帰れない距離
『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』
第5話
「帰れない距離」
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夜のリビングに、少しだけ懐かしい音が響いていた。
電話の向こうから聞こえる、日本の声。
「もしもし? あー、聞こえとる?」
一平は受話器を耳に当てながら、少し大きめの声で返す。
「ああ、聞こえとるよ。じいちゃん」
その声に、さくらと子どもたちも自然と集まってきた。
スピーカーモードに切り替えると、一気に距離が縮まる。
「おおー、みんな元気か!」
祖父の声は、北海道の空気をそのまま運んでくるようだった。
少しざらついた声。
ゆっくりした話し方。
その奥にある安心感。
「元気だよー!」
北斗が真っ先に叫ぶ。
“How’s school, Hokuto?”
(北斗、学校どうだ?)
「Good! I run fastest in my class!」
(いいよ! クラスで一番速い!)
「おお、すごいなあ!」
祖父が笑う。
電話越しなのに、その笑い方まで見える気がした。
朝陽が少し照れたように口を開く。
「部活とかはないけど、友達できたよ」
「そうかそうか、それが一番や」
梓も続く。
「授業はちょっと難しいけど、なんとかやってる」
「お前はしっかりしとるから大丈夫やろ」
祖母の声が、後ろから重なる。
「さくらさん、ちゃんと食べさせてる?」
さくらが笑う。
「ええ、大丈夫です。むしろ食べすぎなくらいで」
「それなら安心やね」
短い会話。
ただの近況報告。
けれどその中に、日本での生活の匂いが混じる。
季節の話。
近所の話。
スーパーの話。
電車の話。
一平の耳には、函館本線の音が蘇る。
雪の朝。
遠くから聞こえるディーゼルの響き。
特急北斗のライト。
あの頃の自分は、ニューヨークに来るなんて思っていなかった。
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電話が終わったあと、部屋は少し静かになった。
さっきまで確かに近くにあったはずの“日本”が、また遠くへ戻っていく。
北斗がぽつりと聞く。
「ねえ、お父さん」
「ん?」
「またあそこに戻るの?」
一平は少しだけ言葉を選んだ。
「……いつかな」
「いつ?」
「まだ分からん」
北斗はそれ以上聞かなかった。
ただ「そっか」とだけ言って、つばめの背中を撫でた。
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翌日、学校の帰り道。
朝陽と梓は並んで歩いていた。
夕方のマンハッタンは、人の流れが朝とは違う方向へ動いている。仕事を終えた大人たち、買い物帰りの人、学校帰りの子どもたち。
ふと、朝陽が言った。
「ねえ」
「ん?」
「なんかさ……」
少し言葉を探してから、続ける。
「もう、日本の学校に戻る感じしなくない?」
梓はすぐには答えなかった。
その代わり、少しだけ歩く速度を落とす。
「……どういう意味?」
「うまく言えないけど」
朝陽は前を見たまま言う。
「こっちでさ、普通に友達できて、普通に授業受けて、普通に笑ってるとさ」
「うん」
「日本に戻ったとき、“同じ感じ”でいられる気がしない」
梓は小さく息を吐いた。
それは、彼女も感じていたことだった。
日本にいた頃の友達。
教室の空気。
何となく分かり合える感じ。
それが、少しずつ遠くなっている。
「戻れるとは思うよ」
梓は慎重に言う。
「でも、“同じ”じゃないかもね」
朝陽が頷く。
「だよね」
「たぶん、こっちも残るし、日本も残る」
「……それって、いいこと?」
梓は少し考えてから答えた。
「分かんない」
正直な答えだった。
二人はしばらく黙って歩いた。
夕焼けがビルの隙間に差し込む。
どこにも完全には属さない感覚。
でも、どちらにも触れている感覚。
それが“遠くに住む”ということなのかもしれなかった。
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その頃、一平はオフィスで遅くまで残っていた。
輸入スケジュールの調整。
冷蔵コンテナの手配。
通関の確認。
細かい修正の連続。
パソコンの画面を見ながら、ふと手が止まる。
北海道の港の映像が頭に浮かんだ。
冷たい空気。
魚の匂い。
作業員の掛け声。
あの場所で扱われていた魚が、今、自分の手を通してニューヨークに来る。
「……つながっとるな」
小さく呟く。
ここでやっていることは、決して孤立した仕事ではない。
遠く離れた場所と、確かにつながっている。
それでも。
誰もいないオフィス。
夜の静けさ。
窓の外に広がる無数の灯り。
その中で、自分だけが少し浮いているような感覚もあった。
駐在員という立場は、どこか“仮の居場所”でもある。
ここにいる。
でも、完全にここに属しているわけではない。
その距離が、ときどき胸に残る。
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同じ頃。
ある場所では、別の準備が進んでいた。
それはまだ、ニュースにもならない。
誰の目にも留まらない。
ただ静かに、確実に、いくつもの歯車が噛み合い始めている。
地図。
リスト。
時間。
言葉は少ない。
必要な確認だけが、淡々と行われる。
“Ready?”
(準備はいいか)
“Almost.”
(ほぼ)
“Timing is everything.”
(タイミングがすべてだ)
そのやり取りは、どこか冷たく、感情を欠いていた。
そこには、家族も、日常も、笑いもない。
ただ、目的だけがある。
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一方、空港では。
航空会社のスタッフたちが、いつものように業務をこなしていた。
チェックインカウンター。
荷物の仕分け。
搭乗案内。
安全確認。
“Flight is on schedule.”
(フライトは定刻通りです)
“Boarding in thirty minutes.”
(30分後に搭乗開始です)
何も変わらない。
何も特別ではない。
ただの一日。
いつも通りの運航。
空は今日も開かれている。
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その夜。
秋田家では、いつもと同じように一日が終わろうとしていた。
さくらがキッチンを片づけ、
朝陽が宿題をし、
梓が本を閉じ、
北斗がつばめと丸くなっている。
一平が帰宅し、ドアを閉める音がする。
「ただいま」
「おかえり」
そのやり取りも、いつも通り。
さくらはふと、一平の顔を見た。
「……少し疲れてる?」
「まあな。でも大丈夫や」
「無理しないで」
一平は頷いた。
「そっちもな」
その会話の中に、遠くに住む現実がある。
お互いが無理をしすぎないように、少しずつ気を配る距離。
窓の外には、ニューヨークの夜。
遠くの空には、見えない飛行機がいくつも通り過ぎている。
誰も知らない。
まだ何も起きていない。
けれど、確実に何かが近づいている。
そのことを、この街も、この家族も、まだ知らないままでいる。
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第5話 終




