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正確に数えてみると、それはちょうど20年前のことだそうだ。
竹内雛の姉の名前は桜というらしい。
その日、竹内桜は、いつもの様に学校に通い、友達と一緒に家に帰った。
家に帰ったら母がいて、おやつを食べ、その日は友達と遊ぶ約束はなかったので、通信教育の課題をやった。
ちょうど、その月の提出課題が完成した。晩御飯までまだ少し時間があり、ポストまでは学校の通学路上のにあって家からも近くにあったため、竹内桜は課題を提出しに家を出た。
そして、そのまま帰らなかった。
「 翌日、警察の捜索で姉は見つかった。
姉は、近くの森林の中で、死体となって見つかった。
服は乱され、体中にあざと傷があり、口にはガムテープがあった。遺体のあらゆるところから、男性の体液が発見されたとのこと。
直接の死因は首を絞められた窒息死だった。だけど、口の中は切れ、あちこちに内出血があって、相当苦しんで死んだ。だって
犯人は、まだ捕まっていない。ていうか、そろそろ時効なんじゃないかな」
竹内雛の、直接は見たことはないであろう姉のことを語る口調は、淡々としていた。
「母が私を産んだのは、その後ね。
相当決断のいることだったと思うよ。精神的にも肉体的にも。
姉を産んだのは、結構若い時だったみたいだけど、でも、私の時は、当然30歳は超えてて、むしろ40歳近くだったよ。
そりゃあ、猫かわいがりだったよ。
ただ、父はね、早い段階で、もういいかなって感じになってたな。本当に小さいころは、一緒に遊んでもらったりもしたけど、いつからか、もう疲れたみたいな表情になっていった。
それも、当然だと思うよ。だって、最愛の娘が、殺されて、それもレイプされて殺されて、また一から育てるって言ったら相当しんどいことでしょ?
家庭のことはすっぽかして、どっかいったとか、そんなんじゃないよ。
ただ子育てのことはもう任せた。みたいな感じかな。子育てのことはスパッと切り離して、仕事に体力と気力を集中させたって感じ。
そういう割り切った考え方って、私、嫌いじゃないな。
うん。だから、父のことは、むしろ、尊敬しているよ。
それに、家のこともあるしね。あの後、引っ越してこの街にやってきたから」
竹内雛は、そこまで言って、背筋を伸ばし、すぅーと息を口から吸いこんだ。
「母はよく、私と姉とを比較した。
私はね、そのことを、イヤだとは思わなかった。本当だよ。
母の話から、今はいない姉のことを想像して、とても幸せな気分になった。こんな風に話をするの。いついつの時にこうしたとか、姉が私の年齢の時は、こんなことをして遊んだとか。母の話の中の姉と、一緒に遊べたならどんなにうれしいだろうと思った。実際、夢の中で、姉らしき人が現れた時もあった。その姉らしき人は、楽しそうだった。アルバムの中の姉は、いつも笑っていて、楽しそうだったから。
私はね、小さいころは毎日、姉のお仏壇に手を合わせていたんだよ。
母は、その光景を嬉しそうに眺めていた。
でも、それには、必然的に終わりがあった。」
「ねえ、12歳と102日なんだって」と竹内雛は言った。
「……ひょっとして、君のお姉さんの生きていた年月?」僕は言う。
「そう。母はね、私の12歳と102日目に私を呼び出したの。
ねぇ、これってどう思う?死んだ子の年は数えるなっていうけど、母は、それはしなかったかもしれない。代わりに、生きていた日数をきちっと数えていたの。
母の中の姉は、12歳と102日でぴたっと止まっていたの。
まぁ。無理もないかもしれないけど」
竹内雛は、ため息をついて言った。
「その時は、私は、もう中学生になっていた。その日、母は私を呼んで、そのことを伝えたの。
今日は、お前の姉が死んだ日だって。
一瞬、私は混乱した。
え?だって、命日じゃないでしょ?
後で言われた。姉がきっかり生きた日数だって。
その日がね、ありとあらゆる出来事のターニングポイントだったと、今になって思う。私も微妙な年齢に練っていたし。その頃は、毎日は、お仏壇に手を合わせていなかったな。
母はね、その日、それだけ言って、あとは何にも言わなかった。
その日のこと、よく覚えているな。
私は、中学校に入ったばっかりで、部活動から帰った後で汗臭かったけど、私たち二人はずっと椅子に座っていた。日が暮れていくのを、倍速で見ているみたいだった。
それから、母との会話はめっきり減った。結局、トリガーだったんだよね。あの日のことが」
「それから、しばらくしてからよ」竹内雛は言った。
「あの人形がうちにやってきたのは」
「その頃は、もう、私と母の関係は、決定的にダメになっていた。
必要最低限の会話しかしなかったし、夕食の時間も、私が、塾に入り浸たりしていて一緒にとらなくなった。わざと別々に別々の時間に食べていた。
で、ある日、姉のお仏壇の隣に、隣の箪笥の上に人形があったの。
母は、その人形について、何も言わなかった。私も聞かなかった。
ただね、母のその人形の扱い方が、ちょっと普通じゃなくて、まるで赤ん坊をあやすみたいに抱きかかえたり、本当に聞いてもらっているみたいに長い時間話しかけたり。あの時の、母の姿にあの時の目。想像するだけで、寒気がする」
竹内雛は、唇に手をあてて、肩をすくめてそう言った。ひどく、嫌悪感を抱いているようだった。
「そして、これは、もう最近のことなんだけど」
彼女は続けた。
「人形は、ありえない場所に移動することがあった。まあ、そのありえない場所っていうのは、私の部屋なんだけど。
私はそんなことしないし、母もするわけない。もちろん喧嘩になった。といっても、私は、やっていないと繰り返すだけで、あとは、母が勝手に怒鳴っているだけだったけど。
なんでこんなことが起きるんだろって、考えてみると、家族の誰かの仕業とは考えられなかった。
父は、有りえない。私たちの喧嘩にうんざりしていたし、動機もないし、何か得することなんて、一つもない。
母が、私への嫌がらせをしている可能性はあるかもしれないけど、あの本気の怒りようを見ていたら、そうは思えない。
残るのは、私。もちろん、私は、やっていないから、だから、無意識でやっていたという可能性はあるかもしれない。夢遊病とかって、あるでしょ?
ただ、私が、無意識でやっていると考えても、半分はそれで説明できるかもしれない。
でも、あとの半分はどう考えてもおかしい。
例えば、私が起きている間にいつの間にか動いていたとかね。
そして、今日。決定的なことが起きた。
母は、夜、ベッド人形を入れて、一緒に寝るの。気持ち悪いけど。それはそれは大切そうに。
今日の朝、私は、目覚まし時計が鳴るより早く目が覚めたのだけど、目を開けたら、すぐ横にあるものを見て、一瞬心臓が止まったようだった。
金色の髪。
ピンク色のドレス。
瑠璃色の瞳。
しかも、私、人形の胸の上に手をやっていて、優しく抱くようにしていたの。ほんとに参った。あの時は。
もちろん、今日の朝は大喧嘩になった。ほぼ飛び出すようにして、家を出たよ。母に掴まれ、手をあげられたけど、何とか振りほどいて、出て行った。
朝からエネルギー使った。もちろん、朝食も食べていない。でも食欲ないなと思いながら、カバンを開けた。
するとそこに、また人形があった。
瑠璃色の瞳と、目が合った。
私は、すぐにカバンを閉めたさ。そして、頭を抱えて、その場にへたり込んだ。
何で。何で。何で。何で。何で。何で。何で。何で。何で。何で。
今日は、もうほとんど放心しながら、学校にいた。
学校が終わった後は、部活は無断でサボって、ずっと町中をあてもなく歩き回っていた。
歩き疲れて、でも家には帰れないなって、でも、誰かに、事情を話す元気もなかった。
それで、あの神社の社の中に入って、ひと休みしていたの。
罰が当たるとか、そんなの、もうまったく気にしなかった。
本当にもう、死んでいいかと思っていたから」
「それで、あの神社にいたわけだ」僕は言った。
「うん。人形を壊してしまおうなんて、その日、学校でも、街を歩き回っているときも、全く考えていなかった。ただ、その社の中で、ぽんっと思いついちゃったんだ。どうせ死ぬ覚悟があるんだったら、壊してしまえば良いじゃないか。その不意の思い付きは、頭に浮かんだ瞬間固まって、揺るぎようのない概念になった。当然壊すべきだ。そんな風に思えた」
「それで、実際壊しちゃったわけだ」僕は言った。
「ふふっ。そういうこと」竹内雛は、口元を抑えてそう言った。
「?」
「へへっ。こんな話、誰にもしたことなかったから。ごめんね。長々と話しちゃって。でも、ありがとう。なんか、話しちゃったら、少し楽になれた」
そう言いながらも、両目にあふれんばかりの涙を浮かべていた。