彼と罪
私が小学校に入学した頃、隣の家にひとりの少年が住んでいた。
名前は今となってはもう思い出せない。ただ、自分が彼のことを、『ゆうくん』と呼んでいたことだけを覚えている。
彼は不思議な子どもだった。普段はやんちゃな、どこにでもいるような男の子。なのに、ある一瞬、彼の周りだけ音を失ったような、深い静寂を纏うことがあった。揺れる水面から、彼ひとりがぽっかりと浮かび上がる。それはたとえば、鬼ごっこをしている子どもたちが立てる砂ぼこりや、休み時間の教室に充満した喧騒の中、あるいはくるくると飛び交う軽口の隙間。そんな何気ない瞬間に、ふと彼の中へ忍び込んだ。
けれど、私の他には誰も、その奇妙な発作とも言える現象に気づいていないようだった。
此処ではない何処かに向けられている彼の瞳。時の流れが僅かに緩む。見えない蜘蛛の糸が彼を絡め取ってしまう気がして、私は咄嗟に力の抜けた彼の手を掴む。すると何事もなかったかのように、彼の存在は濃度を取り戻すのだった。
「ねえ、あーちゃん」
そんなとき、彼は決まって、私の名前を呼んだ。
「なあに?」
彼を包む、まだいつもより透明な空気に不安を覚えながら、私は答える。
そして彼は、普段の陽気さを何処かに忘れてきたように、そっと私の顔を覗きこんで言う。
「明日、一緒に学校行こうよ」
「今日はこっちから帰らない?」
そのほとんどは大したこともない、些細な内容だったから、私は大概一も二もなく頷いた。拒絶に怯えるような、その繊細な気配を壊さないように、ただ、黙って頷く。
すると彼は明らかな安堵の色を浮かべて、元の彼に戻った。
不思議なことは他にもあった。
彼の家は母子家庭で、彼は小柄な母親と二人で暮らしていた。彼の母親は美人とは言わないまでも、小綺麗で感じの良い顔をしていた。身に纏う柔らかな空気に違わず、彼女は優しかった。
だからだろう。彼女は近所の子どもに好かれていた。かくいう私もその一人で、よく遊びに行っては構ってもらって喜んでいた。
ところが、彼女の息子への態度だけが違ったのだ。単に厳しいとか冷たいとかいうのではない。もっと根が深いもの。それは今から思えば、理解できないものへの根源的な恐怖だったのだろう。得体の知れないものを見る目。彼女が自分の息子に向ける視線には、抑えようのない怯えが滲んでいた。
だが彼の些細な言動、母親のよそよそしさの本当の意味に私が思い至ったのは、彼と離れて数年が経った、中学生の頃だった。
きっかけは古い新聞だった。年末の大掃除のとき、押し入れから出てきた四年前の新聞。捨てようと手を伸ばして、私はふとその日付に目を止めた。
それは、彼が例の如く発作を起こし、早く帰ろうと私を急かした日だった。
何故そんな昔のことを覚えていたかというと、その日の彼はいつも以上に様子がおかしかったからだ。それは日曜日で、私たちはいつもより少し遠出をして、広い河原に遊びに来ていた。
ところがちょうど盛り上がっていたところで、彼が突然言い出したのだ。
「ねえもう帰ろう」
さすがにその時ばかりは私もすぐには頷かなかった。だが、何でだよと子どもたちが問い詰める中、孤立無援の彼はそれでもただ頑なに言い募った。
「帰ろう」
やがて根負けした私がわかったと言うと、やはり彼はほっとしたように肩の力を抜いた。他の子どもたちも興が冷めたようで、ぶつぶつと文句を言いながらも、その時は帰ることになったのだ。
新聞に載っていたのは、その河原のモノクロ写真だった。
『◯◯河原で通り魔か』
埃を被り、古びた記事を持った手が震えた。それはまさに私たちが家路に着いた一時間後、河原で女性二人が刃物で刺されて死んだという記事だった。
私はその新聞を凝視したまま、ずるずると冷たい床の上に座り込んだ。
しばらくそうしていた後、我に返った私は、掃除を放り出してパソコンに向かった。記憶の奥に散らばった彼の言葉を必死にかき集める。零れ落ちそうな四年前の破片を握りしめて、手当たり次第に日付を打ち込んだ。
『小学生、通学路でトラックに轢かれる』
『猫のバラバラ死体。愉快犯か』
ヒットしたものは十数件に及んだ。おそらくもっと細かい出来事も含めれば軽く三十は超えるだろう。
彼が一緒に登校しようと誘った朝は、他の小学生が一本先の道路で交通事故に遭っていた。
彼が違う道を通って帰ろうと言った日は、避けた道の隅に、猫の死体が転がっていた。
今にしてみれば、違和感はあったのだ。ただ、幼い私が深く考えなかっただけで。
私は悟った。一瞬空を彷徨う彼の視線は、発作などではなかった。彼は、未来を見ていたのだ。
「ねえ、あーちゃん」
ある日十歳の彼は言った。
「あと七年で、世界は終わるんだよ」
それは、気づかれないように気づかれないように、懸命に私を守ってきた少年の、最初で最後のミスだった。否、それをミスと言うのはあまりに酷だろう。それはひとりで抱えきれるほど、軽い荷物ではなかったのだから。だがその一言が、決定的に私と彼とを引き離したのは確かだった。
そして彼の予言は当たった。それから七年後に、世界は終わりを告げた。そう。彼の世界が。
未来を知った少年は、十七歳の春、心臓発作で唐突な死を迎えた。
「梓」
受話器を手にしたまま振り返った母の声を、私は一生忘れないだろう。
「ゆうくんが亡くなったって……」
無機質に光る黒い棺の中で目を閉じた彼の顔は、私が知っているよりも少し大人びていて、少し歪だった。
抗うようにかすかに皺を残した目元。力を失った手に纏わりついた諦念と虚無。
彼の精一杯の抵抗と、敗北の証だった。
それは、十歳の少年が抱えるには重すぎる事実だったろう。
避けられない未来。初めて彼がぶつかった壁は、あまりに残酷で冷酷な、彼自身の死の宣告だった。
どれだけの恐怖だったことか。重ねては崩れ、重ねては崩れを繰り返し、ようやく積み上げたものが、その日消え去ることを知って生きるのは。なのに縋ってきた幼い彼の手の震えに見ないふりをして、私は彼を孤独に置き去りにしたのだ。
「何言ってるの……」
そう呟いた声と、彼が一番怖れていたはずの、理解できないという視線を残して。
彼は懸命にひとりで生きた。誰にも話せない。誰にもわかってもらえない。孤独の中。
そうして抗って抗って、けれどやはり彼は追いつくことができなかった。零れ落ちていく時間に。彼を置き去りにして、逃げていく生に。
そして冷たい世界の周縁は、結局予定通りに彼を呑み込んでしまった。
「ごめんね……」
もう二度と届かない声は、ぽつりと彼の白い額に落ちた。
彼を殺したのは心臓発作。彼を殺したのは私。
彼の絶望を映したように黒に染まった部屋の中、私はじっと立ち尽くした。
嫌悪。軽蔑。憐憫。罪悪感。心臓が悲鳴を上げる。けれどきっと、彼ひとりの苦痛には到底及ばない。見開いた眼球は乾いて、乾いて。
涙は、出なかった。
あれから数十年の時が過ぎ、彼はもう何処にもいない。
もう名前も思い出せない。顔すらよく覚えていない。けれどきっと、私はいつまでも覚えているだろう。自分の死を語った、彼の声と。
それを振り払った、私の罪を。




