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あの日空が裂けた  作者: リンダ


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届かない手紙



『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』


第11話


届かない手紙


十月の半ば、ニューヨークの空は高く澄んでいた。


風は少しずつ冷たさを増し、朝の窓ガラスに触れると、季節が確実に先へ進んでいるのが分かる。マンハッタンの街路樹も、まだらに色を変え始めていた。黄色、薄い橙、まだ緑を残した葉。街全体が、ゆっくりと秋に向かっている。


その日、秋田家の郵便受けには、日本からの封筒が二通入っていた。


ひとつは北海道の祖父母から。

もうひとつは、朝陽と梓宛ての、やや丸みのある字で書かれた薄い封筒だった。


学校から帰った朝陽が先にそれを見つけた。


「日本からだ」


その声に、梓もすぐ反応した。


「誰から?」


朝陽は差出人の名前を見て、少しだけ表情を変えた。


「……美咲」


日本にいた頃の友達だった。


梓の封筒にも、別の友達の名前があった。

たぶん、向こうでは何気ないつもりで送った手紙なのだろう。けれど、その何気なさが、むしろ朝陽には少しだけまぶしかった。


リビングでは北斗が、祖父母からの封筒を待ちきれずに持ち上げている。


「開けていい?」


「みんな揃ってからにしなさい」


さくらが台所から声をかける。


「えー」


「えー、じゃありません」


一平はまだ帰宅前だったが、こういうものは誰か一人で先に開けるより、みんなで囲む方がいいと、さくらは思っていた。


朝陽は自分の封筒を指先でなぞった。

たったそれだけで、日本の空気が少しだけ戻ってくる気がした。


⸻


夕食のあと、食卓の上に封筒が並んだ。


祖父母からの便りには、北海道の紅葉の写真が数枚入っていた。線路沿いの木々が色づき、遠くに小さく列車が写っている。朝の空気まで見えてくるような写真だった。


「おお、これ函館本線やな」


一平が思わず言う。


北斗が乗り出す。


「ほんと?」


「たぶんな。ほら、このカーブの感じ」


「お父さん、そういうのほんとすぐ分かるよね」


朝陽が半分呆れたように言うと、一平は少し得意げに笑った。


「伊達に好きやないからな」


祖父母の手紙には、近所のこと、季節のこと、そして短く「みんな元気にしとるか」と書かれていた。変わらない文面。変わらない優しさ。


そのあと、朝陽と梓はそれぞれ自分宛ての封筒を開けた。


朝陽の友達、美咲からの手紙は、思っていたより長かった。


文化祭のこと。

クラス替えのあとで少し雰囲気が変わったこと。

先生の口癖が相変わらずなこと。

駅前のコンビニが改装されたこと。

一緒に歩いていた通学路のイチョウが、今年もきれいだったこと。


何でもない話ばかりだった。

けれど、その“何でもなさ”が一番こたえる。


自分がそこにいなかった時間が、きちんと積み重なっている。

誰かが笑って、誰かが失敗して、いつも通りの日々が続いている。

そこに朝陽の席は、もうない。


梓も似たような顔で手紙を読んでいた。

何かを言いたそうで、でもすぐには言えない顔だった。


北斗だけが先に祖父母からの便りに反応している。


「おじいちゃん、“北斗はまだ速く走ってるか”って書いてる」


「ちゃんと返事しないとね」


さくらが言う。


「うん。“まだ”じゃなくて“前よりもっと”って書く」


その明るい言い方に、食卓の空気が少しだけほぐれる。


けれど朝陽は、手紙を読み終えたあとも、しばらく何も言えなかった。


⸻


その夜、朝陽は机に向かって返事を書こうとした。


便箋を開く。

ペンを持つ。

けれど、一行目で手が止まる。


元気だよ。

こっちにも慣れてきたよ。

友達もできたよ。


どれも本当だ。

でも、その本当が、何かを隠している気もする。


向こうの話は自然に読めるのに、自分の今をどんな温度で書けばいいのか分からない。楽しそうに書けば、無理をしているような気がする。寂しさを書けば、心配させる気がする。何もなかったみたいに書くのが、一番嘘っぽい。


便箋の上に「美咲へ」とだけ書いて、朝陽はペンを置いた。


ノックもなく、梓がドアを少しだけ開ける。


「起きてる?」


「うん」


梓は遠慮がちに部屋へ入ってきた。手には自分の手紙がまだある。


「返事、書けた?」


朝陽は首を振る。


「全然」


梓もベッドの端に腰を下ろす。


「私も」


しばらく二人は黙った。

それから、梓がぽつりと言う。


「手紙って、届くのにね」


朝陽は顔を上げた。


「うん」


「でも、届いたからって前みたいに戻るわけじゃないんだね」


その言葉は静かだったが、朝陽の胸に深く入った。


届く。

ちゃんと届く。

でも、それで距離が消えるわけではない。

返事を書いても、同じ教室に戻るわけではない。

読んでもらっても、去年の秋に戻るわけではない。


「ねえ」


朝陽が言う。


「私たちさ、日本に帰っても、もう前のままじゃないんだろうね」


梓は少しだけ考えてから答えた。


「たぶんね」


その答えは寂しかったが、同時に正直でもあった。


「でもさ」


梓は続ける。


「前のままじゃなくても、なくなるわけじゃないと思う」


朝陽は何も言わなかった。

梓の言葉は、たぶん正しい。

でも、その正しさは少しだけ痛い。


⸻


翌日、一平は会社で北海道の港の担当者と電話をしていた。


ホタテの出荷時期、農産品の冷蔵便、現地での受け渡し条件。仕事の話は具体的で、次々と処理していかなければならない。数字や日程は、迷っている暇がない分だけ気が楽なこともある。


だが電話を切ったあと、一平は机の上に置いてあった祖父母からの写真を思い出した。


紅葉の線路。

カーブを抜ける列車。

北海道の光。


ああいう景色は、自分の中ではまだ“戻れる場所”のように思っている。

けれど子どもたちにとっては、少しずつ違うのかもしれない。


北斗はまだ、どこへ行っても自分のままでいられる。

だが朝陽と梓はもう違う。

向こうでもこちらでも、それぞれに少しずつ変わっている。


一平はふと、自分が家族に対して「帰る場所はちゃんとある」と言い切れていないことに気づいた。仕事がいつ終わるのか。どのタイミングで帰国するのか。まだ曖昧だ。曖昧なものを、曖昧なままにしてきた。


そのことが、今さら少しだけ胸に残る。


昼休み、弁当を広げながらエミリーが聞いた。


「You look distracted.」

(なんか上の空ね)


「Mail from home.」

(故郷から手紙が来て)


「Good or bad?」

(いい便り? 悪い便り?)


一平は少し考えてから答えた。


「Good. That’s the hard part.」

(いい便りだよ。だからこそ難しい)


エミリーはその意味をすぐに理解したようには見えなかったが、無理に聞き返さなかった。


「Sometimes the good things are the ones that make distance feel real.」

(いいことの方が、かえって距離を本物にする時ってあるのよね)


その言葉に、一平は少し驚いた。


「You know that feeling?」

(分かるのか)


「My grandmother lives three states away. Not another country, but still.」

(祖母が三つ州をまたいだ場所に住んでるの。別の国じゃないけど、それでもね)


距離は距離だ。

単位が違うだけで、失われる日常の質感はどこか似ているのかもしれなかった。


⸻


その日の放課後、朝陽はノアに会った。


中庭へ続く廊下で、彼はトランペットケースの金具を直していた。朝陽は一瞬ためらったが、結局声をかける。


「Hey.」

(ねえ)


「Hey.」

(よう)


ノアは顔を上げて、朝陽の表情を見た瞬間に少しだけ目を細めた。


「You okay?」

(大丈夫か?)


その問いに、朝陽は「大丈夫」とすぐに返せなかった。

昨日の手紙が、まだ心のどこかに残っている。


「I got a letter from Japan.」

(日本から手紙が来たの)


ノアはケースに手をかけたまま黙って聞く。


「From an old friend. It was nice. Normal. That’s kind of the problem.」

(昔の友達から。いい手紙だった。普通の。そこがちょっと問題で)


「Because it reminds you everything kept going without you?」

(自分がいなくても、向こうの日常はそのまま続いてたって思い出すから?)


朝陽は目を瞬いた。


「…Yeah.」

(……うん)


ノアはしばらく何も言わず、それから少しだけ肩をすくめた。


「That sounds rough.」

(それはきついな)


「It is.」

(うん)


「Did you write back?」

(返事は書いたのか?)


「Not yet. I don’t know what version of myself to send.」

(まだ。どの“今の自分”を送ればいいのか分かんなくて)


ノアは少し考えるように視線を落とした。


「Maybe the confused one.」

(迷ってる自分を送ればいいんじゃないか)


朝陽は思わず笑いそうになる。


「That sounds like a terrible letter.」

(それ、ひどい手紙になりそう)


「Maybe. But probably an honest one.」

(かもな。でも、たぶん正直だ)


正直な手紙。

それは少し怖かった。

でも、少しだけ救われる言い方でもあった。


「You always say the annoying thing that makes sense later.」

(あんたって、あとから効いてくる嫌なこと言うよね)


「You’re welcome.」

(どういたしまして)


朝陽は小さく笑った。

全部が軽くなったわけではない。

でも、誰かに受け止めてもらったことで、少しだけ息がしやすくなった。


その帰り道、朝陽はふと思った。

言葉は届く。

けれど、どの言葉を送るかで、その届き方は変わる。

ならば、自分もちゃんと選ばなければいけないのだろう。


⸻


夜、秋田家の食卓にはいつもの温かさがあった。


北斗は祖父母に返す手紙に「僕はまだめっちゃ速いです」と大きな字で書いたと報告し、一平に「“めっちゃ”は英語の手紙に入らんやろ」と笑われていた。梓はまだ返事を書ききれていないが、便箋の最初の三行だけは埋まったらしい。さくらはそれを聞いて「三行でも進んだら立派よ」と言った。


朝陽はまだ返事を書いていない。

けれど今日は、昨日より少しだけ言葉が見えていた。


食後、机に向かい、便箋を開く。


美咲へ。

手紙ありがとう。

こっちの生活には少しずつ慣れてきたよ。

でも、慣れてきたからこそ、不思議な感じもしてる。


そこまで書いて、朝陽は少しだけ手を止めた。

そして、もう一行足した。


前みたいじゃないことも増えたけど、なくなったわけじゃないんだと思う。


それはたぶん、自分に向けて書いた言葉でもあった。


窓の外では、夜のニューヨークが静かに光っている。

遠くでサイレンが鳴り、見えない高さをまた飛行機が通っていく。


届く言葉もある。

届かないものもある。

それでも人は、書いて、話して、送ろうとする。


その行為だけは、たぶん失われない。



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