Hung time 5
図南総合運動公園の補助陸上競技場で行われている市立くいな橋高校と北辰学園高等部のアメリカンフットボールの試合は、最終第4クォーター残り1分余りまで時計が進んでいる。
15対13で2点勝ち越しており、攻撃権を有していた北辰学園がセカンドダウンであと2ヤードゲインすれば試合時間を残した状態ではあるものの勝利が確定する状況ではあった。
しかしくいな橋高校が陥った絶体絶命の危機をディフェンスラインの来栖が相手クォーターバックに強烈なサックをかまして望みをつないだ。
さらにサックを受けてクォーターバックがこぼしたボールを確保しようと双方の選手が血眼になって群がる中、来栖が身を挺してボールを抑えたことで、くいな橋高校は敵陣35ヤードから再度攻撃権を獲得でき、逆転の可能性を作ったのだった。
あと1回タイムアウトを使えるとは言え、残り時間と北辰学園の堅牢なディフェンスを考慮すれば、くいな橋高校がエンドゾーンまでボールを運びタッチダウンを挙げるのは至難の業だと言わざるをえない。
だがフィールドの半分以上の距離に及ぶ50ヤードを超える試みになるとはいえ、フィールドゴールで3点を挙げればくいな橋高校は1点のリードを得られる。
そしてくいな橋高校には飛距離に加え精度の高いキックなキッカー高瀬川がいることを踏まえると、北辰学園も到底この状況を楽観視することはできなかった。
攻撃を開始する前、くいな橋高校の選手たちはハドルを組み、40秒のプレイクロックを目一杯使って念入りに作戦を確認してから陣形を敷く。
フィールドゴール3点を加え、1点差で逃げ切るために短い距離を確実に前進させるプレイを選択してくるか、あるいは奇策を弄してビッグプレイを仕掛けロングゲインを狙ってくるか。
くいな橋高校のオフェンス陣と北辰学園のディフェンス陣が互いの手の内を探り合っているうちに、プレイクロックは間もなく0秒を迎えようとしている。
「セダウン、ハット!」
自軍のラインの後ろにクォーターバックが張り付くセットバックの体制から、くいな橋高校のクォーターバック上鳥羽が合図すると、ラインの中央に立つ嵐山が後方にボールをスナップする。
相手のオフェンスの動きに応じて、北辰学園のディフェンスも猛然と敵陣への侵攻を開始した。上鳥羽が身動きを取りやすくするため数歩後方へ下がったのは織り込み済みの動作ではあったものの、ボールを持つ自分を潰そうと北辰学園ディフェンスの果敢に仕掛けてくるラッシュに気圧されたという要素がないと言えば嘘になる。
ユニフォームの袖から覗く腕の産毛を焦がすような相手ディフェンスからのプレッシャーに耐えながら上鳥羽は素早く前方を確認して、レシーバーにパスが投げられる空間がないか探す。
しかし両翼のレシーバーたちはマンツーマンで相手のコーナーバックにマークされており、中央のスペースには3人のラインバッカーがくいな橋高校のレシーバーの動きに警戒しながら、虎視眈々とボールを狙って待ち構えている。
更に敵陣深くにはセーフティの選手が控えており、下手にロングパスを投じれば最悪の場合インターセプトでボールを奪い返されかねない。
上鳥羽がレシーバーへパスを出せずにいるうちに、クォーターバックのためにオフェンスラインが敷いたパスプロテクションを相手のディフェンスラインが突破してくる。
「逃げろ上鳥羽!」
自分のセットしている側と反対の右翼から敵の選手が自陣へ踏み入ったことに感づいた来栖の警告が耳に届くと、上鳥羽は胸元にボールを抱え込み、迫りくる相手から逃れるため全速力で左側へ走り出す。
クォーターバックが前方のレシーバーにパスを投げることも、後方のランニングバックにボールを手渡すこともできず、ボールを保持したまま少しでもヤードを獲得するため前方へ走ることをアメフトではスクランブルという。
司令塔として味方を指揮するクォーターバックのプレイとして本来想定されていない緊急退避的な措置であることによる名称だが、少しでもゴールの近くから高瀬川にボールを蹴らせてフィールドゴールの成功率を高めるため、相手との接触で負傷する危険を承知で上鳥羽は走る。
だが敵陣の中央で上鳥羽の動きに目を光らせていたラインバッカーが、その進路上で網を張っていた。
「くそっ!」
上鳥羽は両手で肩を抱き寄せるように固く胸にボールを抱え込んで、膝元から掬い上げるようにぶつかってきた相手ラインバッカーの衝撃に歯を食い縛って耐えた。
「上鳥羽先輩!」
「雪人!」
ラインバッカーのタックルを受けた上鳥羽が派手に芝の上に倒れ込むと、葵は反射的に彼に呼びかける。だが葵が声をあげたのとほぼ同時に、半ば悲鳴交じりで上鳥羽の名を呼ぶ声がする。
「え、あの人って確かウチの生徒会長じゃ……なんで会長がアメフト部のベンチに?」
「生徒会長がアメフト部のマネージャーやっちゃいけない決まりはないでしょ。もっともカンナさんの場合、アメフト部に協力するんじゃなくて彼氏の上鳥羽先輩の近くにいたいだけなんでしょうけど」
くいな橋高校のベンチから血相を変えて上鳥羽の名を叫んだらしい眼鏡の女子生徒が生徒会長ではないかと響太が葵に訊ねると、葵は私情が主な動機で生徒会長がアメフト部に付き添っていることを呆れたように返答する。
幸い上鳥羽はすぐに起き上がると、胸の奥に抱き込んでいたボールを掲げて自分がボールを確保したままであることを審判と北辰学園の選手たちにアピールした。
「ファーストダウンはノーゲインで、敵陣35ヤードからくいな橋高校のセカンドダウン」
上鳥羽が倒された地点を確認した白と黒の縦縞のシャツを着た審判が、厳かに今のプレイの判定を下す。上鳥羽の奮闘の甲斐もあってどうにか攻撃を開始した位置から後退せずにセカンドダウンの攻撃を行えることに、くいな橋高校の面々はほっと胸を撫で下ろす。
「セーッ、ハット、ハット、ハット!」
相手から強烈なヒットを見舞われながら上鳥羽は変わらず張りのある声でプレイ開始の合図を出す。今度は少しだけラインから離れた位置でボールを受け取り、一度パスを投げる素振りを見せてから勢いをつけて走り込んできたランニングバックにボールを持たせて、双方のラインが競り合いを続けるフィールドの中央に突っ込ませた。
中央の嵐山とその左隣に陣取った来栖が相手ラインを押さえて僅かにスペースが空いていたが、くいな橋高校のランニングバックはラインの隙間を抜け出してすぐ、その空間に詰めてきていた相手のラインバッカーに潰されてしまう。
結局ランプレイで前進を目論んだセカンドダウンもゲインはなく、くいな橋高校は攻撃を開始した地点で立ち往生したままサードダウンを迎えた。
エンドゾーンまで35ヤードあり、ゴールポストはその奥10ヤードの距離に立てられている。更にキックをするための十分なスペース確保とキックを阻止しようと肉薄する相手ディフェンスとの間合いを置くために、キックの前にボールがあった位置から7ヤードほど後方からキッカーはフィールドゴールを試みなければならない。
仮にこのままフィールドゴールを蹴るとすると、くいな橋高校のキッカー高瀬川は52ヤードほど先にあるゴールを狙わなければならなくなる。
世界最高峰のプロリーグNFLのキッカーでさえ50ヤードのフィールドゴールの成功率は高いものではないことから、高瀬川に勝ち越しのフィールドゴールを成功させるにはくいな橋高校は少しでもエンドゾーンまでの距離を縮めておく必要があった。
「ファーストダウンの更新とは言わないけど、次のサードダウンで5、6ヤードはゲインしとかなきゃ高瀬川先輩でもフィールドゴールを決めるのは難しいわ……」
「1プレイでそれだけの距離を獲得するには、ランじゃなくてパスを通すしかないってことッスね?」
「ええ。けどニッケルを敷いているように、北辰学園もウチがパスを狙っていることを十分警戒しているみたいね」
「ニッケルって、フィールドの上に何か置きましたっけ?」
「バカね、中央の守りを薄くする代わりに、パスカバーに割ける選手を増やすニッケルディフェンスのことよ。ほら、さっき中央に3人いたラインバッカーが2人に減った分、フィールドの奥を守るディフェンスバックの選手が5人に増えているでしょ」
響太が怪訝そうな顔でフィールド上に何か変化があったのかと見回していると、葵が早口でフィールドに鉱物を置いたのではなく北辰学園がパスを警戒した布陣をとったのだと解説する。
「なるほど、パス対策にシフトしたゾーンディフェンスのことッスか」
「なかなか物わかりがいいじゃない、腐っても元バスケ部ね」
「腐ってもは余計ッス」
バスケットボールをしていたことで北辰学園がどういった意図でディフェンスの陣形を変えたのかを察したことに対し、葵の褒めているのか貶しているのか分からない物言いに響太は苦笑する。
「セーッ、ハット、ハット!」
このプレイ次第で少しでも有利な位置からフィールドゴールを蹴ることができるかどうかという勝敗を大きく左右する影響のあるサードダウンを始める掛け声を上鳥羽が雄々しく発する。
相手にロングゲインさえ許さなければ、自分たちの勝利する確率がかなりのものになると理解して、北辰学園のディフェンスラインの突進する勢いはセカンドダウンまでよりは幾分緩くなっている。
くいな橋高校の陣内に猪突猛進してプレッシャーをかけることよりも、後方に抜かれないことを徹底していたディフェンスラインが難攻不落の城壁のように立ちはだかっていることで上鳥羽はこれまで以上に安直にボールを手放せないと警戒心を強めていた。
だがここでレシーバーにパスを通さなければ、自分たちが逆転できる望みが一気に萎んでしまう。この後フィールドゴールを試みる高瀬川のモチベーションを保つにも、なんとしてもパスを成功させなければならない使命感に後押しされてプレッシャーに耐えながら、上鳥羽はパスを投げられそうなレシーバーを懸命に探す。
ここが勝負所と考えているのはボールを持つ上鳥羽だけでなく、彼からのパスを受けるレシーバーたちも、1秒でも長く相手ディフェンスを食い止めて上鳥羽にパスを投げる余裕を与えようと踏ん張る来栖たちラインの選手も、そしてこれ以上1インチたりともくいな橋高校にゲインを奪われまいとする北辰学園の選手たちも同じだった。
刻々と試合終了に向かって時計の針は進んでいくが、上鳥羽は未だにパスを投げられない。このまま時間を費やしてしまえば、くいな橋高校はフォースダウンでフィールドゴールを蹴ることさえできなくなってしまう。響太は汗の滲む掌を握り締めて、サードダウンのプレイの行方を見守る。
右翼で相手のコーナーバックとマッチアップをしていた味方のレシーバーが、フィールドの中央に駆け込むと見せかけてサイドライン際へカットしたフェイクが成功し、一瞬ノーマークになったのを見逃さず、上鳥羽は乾坤一擲の思いでパスを投げる。
上鳥羽の手を放たれたボールは一直線にサイドラインへと飛んでいき、相手の執拗なディフェンスを振り切ったレシーバーは両手を広げてボールの到着を待ち受ける。
このパスが成功すれば敵陣30ヤード以内までボールを運ぶことができ、くいな橋高校は葵が先ほど期待した程度の距離をゲインできる。
だが僅かにボールの軌道上にレシーバーが駆け込むのが遅かった。刹那のタイミングでレシーバーがパスコースに入るのが遅れた結果、ボールは彼の掌に収まり切らずに弾かれてしまう。
パスを捕球し損ねたレシーバーは慌ててボールを確保しようとするが、弾かれたボールは宙を舞い、サイドラインの外へと落ちてしまった。
勝負の行方のかかったサードダウンは痛恨のパス失敗となり、くいな橋高校は50ヤードを超えるフィールドゴール・アテンプトに勝ち越しに向けた一縷の望みを託すこととなる。
「まだだ、まだフォースダウンが残っている。そして高瀬川ならこの距離でもきっと決めてくれるさ!」
意気消沈としかける仲間たちを上鳥羽が鼓舞して、正真正銘最後の攻撃に勝利への願いをかけるよう呼びかける。
並のキッカーならば絶望的な挑戦でも高瀬川なら可能性はあると、くいな橋高校の選手たちは頼り甲斐のある選手を信じて素早く持ち場に着き、フィールドゴールの体形を整えた。
「残り10秒、フィールドゴールを蹴ったらホントにタイムアップだわ」
葵は固く組んだ両手を顔の前に掲げて、祈るような眼差しで遙か彼方に立つゴールポストまでの距離を確かめる高瀬川とその前で肩を寄せ合うように間隔を狭めて一列に並ぶくいな橋高校の選手たちを見つめる。
葵がこのように不安げな顔をするのを初めて見たが、それ以上に52ヤードほどの距離に挑む高瀬川のフィールドゴールの結果の方が気がかりだった。この試合、最後のプレイがどうなるのかを響太は食い入るような目で見つめる。
「セッダウン、ハット!」
合図を聞いた嵐山がボールを後方に向かって投擲すると、寸分狂わず手元に飛んできたボールを上鳥羽が角度や向きを手の中で微調整しながら地面に置く。上鳥羽がボールを設置した位置に所定のステップで高瀬川が駆け込んできた頃、その前方ではフィールドゴールを阻止しようと詰責してくる北辰学園のディフェンスとキッカーとボールを守ろうとするくいな橋高校のラインの激しいせめぎ合いが繰り広げられていた。
高瀬川は前方で行われている乱戦の喧騒も、自分の一蹴に会場中の注目が集まっていることもまるで意に介せず、ただボールを遙か彼方に聳えるゴールポストの間に通すことだけを考えて前方に足を蹴り出した。
高瀬川の足の甲がボールの側面を捉えると、これまで以上に大きな音を立ててボールが宙に飛び出していく。距離があるためかなり低い弾道での蹴り出しとなり、危うく飛び上がった北辰学園の選手の手にかかるところだったが、僅かに上空を過ってボールは彼らの背後に立つゴールに向かって飛んでいく。
「お願い届いて!」
「行けぇ!」
葵は組んだ手に額を押し当ててフィールドゴールの成功を懇願し、響太はボールを目で追いながらゴールポストの先に抜けていくよう声援を送る。
高瀬川のキックでボールが自分たちの手の届かない場所まで飛んでいくと、ライン際で続けていた押し合いを選手たちも止め、運任せ風任せとなったフィールドゴールの結果をただ見届けるだけだった。