Mask4 本当の笑顔
ギルが剣を正面に立てて構えた。
走り出した少年は、ギルへと向かいながら高々と跳びあがる。
少年が両手に握った短剣の刃を交差してギルの振るった一撃を受け止めると、そのまま弾き返した。そしてすかさず無数の斬撃を繰り出してゆく。
怒の仮面をつけた少年の連撃は、猛々しくその牙を振るった。休むこともせず、それこそ一息もつかずに続く攻撃はまさに飛燕。
それでも攻撃はギルに届かない。全てを避けられている。
しかもギルの仮面の表情が、余裕の笑みを浮かべているように見えた。笑顔を模して作られた仮面の表情であるはずななのに、男の本心を映しているように見えてしまう。
「それは本気でやっているのか?」
ギルが剣を振り出した。
徐々に追い詰められる少年。
弾かれる短剣と、次第に攻めへと転じてくるギル。
少年の手が追いつかなくなってきた。短剣よりも小回りが利くとは思えない。それなのに、ギルの動きは信じられないほどに速かった。
胸元を狙ったギルの突き。
それを避けながら、少年は一気に間合いを詰めてみた。この距離なら自分の方が遥かに有利であると確信したから。
だが、近づくと同時に出されたギルの前蹴りは、少年の鳩尾に直撃した。
咳き込む少年は、頭上から振り下ろされてくる剣に気がつき、とっさに左に転がって避けたつもりだった。しかし、右腿が熱くなって痛みが走る。間に合わずに斬られたようだ。
しかし、まだ止まれない。
痛みを堪えて足を踏ん張り、襲い来るギルの斬撃を受け止め続けた。
力む度に傷口から血が噴き出してゆく。
今度は左腕が斬られ、そこから血が噴き出す。続いて頬。そして胸。肩。
辺りの床に血が飛び散っていた。それは全て少年の血。
ギルは未だ笑顔を絶やさぬまま、いたぶるのを楽しむかのように斬りつけてくる。
少年が素早くバック転をして距離をとっていくと、ギルは追いかけようと走り出した。
その瞬間、短剣が一直線にギルの正面へと向かって飛んで行く。
ギルが間一髪かわすと、目の前にいたはずの少年の姿が消えていた。
「んん?」
ギルの背後で、飛んでいった短剣が壁に突き刺さる音がした。
周囲を見渡すギル。だが、少年の姿は発見できない。
次の瞬間、突然の鋭い殺気を感じたギルが素早く前方に身体を傾けると、彼の背後から後頭部を狙った一閃が走った。
「そこか!」
ギルの振った剣は、少年の僅か数センチ前の空気を斬った。
少年は再び距離をとり、後方の壁に刺さったままの短剣を引き抜いた。そして柄に結び付けてあるオニクジラの髭を手に巻きつけ、短剣をだらりと垂れ下げる。
「面白い構えをするじゃないか」
垂れ下がった短剣を高速で振り回してギルへと近づいていく少年。その短剣の回転速度は、あっという間に先端の刃が見えないほどへと達した。
少年は回転ノコギリのように回るその刃を、ヌンチャクのように振り回して攻める。
空気を斬る音が重たい。そして速い。
ギルのつけていたネクタイが、激しい動きの中で靡いていた。
そのネクタイに短剣が触れた瞬間、細切れになった布切れが周囲に散ってゆく。
「威力はありそうだな」
しかしギルにはまだ余裕があった。むしろ、調子の良くなってきた少年の動きを嬉しく思っているかのように。
少年が右手で回す短剣を大きく振った。
ギルの脇腹目掛けて振られた短剣は、素早いギルのガードで弾かれた。
飛び散る火花。そして短剣とギルの剣が欠けた。
休まずに左の短剣で反対側を狙う。
同じようにギルが防御をすると、またもや火花と破片が飛び散った。
短剣は二本ともひびが入ったが、ギルの剣は真ん中から二つに折れてしまった。
折れた剣の転がる金属音が部屋中に響き渡り、ギルは一歩後ろへ退いた。
それを追い詰めるようにして前進する少年。
「いやあ、強いな君は」
そう言いながら、両手を頭の高さまで持ち上げたギル。
そのあまりにも潔い姿は怪しすぎた。
さらに詰め寄ると、ギルは笑い声をあげながら言った。
「今までの君の戦いを見て気がついた。怒の仮面は主に猛々しさと筋力の上昇、哀の仮面は敏捷性と正確さの上昇、楽の仮面は一対複数戦での総合的な戦闘力を上昇させているようだな」
この状況で突然何を言い出すのかと思えば仮面の解説。
少年はギルの言葉を無視して更に近づいた。
少年が聞きたいのは、そんな話ではない。
「じゃあ、喜の仮面はどういった効果があるか知っているか? …………喜の仮面はな、自分の戦意をコントロールできるのさ」
ギルの被る仮面の目が光を増した。
眩しいほどに輝く光は、前進する少年の足を止めるばかりか、少しずつ後退させていた。
徐々に光が治まると、明らかに先程までのギルの雰囲気とは違ったものが部屋中に充満していた。
ピリピリするほどの殺気。
鳥肌が立っていることに気がついた少年と、肩を震わせるコリン。
身体が思うように動かない。
戦意のコントロールという能力は侮れない。人間とは、気の持ちようによっていくらでも潜在能力を引き出せる。
体毛から。皮膚から。そして心臓、神経、脳から。体の隅々から、ある一つのものが少年の中に叩き込まれていた。
それは、圧倒的で絶対的な、“ギル・ゴードン”という災厄への危機感。
いけない。ここにいてはいけない。少年の、生命としての本能がそう囁いてくる。
だが、コリンを助けにきたのだ。引き下がれるわけがない。
ギルが一歩足を踏み出した。
その足音がやけに大きく聞こえて、少年はまた一歩下がった。
突然ギルが一気に近づき、右の拳を繰り出した。
それは少年の顔面を打ち抜いた。
飛ばされる少年の身体。割れる仮面。少年は背中を強く打ちつけて倒れる。割れた仮面はあちこちに飛び散り、その破片のいくつかは少年の顔に傷を作った。
起き上がろうとすると、目の前まで迫っていたギルが少年の首を鷲掴みにして持ち上げた。
「仮面が一つ砕けてしまったな。まあいい」
そのまま少年の腹へ、速く重たい下突きが食い込む。
血と胃液を口から飛び出させた少年は、両腕で腹を抱えた。それと同時に短剣が床に転がる。
「ヴォロー! やめて-!」
コリンの叫びは虚しく響いた。
二度目の下突きが決まり、少年は床に落とされた。胎児のような格好で丸くなる少年は、苦しさに悶える。
気絶しそうだった。むしろ気絶したいと願ってしまうほどだった。
だが、まだ倒れるわけにはいかない。コリンを助けるまでは。
少年は生まれたばかりの子鹿のように立ち上がった。
そこへギルの拳がまた襲い掛かる。
音と共に砕ける肋骨。
そのまま後方に飛ばされ、壁が凹むほどに叩きつけられた。
その衝激で、腰に下げた残り二つの仮面も割れてしまった。
短剣を失い、仮面を失い、満身創痍の少年は、壁にめり込んだまま動かなかった。
ギルが近づいてくる。
このままやられてしまえば楽になるだろうと思った。痛いのは嫌いだから、これ以上苦しむならばいっそのこと死んでしまうのもいいかもしれない、と。
この部屋にやってくるまで、すでに幾つも激戦をしてきたのだ。辿り着けただけでも良くやったと思う。
そんなマイナス思考ばかりが浮かんでくる。こんなにも自分が弱いとは思わなかった。
少年は自分を恥じながらも、すでに彼の戦意は消えていた。
コリンはどうなるのかと考えた。
おそらく、この後はまた今まで同様に働かされるのだろう。
殺されるわけではない。それを思えば少し気が楽になった。
頑張ってまだ生きてほしい。そう願いながら、最後にコリンの姿を目に焼き付けようと格子を見る少年。
泣きながら少年を見つめるコリン。
今更になって、彼女の笑顔を見たいと思った。
しかし、仮面が無くては、彼女は笑えない。
そしてその仮面を奪ったのはギル。
少年は考えた。
自分は今何を考えていたのだ、と。
大切な人が笑顔を奪われたのだ。自分と分かち合った笑顔を。
それは自分の笑顔が奪われたのと同じだ。
許せるのか。
否、許せるわけがない。
コリンにもう一度笑顔を。自分にもう一度笑顔を。
仮面の能力などどうでもいいのだ。そんなことは、自分とコリンにしてみたらくだらぬ事だ。
問題なのは、彼女が再び笑えるかどうかだ。
少年は壁から抜け出て立ち尽くした。
「まだ動けるのか?」
自分は表情など要らない。彼女がまた嬉しいと喜んでくれればそれで構わない。
少年は拳を握り締めた。
行けるか。いや、行くんだ。
少年は走り出した。
一度失われた戦意は、見事に蘇っていた。いや、蘇ったのではなく、ギルの威圧感にも圧し負けない強さをもって生まれ変わっていた。
再び戦意を取り戻した少年に向けて、ギルが素早い回し蹴りを繰り出した。
しかし、それを跳び越えて反対側へと着地した少年は、落ちている短剣を拾った。
それをぎゅっと握り締め、ギルの方を振り向く。
そして走る。
近づく二人の距離。
ギルの手足は斬撃のような速さで猛威を振るう。
足、腕、胸、腹、頭、至る所にヒットするその攻撃は、どれもが骨を傷つけ肉を潰した。
それでも短剣を振り続けた。当たるまで、何度も何度も振り続けた。
「なぜだ……なぜそこまで動けるんだ!?」
ギルが吠えた。同時に拳を突き出してくる。
その拳に、少年は短剣を突き立てた。そしてそのまま自分の方へギルを引き寄せる。
拳に刺さった短剣に引っ張られて、ギルの拳の傷は大きく広がった。
ギルの漏らした呻き声が、仮面の下で激痛に顔を歪めている彼の顔を思い浮かばせた。
その瞬間を見逃さなかった少年が、上段回し蹴りを放つ。
その蹴りは、大きな円を描く軌跡を残しながら、ギルの下顎へと直撃した。
足をふらつかせて膝を折るギル。喜の仮面の口から赤い血が流れた。
そして最後の一撃が放たれた。
短剣が、仮面の上からギルの顔面に突き立てられる。
二つに割れる仮面。
その下から現れたのは、額に短剣を突きたてたギルの死に顔だった。
その後、牢の扉に掛けられた鍵を打ち壊し、扉を開くと、傷だらけの少女が涙を流しながら近づいてきた。
「ヴォロー! よかった!」
泣きながら少年に抱きつくコリン。
少年はそのままよろけて後退した。
すっかり消耗しきった少年を、コリンは肩に腕を回して支えた。
二人が屋敷を出た時には、遠くに見える山から朝日が差し込んできそうだった。
まだ肌寒い夜明けの直前。
並んで歩く二人。
コリンは言った。
「ヴォローありがとう。ヴォローが来てくれて、あたしは凄く嬉しいよ」
少年は、コリンの顔を一度だけ見て俯いた。そこにはやはり笑顔が無い。
せっかく彼女が嬉しいと言ってくれたのに、もう仮面は一つもない。自分達はまた表情を失ってしまったのだ。
せめて、最後に彼女だけにでも笑顔を被らせてあげたかった。
少年は酷く後悔していた。
「ヴォローが助けに来てくれるって、あたし信じてたから」
笑顔を失っても、彼女はそう言ってくれた。
ヴォローは、喜びを表現できないことを後悔した。
だが、その思いは再びコリンの顔を見た瞬間に吹き飛んでしまった。
そして少年は心臓を高鳴らせた。
それは、彼女の顔に変化が起きていたから。細めた目尻は少し下がり、口の両端は上に吊り上っていて、頬にはえくぼも出来ている。
仮面をつけていない素顔による、彼女の笑顔がそこにあったから。
「あたしの顔……笑ってるでしょう?」
少年は頷いた。
いつその笑顔を手に入れたのだろうか。
「あたしが笑えたのはヴォローのおかげだよ。仮面が割れても、あなたはあたしに笑顔を取り戻してくれた」
少年はじっとコリンの顔を見た。
その笑顔を見ていると、傷ついた身体も痛くなどなかった。自分まで嬉しくなってしまった。
だから余計に、返す笑顔を持たないことが、仮面が無いことが本当に残念だと思った。
「あたしがどうして笑顔を手に入れたか知りたい?」
ヴォローは頷いた。
「それはね……」
少年は答えを待った。
もしかしたら、その方法で自分にも笑顔が生まれるかもしれないと思ったからだ。
しかし、コリンの答えは意外なものだった。
「あたしがヴォローにありがとうって言った時、ヴォローが見せた笑顔を見たから、私も笑えたんだよ」
少年は一瞬意味が分からなかった。
それから自分の顔をあちこち触ってみた。
コリンはそんな少年を見た瞬間、今度は声を出して笑った。
そんなに可笑しいのかと、少年も可笑しくなってきた。
そうしたら気がついた。
彼女につられて自分の目尻が下がっていることに。自分の口が両端を吊り上げていることに。
笑っている。
<了>