い顔で睨む。アルベルティーナも負けじとアリーセを睨んでいる。
そんな二人の様子を見て、レオンは天を仰ぎたくなった。なんだか、とてつもなく嫌な予感がするのだ。
───この依頼、とんでもなくめんどくさくなりそうだ、と。