Mask1 仮面の少年
その日の夜は静かだった。
虫と梟の鳴き声が微かに聞こえるものの、もしその中で静かに円舞曲を舞えば、シルクのドレスが擦れる音だって森中に響き渡ることだろう。
その日の夜は暗かった。
蒼に染まった満月は冷たい明かりで森を照らすはずだったが、灰色の雲がそれを隠し、月明かり以上に森を冷やした。
そんな静かで暗い森の中を、空気になりすますように身を潜めて動く者がいた。
無音かつ俊敏な動きで、草木の影に身を溶け込ませながら進み続ける。
やがて森が終わり、暗闇を行くその者の目の前には、広い野原と、それを隠そうとする霧が広がっていた。
それほど濃くはない霧。森を抜けたせいで、周囲はより静かになった。
その者の肉体や意識まで飲み込もうとするかのように、霧が纏わり付いてきた。
しかし、そんなことには気付いていないかのように、彼はただ霧の中にあるものだけに意識を集中させていた。
突如強い風が吹いたことと、雲が大きく動いて月が姿を見せたことが重なって、野原の霧が消えていった。
同時に、巨大な何かの影がその輪郭を浮かび上がらせた。
有刺鉄線とコンクリートで組み立てられた分厚い外壁。
森を駆けて来た者の容姿も照らし出された。
壁を見上げる者は、齢十四、五くらいの少年だった。
引き裂いたシーツのように薄汚れたボロ布を腰に巻き、二本の短剣と三つの仮面を腰からぶら下げていた。褐色の肌を赤や緑のボディーペイントが彩る。獣の爪と牙で作られた頭飾りが風に揺れ、ジャラジャラと音を立てた。
少年は無表情だった。
唇をきっちりと結び、鋭い目付きでじっと壁を見つめていた。
腰に手を持って行き、鞘に納まっている二本の短剣を静かに抜いた。その短剣は、剣竜の鱗を削って磨き上げた短剣。岩をえぐり、鉄を貫くと言われている物だ。
そんな短剣を二本とも逆手に持ち、少年は走り出した。
進む先には垂直に立ち尽くす壁。
直撃する数メートル手前で大地を蹴り、少年は高く跳んだ。
空中で掲げた片方の短剣を、まるでチーズケーキにフォークを突き刺すかのように、滑らかに壁へと沈める。
それを足場にして、壁の上でねずみ返しのように反り返る有刺鉄線の柵を切り、素早い動作で壁の頂上へと上がった。
外壁に刺さった短剣の柄に結ばれたオニクジラの髭を引き、短剣を壁から抜いて手元へと手繰り寄せると、二本の短剣を逆手に構え直してから壁の内部を見渡した。
前方百メートル程先に身構える鉄の屋敷。
そして屋敷の周囲を取り囲んでいるのは警備部隊。全員が黒いスーツを着込み、それぞれ決まった位置に立って周囲を伺っていた。更に屋敷の屋上からはサーチライトが庭を照らし、その丸い明かりは規則的な動作で動き回っていた。
入り口はちょうど少年の真正面にある。
あいにくきっちりと閉じられてはいるが、入り込む方法は後で考えればよい。
今は侵入経路を考えるよりも、目の前に迫った屋敷の中にいる男、『ギル・ゴードン』の元へ辿り着きたくて仕方が無かった。
猫のような柔軟性のある動作で壁から飛び降りると、その姿をサーチライトが見つけた。
眩い白い光に全身を照らされる少年。
聞こえてくる複数の男達の叫び声。ライトの光が眩しくてよく見えないが、あっという間に囲まれたようだ。
少年は腰から下げた仮面の一つに手をやった。
その仮面がうかべる表情は、金で出来た牙を覗かせた気持ち悪い笑顔。動物の体毛で模された髪の毛は獅子のように靡いて、目の穴はへの字にくりぬかれていた。
それは“楽の仮面”。
太古に魔界を追放され、人間の世界で己の快楽の為に外道の限りを尽くしたという悪魔ヴィッケルを宿した仮面。
少年はその仮面を静かに自らの顔面へと押し当てた。
吸い付くように張り付いた仮面は、目に赤い妖光を灯らせた。
そして次の瞬間から、少年の動きは人の域を超えた。
短剣を正面でクロスさせた少年は真っ直ぐに駆け出し、目の前の男達に突っ込んでいく。
申し合わせたように、同時に胸ポケットから拳銃を取り出す男達は、一斉に少年目掛けて引き金を引いた。
無秩序に連続する銃声。
しかし、そこに少年の姿はなく、男達の背後から一人の悲痛な叫びがこだました。
振り返ればそこには血に濡れた短剣を持った少年がいて、その傍らには先程の悲鳴の主が血を流して倒れていた。
「撃てぇ!」
一人の怒声が響いた後、男達の銃は再び火を噴いた。
素早く右に駆け出す少年。駆けながらも男達との距離が詰まって行く。
円となり走る少年の動きに、円の中心として銃を向ける男達の動きは追い付けていなかった。
速過ぎた。
少年に一番近い位置にいた男の、すぐ目の前に少年が立った。
「まさか……」
手を伸ばせばすぐに掴めるその位置に少年は立ち、男が拳銃を引き寄せる間もなく短剣を振って三日月を描く。
空気の切れる音がした後で男の喉から噴き出した血は、赤い霧にも見えた。
倒れる男の横から飛び出した少年は、銃が向けられるよりも早く、残りの男達の集団へと突っ込んでいった。
集団の真ん中まで入り込んでしまえば銃では撃ち難くなる。案の定彼らは、味方に当たることを恐れて引き金を引けずにいた。
四方に立つ男達の中心で、少年は両腕を広げて回転し、男達の腹を切りつける。
銃をしまい素手で向かってくる者や、ナイフを取り出す者が飛び掛ってくる。
少年は、真上に迫った男の下顎に短剣を突き刺して素早く抜いた。続いて降ってくる男の巨体を左にかわし、空を掴む男の腕の間を通して膝蹴りをかました。持ち上がる巨体の頭。
そして止めの一閃が男の喉を開いた。
その間僅か二秒弱。
唖然とする残りの男達の中を駆け回る少年。
少年の通る道は、必ず血に濡れた。
幾つもの悲鳴が響き渡り、血の雨が降り続けた。
その様子を面白がるかのように、少年の動きはより俊敏になっていく。
遂に銃声も響きだした。
しかし、悲鳴は止まない。
増援部隊が到着しても一向に人数が増えた気がしない。それは単純に、人数の増える早さが、始末される早さに追いついていないだけの話。
あまりにも圧倒的過ぎる力の差。
逃げる者も現れた。
しかし、少年の動きはたった一人の逃亡すら許さなかった。
足を切り、動きを止めてから止めをさす。もしくは動きを止めた後一時放置して、その者に死のカウントダウンを刻ませる。
仮面の下で少年はどんな顔をしているのか。両膝を貫かれた男はふと考えた。
笑っているのか、あの仮面のように。殺戮を快楽として愉悦に浸っているのだろうか。
男は、子供の頃に聞いた昔話を思い出した。
悪魔ヴィッケルは、母のような微笑を浮かべて子供を喰らい、まるでお菓子に飛びつく子供のように笑いながら人の心臓を抜き取ったという。
その悪魔の姿を、男は少年の姿に重ねていた。
そして次の瞬間、男の意識は途切れた。
地に伏せる男の背後で、少年は短剣に付いた血を振り払っていた。
周囲を見渡しても動いている者はいない。
ここで手にかけた者だけが全ての警備部隊だとは思っていなかった。
まだ屋敷内を警護する者達がいるはず。とりあえず、最初の関門は突破したというところだろう。
顔面にへばりついた“楽の仮面”を掴み引き剥がす。未練がましく顔の皮膚を引っ張る仮面。それでも強引に剥がすと、それを再び腰に下げた。
少年は屋敷の入り口へと進んでいく。
重たい鉄の扉。
だが、ロックは外されていた。
少年が近づくと、ドアは自然に横へとスライドして開いた。
誘いこんでいるようだった。
内部は薄暗い。そして、人の姿はない。
だが、姿が見えないだけだった。
微かな衣擦れの音。息遣い。気配を感じる。
相変わらずの無表情のまま、少年は一歩足を踏み出した。