First down 2
「ねぇ霧島さん、今日この後ヒマ?」
ようやく1日の授業から終わり教室の空気が和やかに放課後、クラスメイトたちが部活や遊びに関する談笑を交わす中、帰り支度を早々に整えて教室から出て行こうとする葵を呼び止める声がする。葵は扉に伸ばした一旦手を引き戻してそちらを一瞥した。
「これからみんなでカラオケ行くんだけど霧島さんも一緒にどう?」
「カラオケねぇ……他に用事あるから今回はパスさせてもらうわ」
呼び止めた者と別の女子が親睦を深める機会を設けようとカラオケに誘うが、一瞬だけ虚空を仰ぎ考え込む仕草をして葵は先約があると誘いを断る旨を伝えると、扉の近くにたむろしているグループのことを振り返りもせずに颯爽と教室を出て行ってしまった。
「せっかく気を遣ってやったのに、何あの態度。感じ悪ぅ」
「入試をトップの成績で入試に合格したからってお高く留まってるよね。でもさ、それならウチじゃなくてもっとがり勉の集まる学校に行けばいいじゃん」
差し伸べてやった温情を足蹴にされた女子生徒たちの心情は穏やかではなく、居丈高な言動を取った葵への不満が口々に吐き出されていく。
「霧島さんって中学は芳志社女学院だっけ?」
「なんで名門私立女子校の中学に言ってた人が公立の高校に来るのよ、系列の高校に行けばいいじゃない?」
「詳しいことは知らないけど、家庭の事情で学費の高い芳志社に通い続けられなくなったらしいよ」
「本当なら自分はしみったれた公立校のくいな橋にいるはずないって思い込んで壁作ってんだろうけどさ、そういうのって周りからするとウザいだけだよねぇ」
「お母さんが小さい頃、余所に男を作って蒸発しちゃったらしいし、お姉さんはウチの番長と付き合ってて、あんまり家庭的に恵まれていないみたいだけどさぁ、だからって悲劇のヒロイン気取りはやめてほしいよねぇ」
真偽のほどはともかく葵の境遇に関する噂話を聞いても彼女に同情の念を寄せるものはなく、その生き様の滑稽さへの冷笑が漏れるだけだった。
「鳴も無理に笑いを堪えなくていいんだよ。どう考えたっておかしいのはあの人なんだから」
「そ、そうだね……」
葵に自分たちとカラオケに行かないかと訊ねた生徒、鳴は周りに合わせて困惑を拭いきれないまま固い笑みを浮かべる。しばらくすると鳴たちは葵のことなど金輪際忘れ、意気揚揚と教室を後にしてカラオケへと繰り出していく。
「あっ、ごめん忘れ物してきちゃった」
廊下を抜けて1階と2階の階段の踊り場まで一行が辿り着いた時、唐突に鳴は机の中に英語の参考書を置きっぱなしにしていることを思い出して声をあげる。
連休明けの中間試験を鳴は気にしており、家に帰ってから試験勉強をするつもりだったので、問題の出題範囲となっている英語の参考書を持ち帰らない訳にはいかなかった。
「もう、意外と鳴ってうっかりものだよね。先行ってるよ」
「う、うん、すぐ追いつくから」
しっかりしているようで案外隙が多い自分の迂闊さに友人たちが苦笑を滲ませるのを尻目に、鳴は身を翻して階段を駆け上り始める。
「きゃっ……!?」
「うおっと!?」
友人たちに取り残されないようにと慌てていたために前方不注意になっていて、鳴は2階から3階の踊り場で階段を下ってきた人影とぶつかってしまう。女子高生として平均的な体格をしている鳴だったが、ぶつかった相手が二回りは大柄な男子生徒だったため逆に跳ね飛ばされてしまい、彼女の体は後方に傾ぐ。
鳴の体は背中から階下へと流れていくが、その一瞬の後、ぶつかった相手が差し伸べた右手が彼女の左腕を掴んで引き留めたことで鳴は姿勢の均衡を取り戻す。
鳴の左腕を相手の男子生徒は固く握っていたが、バランスを崩した彼女の体を前方に優しく引き戻しており、鳴の腕は筋も関節も痛みを感じなかった。仕上げに相手の男子生徒は鳴の背に空いた左手を回して、階段から転げ落ちることもなく彼女は無事にその場に留まることが出来た。
「廊下は走るなって小学校の時に教わりましたよね、それにちゃんと前を見とかなきゃダメッスよ?」
階下へ倒れかけた鳴の体を支えているため、彼女とぶつかった相手は抱擁しあうような恰好になっていた。互いの体が密着した状態のまま、相手の男子生徒は小学校の教師が児童を咎めるような口調で囁いて、鳴に注意を喚起する。
「す、すみませんでした……」
自分の不注意で不要な接触を起こした上に、危うく階段から転落しかけた所を助けてもらった羞恥で鳴は相手の顔を直視できず、うつむいたままか細い声で謝罪する。
「これに懲りたんなら今後はよく周りを見てくださいよって……あれ、六条さんじゃないッスか。お久しぶりッス」
「ひ、柊野くん!?」
「ちょっと六条さん、そんなに暴れたらまた階段から落っこちるッス!」
壇上から鳴の顔を覗き込むと、相手の男子生徒は彼女の名前を呼んだ。遅れて鳴も今自分の体を抱きとめている相手が中学校からの同級生と気づくものの、それはよりいっそう彼女の動揺を誘うものであった。
自分の腕から逃れようと激しくもがくことでまた鳴が体勢を崩すことを危惧しながら、柊野響太は彼女を宥めて事態の収拾を図ることに努める。
「ご、ごめん、でももう大丈夫だから……」
「ホントに大丈夫ッスか、手を放しますけど頼むからよろけないでくださいよ」
鳴が自分に掴まれている腕から手を放してもらいたがっているのだと響太は察するが、その途端にまたバランスを崩されては元も子もないと怪訝な顔をして手を放す。
「ほ、本当にもう平気だよ、ほら!」
自分の両足で階段の上に立つという当たり前の動作を出来るのかと心配されると、鳴は少々憤慨して問題なく自分の姿勢をコントロールできていることを響太に主張した。
「冗談ッスよ、冗談。こんな細かいことを気にするなんて、相変わらず六条さんは生真面目ッスね」
「そうやって人を喰ったみたいにいつもおちゃらけて、柊野くんこそ中学の頃から全然変わってないじゃない」
些細なことにも大げさに反応する性格を冷やかされて、鳴は高校生になったというのに全く響太も中学から成長していないと言い返す。
「ははっ、たった数か月で人間そう変わるもんじゃないッスよ。でもよかった、クラス違うから六条さんがどうしているのか分からなかったけど、元気そうで」
「……ありがとう。柊野くんも楽しい高校生活を送ってるみたいね」
鳴の苦言を笑い飛ばしながら、響太は最近様子が分からなかった彼女が健在なことに満足そうだった。しばし間を置いてから、鳴は素直に響太に礼を返す。
「うーん、今の所はまぁまぁってとこッスかね」
高校生活が充実していると即答するものと考えていたが、その問いに関して響太が言葉を濁したのが鳴には少し意外だった。
「でもようやく夢中になれそうなモノを見つけられたんで、今日からは単調だった毎日が刺激的なモノになると思うッス」
「夢中になれるもの……?」
「オレ、今日からアメフト部に入部するんスよ」
「アメフト、バスケじゃなくて?」
今日から部活動を始めると響太が言った時、久々に彼の溌剌とした明るい笑みを鳴は見たような気がした。しかし中学時代に活躍していたバスケットボールではなく、アメフト部に入部すると聞いて鳴は自分の耳を疑う。
「昨日に初めて生で試合を見たんスけど、超面白くて自分もやってみたくなったんス。しかもウチのアメフト部にはラインの来栖さんとかキッカーの高瀬川さんとかすげぇ人が何人もいるんスよ」
「そう、でもうちにアメフト部があるなんて柊野くんから聞くまで知らなかったわ」
「かくいう俺自身、昨日霧島さんから教えてもらわなきゃ知らなかったんスけどね」
「霧島さんってうちのクラスにいるあの……?」
響太がアメフトを始めるということも、くいな橋高校にアメフト部があることも、それ以上にアメフト部の存在を彼に教えた人物の名前も鳴にとって意外なものばかりだった。
「そうッス、六条さんの組にいる霧島葵さんッス。意外でしょうけどあの人かなりのアメフトマニアで、お姉さんの彼氏の来栖さんとかキャプテンの上鳥羽さんとかアメフト部にも親しい人が何人かいるみたいッス」
「え、霧島さんのお姉さんの彼氏ってウチの番長さんじゃ……?」
「片づけを他の部員に押し付けて先に帰ったり、学校に無断でバイトしたりいろいろと問題はありますけど、噂ほど怖い人じゃないと思いますよ。少なくともフットボーラーとしては尊敬できる人ッス」
体育館にあるバスケットボールのリングを平然と破壊し、他校の生徒を何人も喧嘩で病院送りにするような危険人物のいる部活動に嬉々として加入しようとする響太の行く末に鳴は一抹の不安を覚えずにはいられなかった。
「おっと、入部初日から遅刻したら格好がつかないッス。それじゃ六条さん、また!」
手短に別れの挨拶を鳴に告げると、響太は開始時間が迫っている部活に遅れてはいけないと階段を駆け下りていく。
「ちょ、ちょっと柊野くん……」
危地に進んで飛び込んでいくように思える響太に後ろ髪を引かれる思いを抱いた鳴は彼のことを呼び止めようとするが、既に響太の姿は見えず新たな挑戦に胸を高鳴らせる高揚感を表すような軽やかな足音しか聞こえない。
友人たちは自分がいないことなどお構いなしにとっくにカラオケボックスに向かって移動しているはずであり、あまり集合に遅れれば自分が非難の矢面に立たされることは目に見えている。置き去りにされた遅れを取り戻すことがこれからも平穏な高校生活を送るために必要な鳴の最優先事項のはずだった。
「……駄目だよ柊野くん、霧島さんは綺麗だけどあの人に近づいちゃ駄目」
上背は自分と同じくらいで肉付きの薄いスレンダーな体型をしているものの、霧島葵は目鼻立ちの通った美人であることは同性の鳴も認めている。しかしいくら容姿に恵まれ、成績がよくても彼女を取り巻く話にあまりいいものはない。
葵に深入りすることは響太に悪影響を及ぼすのではないかという杞憂が不意に込み上げてくると、鳴は一目散に彼の後を追って階段を駆け下り始める。
カラオケボックスへ向かっている友人たちのことも、教室に置いたままの英語の参考書も鳴の頭のなかから痕跡もなく消え去って無我夢中で廊下を駆け抜けたものの、運動は得手ではなくお世辞にも俊足とは言えない鳴が昇降口に辿り着いた時には響太の姿は周囲に見当たらない。
しかし響太が葵と一緒にいると思うとどうにも気持ちが落ち着かず、鳴は上履きを脱ぎ捨てて学校指定のローファーを爪先に突っかけて広い校内を当てもなく走り始めた。
グラウンドを中心にくいな橋高校の敷地を鳴は隅々まで探索したが、アメフト部らしき集団の姿は一向に見当たらない。響太との会話の中で語ったように、鳴はくいな橋高校にアメフト部があることすら知らなかったし、そもそも日本国内においてマイナーな競技であるアメフト部がこの学校に本当に存在することさえ眉唾ものだった。
どれだけ走り続けても響太のことを見つけられず、息も絶え絶えになり乳酸が溜まった足が満足に動かせなくなって疲労困憊の状況で、ネガティブな思考だけがとめどなく溢れてくると鳴は泣き出したい気持ちになる。
中学時代、バスケットボールに真剣に打ち込んでいた時の響太の姿は鳴の目には本当に輝いているように見えた。両手とも遜色のないボール捌きで変幻自在にドライブし、相手ディフェンスを翻弄する響太のプレイに鳴は常に魅了され、淡い思いを抱いていた。
だが念願の全国大会出場を決めた直後、不慮の事故に見舞われて思うようなプレイが出来なくなってからというもの、夢中になれるものを失った響太はまるで糸の切れた凧のようで、正直鳴は見るに堪えなかった。
バスケットボールに夢中だった頃の輝きは取り戻せなくても、せめてこれ以上彼に堕落して欲しくないから、できれば悪い噂のある同級生とは関わらないで欲しい。誰でもいいから、自分に響太の居場所を教えて欲しいと鳴は切に願いながら俯いて過度な運動の反動で詰まらせて呼吸を喘がせる。
「大丈夫?」
探し人が見つからずに絶望的な気持ちに沈んでいた鳴の傍で優しげな声が聞こえる。横目で声の聞こえた方を窺うと、上級生と思しき女子生徒が膝を屈めて自分の様子を覗き込んでいることに気づく。
「随分苦しそうだけど、保健の赤城先生の所に連れて行ってあげようか?」
「ちょっと走って息が切れただけです、問題ありません……」
「だったらいいんだけど、でもどうしてそんなになるまで走ったの?」
「中学の同級生がアメフト部にいるって聞いて、様子を見に行こうとアメフト部を探していたんですけど見つからなくて……あの、うちにアメフト部なんて本当にあるんですか?」
「うん、あるよ。でも、龍岳大のグラウンドでそこのアメフト部と一緒に練習しているからあんまり存在を知られていないだよね」
声をかけてきた上級生らしき女子生徒にアメフト部が実在するのかと訊ねると、彼女は意外なほどあっさり実在していることと活動場所を鳴に教えてくれた。
「龍岳大のグラウンド……分かりました、そこに行ってみます」
「練習場のあるグラウンドはウチとは国道を挟んで向かいにある近所のキャンパスだから、慌てなくてもすぐ着くよ」
相手の女子生徒がやや間延びした話し方をするおかげで、鳴は呼吸を整えることができた。彼女が教えてくれたアメフト部の練習場はおおよその位置の見当がつくほど近くであり、鳴の足でもさして時間がかからず辿り着けそうだ。
「いろいろとありがとうございました」
自分の安否を気遣ってくれただけでなく、アメフト部の所在を教えてくれたことに対し、鳴は素直に相手の女子生徒に礼を言う。まだ疲労が抜けきっていないため多少目がかすんでいるのか、間近にいる相手の顔がどこかぼやけていたが、どこかで見覚えのあるような顔に鳴は感じた。
「どういたしまして、同級生の子と会えるといいね」
「ええ、必ず」
のんびりとした調子で話しかけてきた相手の言葉に鳴は力強く返事をする。どうやらアメフト部は実在するらしいが、その実態を確かめるまでは安心できないと鳴は相手にではなく自分自身にそう言い聞かせると練習場のある大学へと向かいだした。
「ゴミ捨てに行ったきりなかなか帰ってこないからどうしたのかと思って探しに来てみれば、こんなところで何してるのよ丹?」
「心配させてごめんね、カンナちゃん。でもゴミを置いて教室に戻ろうとした時に、俯いて苦しそうにしてた女の子がいたから心配で放っておけなかったの」
校舎の非常口から顔を覗かせた同級生に呼ばれると、鳴に付き添っていた女子生徒はそちらを振り返る。
「本当にあんたって世話焼きよね、それでその子は?」
「アメフト部を探して学校中を探し回ったせいで少し息が切れていただけだったみたい。しばらくすると呼吸も整ってきたし、アメフト部は龍岳大のグラウンドで練習しているって教えてあげたらすぐに行っちゃった」
非常口の前に佇んでいる友人と会話を続けながら彼女は校舎の中へと戻っていく。彼女が校舎の中に入ると友人は非常口を施錠して、二人並んで廊下を歩き始めた。
「ふーん、あたしたちの他にもそこまでアメフト部に執心する子がいるなんてね。もしかしてマネージャーの希望者かしら?」
「だったらいいね。葵はマネージャーやる気はないみたいだし……」
「あんだけ足繁く試合観戦に行ってるなら、葵はいっそマネージャー引き受けた方が潔いんじゃないかしら?」
「アメフトは大好きだけど、葵は俯瞰的な立場から試合を見ていたいんだって。だから選手との距離が近すぎるマネージャーはやりたくないらしいよ」
「ま、あの子のガサツな性格じゃマネージャーは務まらないでしょうけど」
「そんなことないよ。葵は頑張り屋さんだから、もし引き受けたらしっかりマネージャーの仕事してくれるよ」
「はぁ、葵といい来栖くんといい、あんたって本当に他人に甘いわね」
「葵もクーくんもわたしにとって大切な人だから、大事にしてあげたいの」
鳴を介抱した女子生徒はおっとりとした口調とは裏腹に確固たる意志をその顔に顕わにしてそう断言する。その傍らを歩く生徒会長、天満カンナは呆れつつもそう言う博愛精神を持ち合わせているのがこの友人のいい所だと満足しているようでもあった。