ここが、はじまり
この部屋には、名前がない。
けれど、私にとっては、世界でいちばん静かで、やさしい場所。
壁には絵を飾った。植物を一つ。古道具屋で見つけた、少しだけ歪んだ机。
窓から見える空は、朝と昼と夕方で色を変える。
人がなんと言おうと、私はここが好きだ。
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「社会に戻る」という言葉が、ずっと苦しかった。
戻る先が、ない気がしたから。
誰かの期待とか、「前みたいに」とか、
それらの全部が、重くのしかかってきた。
心が壊れて、もう動けなくなったとき、
私は「元に戻る」ことだけを目指していた。
でも、それができなければ、私はずっと「失敗」なんだと思っていた。
カウンセラーの先生が、ある日ふとこう言った。
「戻らなくてもいいんですよ。あなたの“今”を、居場所にしていいんです」
最初は意味がわからなかった。
けれど、繰り返し考えるうちに、少しずつ染みこんできた。
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それから私は、少しずつ「今の私」でいられる場所をつくっていった。
毎朝、コーヒーを入れる。
午前中は、好きな本をめくる。
お昼は、音楽をかけながらごはんを作る。
午後は散歩に出たり、ノートに思ったことを書く。
誰の役にも立たない、何の成果にもならない時間。
でも、私はそれを「生きてる時間」と呼びたい。
気づいたら、息がしやすくなっていた。
泣きたくなったときには泣いて、眠くなったら眠る。
そんなふうに過ごしているうちに、「私を責める声」が小さくなっていた。
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ある日、昔の同僚からメッセージが来た。
「今、何してる?」
私は少し考えてから、こう返した。
「“今の私”で生きてるよ。まだ何者でもないけれど、居場所を作ってる途中」
送信ボタンを押したあと、私は少し笑った。
ああ、本当にそう思ってるんだ、と自分で驚いた。
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ここは「戻った場所」じゃない。
でも、「ちゃんと進んできた場所」だ。
だから私は、胸を張って言いたい。
――ここが、私の、はじまり。