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二度殺された男の日記

作者: 成神 なるせ
掲載日:2026/05/05


 冒険者組合の遺品倉庫は、今日もまた死んだ冒険者たちの匂いがしている。

 埃と革と、古い汗の混ざった、あの匂いだ。


 レイは三度目のくしゃみをしながら、木箱の山を見上げた。


「マーレンさん、これ全部?全部僕が?」


「全部、お前が」


「冗談ですよね?ねえ、冗談って言ってくださいよ、マーレンさん。僕、まだ二十四ですよ。あと六十年は生きなきゃいけないんですよ。こんなところで埃まみれの遺品に埋もれて死にたくないなあ」


「死んだら埋めてやる。埃ごと」


「優しい!組合一の優しいご老人!」


 老書記のマーレンは返事もせず、入口の扉を閉めた。

 閉まる寸前、「無駄口を叩く時間で一箱片付けろ」という低い声だけが滑り込んでくる。


 レイは舌を出して、それから両手をぱちんと打ち合わせた。


「よーし、やりますか。記録係・レイ、今日も今日とて死人の整理整頓!」


 倉庫の中身は、命を落とした冒険者たちの遺品だった。


 錆びた短剣、ひしゃげた水筒、半分に裂けた地図、誰のものとも知れない髪留め。


 組合では死亡認定が下りた者の遺品を一度倉庫にまとめ、遺族の所在が確認でき次第、順に返却していく。


 所在不明や受け取り保留のものなどは、奥の棚で順番待ちをすることになる。


 調査課記録係のレイの仕事は、遺品の中身と書類を照合し、返せるものから返していくことだった。


 地味だ。

 

 地味だが、レイはこの仕事が嫌いではなかった。それどころか、たぶん、好きだった。


 死んだ人間は喋らない。

 

 けれど、彼らが遺したものはお喋りだ。


 鞘の擦り減り方、地図の折り目、水筒の底に固まった塩の結晶。

 そういう細部から、その人がどう歩き、どう休み、どう笑ったかが見えてくることがある。


 レイにとって、それは骨董の鑑定よりずっと面白い遊びだった。



 幼い頃、母が出かけたまま戻らなかったことがある。


 「事故だ」と父は言った。

 組合は「捜索打ち切り」と書類に判を押した。


 レイは六歳で、判の意味が分からないまま、母の櫛だけを握って眠った。

 あの櫛にはまだ髪が一本絡まっていて、けれど誰もそれを調べようとはしなかった。


 遺されたものが、誰にも掬われないまま流されていく。


 それがレイは、どうにも我慢できない。


「さて、と」


 三つ目の箱を開けたところで、レイは手を止めた。


 革表紙の日記帳が一冊。角がささくれている。表に焼印で名前が押してある。


──ガレス・ロウ。


「……うわ。これ、あのガレス・ロウ?」


 組合に勤めていれば、さすがに名前くらいはみんな知っている。


 三年前、北の未踏峡谷で死亡認定された有名冒険者。

 単独行動を好む腕利きで、寡黙で、地図のない場所に名前を残すのが趣味のような男だった。


 遺体は見つからず、回収されたのは血のついた外套と折れた鉤縄の柄だけ。

 それで「死亡」と判が押された。


 レイは日記を開いた。


 最初の数ページは、几帳面な記録文だった。日付、天候、現在地、食糧の残量。


「東の谷、霧深し。蔓に苔。歩幅五百」


 詩情のかけらもない、まるで台帳のような書きぶり。

 

 これがガレス・ロウか、と思う。


 なるほど、寡黙そうだ。


 ぱらぱらと進めていって、レイの指が止まった。


 日付。


──三年前の、秋。死亡認定の、二週間後。


「あれ……?」


 そこに、まだ書き込みがある。


「霧晴れず。膝の腫れ引かず。食糧は四日分。彼は私より先にここへ来ていた」


 レイはもう一度日付を見た。間違いない。死亡認定の、後だ。


 ページをめくる。さらに、その先がある。何枚も、何枚も。


 最後のページの少し手前に、こう書かれていた。

 インクは少し滲んで、けれど、はっきりと読める。


「まだ私は死んでいない」


 レイは、しばらく息をするのを忘れた。


 それから、思いきり吸って、思いきり吐き出した。


「マーレンさあああん!大変!大変ですよマーレンさん!ガレス・ロウ、生きてた可能性ありますよこれ!」


 扉の向こうから、「うるさい」という返事だけが返ってきた。



「で、どうしてお前がそんなに張り切ってるんだ」


「だってマーレンさん、ロマンじゃないですか。死んだはずの男が、認定の後も生きていた。日記つけながら。これは生存記録ですよ。歴史的発見ですよ」


「歴史的なのは結構だが、まず筆跡を確認しろ」


 マーレンに言われて、レイはガレスの過去の報告書を引っ張り出してきた。


 冒険者は依頼ごとに簡単な報告を組合に提出する義務がある。

 ガレスのものは生前の三年分、几帳面に綴じられていた。


 並べて見比べる。同じだ。同じ字だ。

 少なくとも、レイの目には。


「うん、ガレス・ロウ本人ですね、これ」


「即断するな」


「ええー、慎重にいきましょうよ、ってこと?」


「即断するなと言っている」


 マーレンはルーペを取り出し、しばらく日記と報告書を見比べていた。


 それから、ふむ、とも、ふん、ともつかない音を喉で鳴らした。


「……本人だろうな。たぶん」


「たぶんって何ですか、マーレンさん」


「たぶんはたぶんだ」



 レイは日記を抱えて、組合の資料室にこもった。

 報告書、当時の地図、同行者リスト、捜索隊の記録。すべて並べて、日記と照合する。


 照合すればするほど、ガレスは、生きていた。


 日記には、捜索隊が踏み込まなかった枝谷の地形が、正確に記されていた。


 崖の中腹に張り出した岩棚。その下にある、木の洞のような窪み。崖肌に走る斜めの亀裂。

 これは現地に行った者でなければ書けない。


 さらに、未公開の発見物——たとえば古い祭祀跡らしき石組みの記述まである。

 これは捜索隊が三年前に、公にしないことを決めた情報で、組合の中でも一部の者しか知らない。


 捏造ではない。ガレスは、確かに、そこにいた。


「いたんだよなあ……」


 レイは机に突っ伏した。日記の革の匂いが鼻先に来る。古い、けれど、生きている匂い。


 ページをいじる指が、あるところで止まった。


「彼は私より先にここへ来ていた」


──彼、とは、誰だ。


 ガレスは単独行動のはずだった。

 同行者は、出発後に途中の村で別れたとされている。


 ディムという名の、補佐役兼物資調達役。


 日記には、その「ディム」という名前は一度も出てこない。

 けれど「彼」という影が、何度か、滲むように現れる。


「彼の足音は私より軽い」


「彼は焚火の位置をいつも風下に置きたがる」


「彼を信じるべきか、まだ分からない」


 レイは、それが不穏な予兆に見えた。


 ガレスは、誰かに追われていたのか。誰かを警戒していたのか。



 その夜、レイは資料室の隅で、半分眠りながら日記をめくっていた。


 マーレンが通りすがりに顔を覗かせて、ちらりと日記を見た。


「そういえば、この日記を組合に持ち込んだのは、ディムだったな」


 マーレンは机の横に寄ってきて、ぽつぽつと言葉を零した。


「別れた村の宿に、ガレスの荷の一部が置き忘れてあった、と。本人に渡せないなら組合で預かってほしい、と置いていった。遺族の手元には、まだ届いていなかったはずだ。書類上、正式な遺品扱いにする手順が抜けていた。あれもあのときの、急ぎすぎた仕事のひとつだ」


 ページをめくるマーレンの老いた指先から、少しだけ悔やむような気配がした。


「……ガレスは、こんな比喩を使う男だったかな」


「え?」


「『霧が舌のように這う』。あいつ、こんな書き方したか」


 レイは顔を上げた。

 マーレンはもうそっぽを向いて、廊下の奥に消えていった。


「『霧が舌のように這う』……」


 レイは、その一文に小さく印をつけた。



 ディムを見つけるのは、思ったより簡単だった。


 港町の外れ、薬草の卸を営んでいる。

 店先に立つと、瘦せた、目元の落ち着いた男が顔を上げた。

 三十代後半か、四十か。物腰は穏やかで、声は低く、よく通る。


 「ガレス・ロウのことで」と切り出すと、ディムは一瞬だけ瞬きをして、それから、静かに頷いた。


「ええ。覚えていますよ。三年前、途中の村で別れました。私は薬草採りの依頼が入って、谷には付き合えなかった」


「別れた後、ガレスさんから連絡は?」


「ありません。便りもなく、訃報だけが届きました」


 レイは頷きながら、ディムの手元を見ていた。

 指先がささくれている。爪は短く切り揃えられて、清潔だ。

 冒険者上がりの手だ。


「ガレスさんって、どんな人でした?」


「真面目で几帳面な人でした」


 ディムは少し考えて、それから、ふっと目を細めた。


「焚火を、いつも風下に置きたがる。煙が顔にかからないように、と。私はその逆で、風上に置きたがる。毎回それで揉めました」


 レイの背中を、すうっと冷たいものが通った。


——焚火の位置を、彼は風下に置きたがる。


 日記の一文だ。


 ガレス本人が書いたなら、自分の癖を「彼は」と書くだろうか。


 レイは平然とした顔で、もういくつか質問をした。

 ディムは丁寧に答えた。


 ガレスは寡黙だが冗談が好きだった、酒は弱かった、母親思いだった、雨の日は決まって機嫌が悪かった。


──詳しすぎる。


 別れたはずの途中までの同行者が、これほど詳しいだろうか。

 親しかったから、と言われればそれまでだ。

 

 けれど、レイの胸の中で、何かが小さく軋んでいた。


 帰り際、ディムが穏やかに言った。


「日記、見つかったそうですね」


「あ、はい。誰からお聞きに?」


「組合の知り合いから。……あの人の言葉が残っていたなら、私も、少しだけ、救われる気がします」


 その目は、どこか遠くを見ていた。


 レイは、頭を下げて店を出た。

 通りに出てから、ふう、と息を吐いた。


──あの人の言葉。


 そう言ったときのディムの目は、優しかった。なんだか、優しすぎた。



 ガレスの妹リネアは、海に近い小さな家に住んでいた。


 兄の話を、と切り出すと、彼女は静かに頷いて、湯気の立つ茶を出してくれた。


 レイは、迷った末に、日記そのものは鞄から出さなかった。

 代わりに、紙に書き写してきたいくつかの抜粋だけを、机に並べた。


「これ、遺品倉庫の中から見つかった日記なんです。お兄さんのものかどうか、いま組合で照合してて」


 半分は本当のことだった。

 遺品の正式な引き渡しには、調査完了の判が要る。

 それは事実だ。


 けれど、レイがいま現物を出さなかったのは、もう半分の理由のためだった。


 中身を、信じきれなくなっていた。


 筆跡はガレスのものだ。

 地形の記述も、未公開の発見物も、本人でなければ書けないはずのものが並んでいる。


 けれど、マーレンが呟いた「こんな比喩を使う男だったかな」が、レイの耳の奥にずっと残っていた。


 確証が持てないものを、「お兄さんの最後の声です」と、丸ごと差し出すわけにはいかない。


 妹の知っている兄と、日記に書かれた兄がずれていたとき、それを正してくれるのはリネアだけだ。


 だからまず、抜粋だけを見せて、彼女の反応を頼りにしたかった。


「お兄さんが書きそうな言い方かどうか、見ていただけますか?」


 リネアは抜粋を読み上げた。眉が、少しずつ寄っていった。


「……兄は、母のことを『おふくろ』、とは呼びませんでした」


「え」


「『母さん』と。一度も、おふくろなんて、言ったことない。私たち、そういう家じゃなかったんです」


 レイは手元の控えを見直した。

 確かに中盤に、「おふくろの作る麦粥が恋しい」という一文がある。

 前後の文体に比べて、妙に砕けている。妙に、人懐っこい。


「あと、兄の利き手は左でした」


「左!?」


「ええ。よく『面倒な体だ』と笑っていました」


 レイは、抜粋の余白に小さく印をつけた。

 ガレスは岩を登っている最中に、左手を負傷したと中盤にある。

 「左手の指が二本、思うように曲がらない」と。


 けれどそのあとも、文字の傾きも線の癖も筆圧も、何ひとつ変わっていなかった。


「日記、本物なんでしょうか」


「……今日のお話で、少し、自信がなくなりました。もう少し調べさせてください」


 レイは頭を下げた。

 嘘をつかずとも、真実も伝えていない会話は、口が開きにくい。


「ちゃんと、お返しします。中身ごと、ちゃんと、お渡しできるかたちで」


 リネアは、少しだけ笑った。


「お願いします。兄は口下手な人でしたから、書いたものくらいは、ちゃんと残してあげたくて」


 レイは、頷いた。喉の奥が、少しだけ、痛かった。



 組合に戻って、レイはマーレンに資料の閲覧を頼んだ。

 三年前、ガレスの死亡認定時に提出された、すべての書類。


 マーレンはひとつだけ、ぼそっと言った。


「あのときの認定、私は、少し急ぎすぎた気がしている」


「どうしてです?」


「ディムの証言が、妙に整っていた。整いすぎていた、と言うべきか。冒険者が同行者と途中で別れる日の天候も、別れた地点も、ディムは全部紙に書いてきた。覚えてるもんなんだな、と聞いたら、覚えていますとも、と笑った。あの笑い方が、いまも、ときどき思い出される」


 レイは頷いた。



 夜、資料室で日記を最初から読み返した。今度は、文体の傾きを見るために。


 最初の三十ページ。簡潔で、無駄がなく、台帳のような記録文。


 中盤、四十ページから先。少しずつ、比喩が増える。

 「霧が舌のように這う」「夜が膝の上に座る」。感傷が滲んできた。


 そして終盤、書き手は孤独に怯え、誰かに追われる恐怖を訴え、けれど時折、その恐怖の文の中に、不思議な熱のようなものが混ざる。


 追われる者の震えではなく、追い詰めた者の興奮のような、感覚。



──彼は崖の縁に立っていた。


 その一文を見つけたとき、レイは、自分の背中の毛が逆立つのを感じた。


 崖の縁に立っていた、彼。

 それを、書いている、私。


 書き手は、自分の姿を、どこから見て書いているのか。


 レイは日記を閉じた。

 閉じてから、もう一度、開いた。


 最終ページの少し手前まで、ガレスは追い詰められていた。


 水も食糧も尽き、怪我は深く、文字は乱れている。

 

 「あの日、崖際で振り返らなければ」という後悔めいた一文がある。

 「彼は言った、仕方がなかったと」という、奇妙な伝聞のような一文もある。


 そして、最後のページ。


 レイは、ずっとその一枚を、開けないでいた。


「死者の最後の声を、僕が、勝手にめくっていいのかなあ」


 そんなことを呟きながら、ランプの炎を細める。

 揺れる灯りの下で、革表紙の日記が、ぽつんと机の上に置かれている。


 レイは、息を吸って、最後のページを開いた。




 そのページは、これまでとは違っていた。


 筆跡は同じだった。インクの色も、紙の質も、何も変わっていなかった。

 

 けれど、書かれている文の温度が、全く違った。


「彼の最期は、霧が舌のように這う日だった」


 レイは、瞬きを止めた。


「彼は崖の縁で、私の名を呼んだ。振り返ったその顔を、私はいまでも夜ごと膝の上に座らせている。私はもう何日も食べていなかった。彼の荷には、まだ二日分の干肉が眠っていた。私は彼の背を、押した。一度で済んだ。声はほとんど上がらず、ただ落ちる音だけが、谷を長く長く撫でていった。


私は彼の荷を背負い、彼の本を拾った。最初は燃やすつもりだった。けれど、燃やせなかった。火にくべる手前で、ページが私を見上げた気がしたのだ。だから私は、彼の続きを書いた。そう書けば、彼はまだ歩いていることになると思った。歩いている彼の足跡なら、私の手は汚れていないことになると思った。


書くうちに、私は彼の声を覚えた。彼の癖を覚えた。彼がどう怯え、どう願い、どう旅をしたか、私が一番よく知っているような気がしてきた。私は彼の代わりに彼を悼み、彼の代わりに彼を語った。それは赦しの形をした、もうひとつの旅のつもりだった。


けれど、ここまで書いて、ようやく分かる。霧は晴れない。夜は膝から下りない。私は彼を二度殺している。一度は、崖で。もう一度は、このページで、彼の声を私の舌に飼い慣らしたときに。


私の名は、ディム。


彼の名を、返す」


 そこで、文は終わっていた。


 レイは、しばらく、呼吸の仕方を忘れていた。


 ランプの炎が、机の上でちりちりと音を立てた。


 それから、ゆっくりと、最初のページに戻った。

 今度は、まったく違う目で、それを読んだ。



「霧が舌のように這う」

──ガレスが書かない比喩。


「おふくろの作る麦粥」

──ガレスが言わない呼び方。


「彼は焚火の位置をいつも風下に取りたがる」

──自分の癖を「彼」と書いた、誰か。


「左手の指が二本、思うように曲がらない」

──左利きだと知らなかった、誰か。


「彼は崖の縁に立っていた」

──その後ろから、近づいた、誰か。


 すべての文が、読み直された瞬間に、別の意味を持ち始めた。

 

 これは、生存記録ではなかった。これは、追跡の記録ですらなかった。


 これは、犯人が、被害者の声を盗み、その名で生き直そうとした、偽装でなりすましだった。

 

 殺した手で書きながら、その手を汚れていないことにしようとした、長い言い逃れだった。


 レイは、長いこと、机に肘をついて、額を手の甲に押し当てていた。


「……ひどいなあ」


 声が、少し、掠れた。


「ひどいよ、これ。本当に、ひどい」


 ガレスは、もう、何も言えない。

 崖の下で、三年、何も言えないままでいる。


 その間、彼の名前と、彼の文体と、彼の旅と、彼の恐怖と、彼の死までが、別の人間の手で綴り直されていた。


 彼の最期の声だと思っていたものは、彼を殺した男が、彼の口を借りて呟き続けた、長い独り言だった。


「こんなの……あんまりだ」


 喉から搾りだした声が、湿っぽい空気の中で震えた。


「死んでまで、あなたの声を、奪われなきゃいけないなんて」


 レイは、いつも思っていた。死者は喋らないが、遺されたものが喋る、と。


 けれど、遺されたものは、書き換えられる。書き換えた者の声で、死者は、二度目の死を迎える。


 レイは、ようやく顔を上げた。


「……うん。決めた」


 呟きは、思ったより、しっかりしていた。



 翌朝、レイは組合の応接室で、ディムと向かい合っていた。


 ディムは、いつもの穏やかな顔で座っていた。茶も断らなかった。礼も丁寧だった。


 レイは、日記を机の上に置いた。


「最後のページ、読みました」


 ディムは、少しだけ、目を細めた。それから、ゆっくりと頷いた。


「そうですか」


「いくつか、確認したいことがあります」


 レイは、淡々と切り出した。記録係として、事実を整理する作業だった。


「あなたは先日、ガレスさんが『焚火を風下に置きたがる』とおっしゃいました。日記には『彼は焚火の位置をいつも風下に置きたがる』とあります。書き手が、自分の癖を『彼』とは書きません」


 ディムの瞬きが、わずかに早くなった。


「それから、ガレスさんは、左利きでした。日記の中盤に『左手の指が二本、思うように曲がらない』とありますが、その後の文字に乱れがない。利き手の怪我で、筆跡は変わるはずです」


 レイは、日記を開かないまま、指先でページをめくる仕草をした。


「あと、ガレスさんは母親のことを『おふくろ』とは呼びませんでした。妹さんに確認済みです」


「……それで?」


 ディムの声に、かすかな苛立ちが混じった。


「これらの矛盾から、日記の途中から、書き手が変わっていることが分かります。そしてなにより、最後のページには、あなた自身の自白が書かれている」


 レイは、そこで初めて日記を開いた。

 

 最後のページを。


「『私の名は、ディム』と」


 ディムは、しばらく黙っていた。

 窓の外で、海鳥が一羽、鳴いた。


「……書いているうちに」


 ディムはようやくまともに口を開いた。その声は、ひどく穏やかだった。


「ガレスの気持ちが、分かるようになった気がしていました。彼の代わりに旅をして、彼の代わりに怯えて、彼の代わりに祈っていた。そう思えば、私は、彼を殺していない、ということにできる気がしていた。彼の声を残してやれたのだから、私は彼に赦されているのだと」


「赦される?んなわけないでしょうに」


 レイの口から、ふっと冷たい息が漏れた。


「あなたはガレスさんをよく知っているつもりで、この日記を書いた。でも、母親の呼び方も、利き手も、文体の癖も、あなたは間違えた。あなたが『彼の代わりに』やったのは、本物のガレスさんを消して、あなたの都合のいい『ガレス・ロウ』を作り上げることだけです」


 ディムの顔から、あの穏やかな仮面が剥がれ落ちていく。

 目は泳ぎ、ささくれた指先が微かに震えていた。


「あなたは彼の声を奪って、自分が安心するために使った。それは赦しじゃない。二度目の殺人です。知っていたでしょう?」


 応接室に、重い沈黙が落ちた。


 ディムの中で美しく整えられていた悲劇が、ただの身勝手な言い逃れに過ぎなかったことを、突きつけられた顔をしていた。


 レイは静かに、けれどはっきりと告げた。


「自首、してくれますか」


「ええ、ええ……知っていましたよ、本当は。私が、彼を二度も殺したことを。私が、彼の代わりになんて、なれないことも」


 ディムは、机の上の日記に、すがるように指先を伸ばした。

 けれどレイは、それを、すっと自分の手元に引き寄せた。


「これは、あなたのものじゃないので」


 ディムは、笑った。初めて、少しだけ、泣きそうな顔で笑った。



 ディムが衛兵に連れて行かれたあと、レイは資料室に戻った。


 机の上には、日記と、小刀と、ランプ。


 レイは、最後のページを、慎重に切り離した。

 革綴じの糸を一目だけ解き、ディムの自白の一枚を抜き取って、別の封筒に収める。


 表に「ガレス・ロウ事件 被疑者ディム自筆告白文 筆跡所見添付」と書いた。

 捜査側にとっては、これが何よりの一次資料になる。


 ディムの口頭の自白だけでは、三年前の崖での出来事を裏づけきれない。

 本人の手で書かれた、犯行の詳細を含む文書──それがあるかどうかは、量刑にも関わってくるはずだった。


 それに、とレイは思った。これをそのままリネアに渡すことは、できない。


 「兄を殺したのはこの男です」と告げるのと、「兄が殺された瞬間の様子を、犯人が書いた文章です」と差し出すのは、まったく違う。


 後者は、ディムが三年かけて磨いた、人を傷つけるための刃でしかない。


 突かれて、声も上げず、長く落ちていった──そんな描写を、妹に読ませていいわけがない。


 死者の声を受け止めるか選ぶ権利を遺族に返すというのと、犯人の凶器を遺族に手渡すというのは、違う話だ。


 切り離した一枚は、捜査の証拠として組合経由で衛兵に提出する。原本そのものを。

 あれは、もう、日記の一部ではない。

 あれは、ディムが残した、ディム自身の文書だ。


 ガレスの本に綴じ込まれていたこと自体が、間違いだった。


 残りの日記は、革表紙ごと、レイの手元にある。最後のページが抜けたぶん、わずかに薄くなった。


 レイは、ぎゅっと目を瞑って、ふうっと息を吐き出した。

 そして、シャツの袖をまくった。


「よーし、ここからは、記録係の腕の見せどころってやつだな!」


 レイは、もう一度、最初から最後まで読み直した。

 それから、別のノートを開いて、ペンを取った。


 筆跡所見、文体の変遷、癖の誤り、家族の呼び方、利き手と筆圧、視点の不可能性。


 どこからどこまでがガレス本人の筆と思われるか。

 どこから先は、別人の筆が混ざっている可能性が高いか。

 見分けがつかない箇所も含めて、見分けがつかないと正直に書いた。


 ディムが自首したこと、最後の自白文が衛兵に提出されていることは、別紙にまとめて添えた。


 本文に何が書かれていたかは、書かなかった。

 「事件の詳細を含む犯行声明であり、被疑者本人の文書として捜査機関に提出済み」とだけ記した。


 読みたければ、後日、正式な手続きで衛兵側に閲覧を申し出ることはできる。

 けれどそれは、リネアが自分の意思で扉を叩いて入っていく、彼女自身の選択になる。


 レイが、いきなり目の前に置いていいものではない。


 これは付箋だ、と思った。

 日記そのものは、ガレスの遺品として、リネアに返す。

 そこに、自分の調査記録を一冊、添える。


「お兄さんの筆と思われるのはここまでです。ここから先は、たぶん、別の人の筆です。そう判断した根拠は、これとこれです」と。


 選ぶのは、自分ではない。リネアだ。


 兄の言葉として読むか、犯人の混じった言葉として読むか、あるいは読まずにしまっておくか。

 それは、遺族が決めることだ。


 レイにできるのは、見極めた根拠を正直に並べて、見極めきれなかったことは見極めきれなかったと書くこと。

 そして、彼女にとって毒にしかならない一枚を、そこから外しておくこと。

 それだけだ。


 封をして、「ガレス・ロウ氏 遺品。調査記録同梱」と表に書いた。



 リネアの家を、もう一度訪ねた。


 机の上に、日記と、調査記録のノートを並べた。

 レイは、自分でも驚くくらい、ぽつぽつとしか喋れなかった。


 いつものお喋りはどこかへ行ってしまって、ただ、事実だけを、順番に置いていった。


 兄を殺したのはディムであること。ディムは自首したこと。

 日記の途中から、書き手が兄ではなくなっていること。けれどどこからかを、自分は完全には特定しきれないこと。

 最後のページには犯人本人の自白文があり、それは事件の証拠として衛兵側に提出してきたこと。

 読みたければ正式な手続きで閲覧できるが、無理に読む必要はないと、自分は思っていること。


 リネアは、長いこと、何も言わなかった。

 指先で、表紙の焼印をなぞっていた。三年分の、思いが詰まっているであろう仕草で。


「……読まないと、分かりませんね」


 と、彼女は言った。


「兄の言葉と、そうじゃない言葉と。たぶん、私にも、全部は分からない」


「すみません。僕も、見分けきれませんでした」


「いいえ」


 リネアは、少しだけ笑った。


「判断できないと書いてくださって、ありがとうございます。断言されていたら、たぶん、私、それを信じすぎてしまうから」


 それから、少し迷うように、付け加えた。


「最後のページは、いま、読まないでおきます。読みたくなったら、自分で衛兵のところに行きます。そう決められるようにしてくださって、助かりました」


 レイは、深く頭を下げた。下げたまま、しばらく上げられなかった。喉が苦い。



 倉庫の片付けは、まだ終わっていない。


 レイは今日も埃まみれで、木箱の山を見上げて、三度くしゃみをして、それからマーレンに「冗談ですよね」と泣きついて、「埋めてやる」と返されている。


 組合の廊下では、相変わらず、レイの声がいちばんよく響く。


 日記は、もう手元にはない。リネアの家の、たぶん兄の写真の近くか、寝室の机の引き出しか、どこかに、静かに置かれているはずだ。


 読まれているのか、読まれていないのか、どこまで読まれて、どこから先は閉じられているのか、レイは知らない。

 知らなくていい、と思っている。


 切り離した最後の一枚は、衛兵詰所の証拠保管庫の中で、きちんと番号を振られて眠っている。


 あれはあの場所にあるべきもので、ガレスの日記の最後に綴じ込まれているべきものではなかった。


 日記が一枚分薄くなったぶん、ガレスは、自分の声を取り戻したのだと思いたかった。


 死者の声を、生者がどう扱うか、という選択にかかっている気がした。


 記録は真実を残すこともあれば、真実を覆い隠すこともある。


 レイにできるのは、見分けきれないものを見分けきれないと書くことだけだ。

 死者にしてやれる礼儀なんて、その程度の、静かな仕事なのだと思えた。



 レイは雑巾を肩にかけて、扉の向こうに声を張り上げる。


「マーレンさあああん!お茶!お茶くださあい!働きすぎて死にそうなんですけど!」


「死んだら埋めてやる」


「わあ、優しーーい!さすが組合一の!」


廊下に笑い声が響く。


 遺品倉庫の隅で、まだ開けられていない木箱たちは、今日も誰かの手を、静かに待っている。

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