それでも、空は青い
『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』
第52話
それでも、空は青い
あれから、二十年の歳月が流れた。
世界は、平和になったわけではなかった。
ロシアは二〇一四年、クリミアへ軍事侵攻し、ウクライナから力で奪った。
二〇二二年には、ウクライナ全土への軍事侵攻が始まった。
イスラエルとパレスチナの対立は激化し、ガザ地区では多くの市民が傷ついた。
ミャンマーでは、国軍によるクーデターが起き、市民が弾圧された。
アフガニスタンでは、かつて同時多発テロを引き起こした過激派勢力が再び政権を奪い取った。
さらにアメリカとイランの軍事的緊張も高まり、世界のあちこちで、空はまた爆音と煙に覆われた。
二十年経っても、人類はまだ、戦争を終わらせられずにいた。
それでも――
秋田一平は、生きていた。
右肩には今も痛みが残る。
寒い日には肋骨の奥が重く疼く。
肺も、若い頃のようには強くない。
けれど一平は、仕事を続けていた。
日本商事ニューヨーク支店で働きながら、休日には自宅で講演会を開く。
さくらも隣に立つ。
「あの日、私たちは憎しみだけで生きることもできました」
さくらは、そう語る。
「でも、子どもたちには、人を恨み続ける人生を歩んでほしくなかったんです」
一平も続ける。
「私はテロを許していません。絶対に許せません。でも、憎しみが憎しみを生み続ける世界を変えたい。その思いは、今も変わっていません」
その家には、今も人が集まる。
事件を知る人。
知らない世代。
戦争から逃れてきた人。
信仰を理由に差別された人。
大切な人を失った人。
秋田家のリビングは、二十年経っても、人と人が向き合う場所であり続けていた。
朝陽は、ノアと結婚していた。
二人の間には、二人の女の子がいる。
長女はエミ。
次女はリナ。
エミは母に似て、言葉の奥をじっと見る子だった。
リナは父に似て、トランペットの音が好きだった。
梓は、マーカスと結婚した。
二人の子どもは、男の子と女の子。
長男はカイト。
長女はミオ。
カイトは理科が好きで、分からないことがあるとすぐに質問する。
ミオは絵が好きで、つばめ二世と呼ばれる猫の絵ばかり描いていた。
そして北斗は、ジェシカと結婚していた。
二人は、アメリカで人気コメディアンになっていた。
ニューヨーカーと関西人。
英語と大阪弁。
アメリカンジョークと「なんでやねん」。
二人のネタは、奇妙で、騒がしくて、あたたかかった。
ステージでジェシカが叫ぶ。
「北斗! あんた、まだ飛行機の図鑑読んどんのかいな!」
北斗が返す。
「読むわ! 空は怖いだけのもんちゃうんや!」
ジェシカが一瞬だけ間を置き、笑いながら言う。
「……それ、ええこと言うやん。知らんけど」
客席が爆笑する。
その笑いの中には、二十年前の痛みも、そこから歩いてきた時間も、確かに混ざっていた。
ある秋の日。
秋田家に、みんなが集まった。
一平とさくら。
朝陽とノア、エミ、リナ。
梓とマーカス、カイト、ミオ。
北斗とジェシカ。
ローラ、トーマス、ジェニーもいた。
庭には、かつてと同じようにバーベキューの匂いが漂っている。
子どもたちが走り回る。
大人たちは笑う。
北斗とジェシカは、相変わらず言い合っている。
「ジェシカ、肉焦げとる!」
「ちゃいまんがな。これはスモーキーアートや」
「ただの黒焦げや!」
「知らんけど!」
一平は声を出して笑った。
その笑い声は、昔より少し低く、少し弱い。
でも、確かに生きている人の笑い声だった。
夕方、誰からともなく空を見上げた。
青い空だった。
あの日と同じように青い。
けれど、もう同じではない。
一平が言う。
「二十年経っても、世界はまだ難しいな」
さくらが頷く。
「でも、私たちは諦めなかった」
朝陽がエミとリナの肩を抱く。
「忘れないことと、憎み続けることは違うって、伝えていきたい」
梓も言う。
「分からないことを、分からないまま放っておかないことも」
北斗は少し照れくさそうに空を見上げた。
「飛行機、また好きになれてよかった」
ジェシカが隣で笑う。
「ほんまやな。空まで嫌いになったら、もったいないやろ」
一平は、ゆっくり深呼吸した。
肺の奥に、まだ少しだけ痛みがある。
でも、その痛みも含めて、自分の人生だった。
彼は空を見上げた。
「世界から、戦争がなくなりますように」
さくらが続ける。
「誰かの信仰や国籍が、憎しみの理由になりませんように」
朝陽、梓、北斗、ノア、マーカス、ジェシカ、子どもたちも、それぞれ空を見上げた。
祈りは、すぐに世界を変えない。
それでも、祈らずにはいられない。
あの日、空は裂けた。
けれど二十年後も、空はそこにあった。
青く。
広く。
傷ついた人々の上にも。
生き残った人々の上にも。
これから生まれる子どもたちの上にも。
一平は、静かに微笑んだ。
「それでも、空は青い」
その言葉を聞いて、北斗が小さく言った。
「お父さん、それタイトルっぽいな」
ジェシカがすかさず突っ込む。
「なんでやねん。最終回やからええねん」
みんなが笑った。
涙と笑いが、同じ空の下にあった。
それが、秋田家の二十年だった。
忘れない。
でも、憎しみだけで覚えない。
傷は残る。
それでも、人は誰かと手をつなぎ、笑い、語り、祈りながら生きていく。
空は、今日も青かった。




