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【スタッフオンリー】と書かれた扉をくぐり、様子を伺っていたらしい有人に、大丈夫? と声を掛けられた裕は、大丈夫です。と呟いてはトイレの場所だけを教えてもらい、心配そうに付いてこようとする有人を笑顔でいなしては、店内のトイレとは全く違う小汚ないスタッフ専用のトイレへと向かった。
異臭を放ち、床がなぜかビショビショに濡れているその本当に汚いトイレ。
その個室に入り、しかしもはや汚いなんて言ってる場合ではない裕はひび割れたタイルに膝を付き大便器の縁に手を掛けて、ゲボゲボと胃の中の物を吐き出した。
つん、と鼻を刺す胃液と、じわじわと滲む視界。
苦しさにカハッと息を吐きながら、まじでもう絶対にホストなんてやらん。と恨み言を溢しつつ、裕は収まらない吐き気と数時間、格闘し続けた。
──それからどれくらい経ったのだろうか。
時間の感覚なんてほぼないまま、……ああでも、あの蓮って奴は優しかったな。なんて先ほどの蓮の掌の温かさや声を思い出した裕が『蛍の光』の音をぐったりと項垂れたまま聞いていれば、
「わー、けっこうキテるね」
なんて後ろから声がした。
ズキズキと痛む頭と、未だ絶えず迫る吐き気。
それに顔面蒼白のまま裕が後ろを振り返れば、今しがた思い出していた男こと、蓮が居て。
鍵なんて閉めていなかったせいで情けない姿をばっちり見られた裕は、最悪。と心の中で呟きつつも、気持ち悪さのせいで声のひとつも出せないまま、蓮を見る。
そんな裕の涙で濡れる瞳を見返しては、うん、やっぱり綺麗な目だなぁ。なんて場違いな事を心の中で思いつつ、蓮はミネラルウォーター片手に裕の横に座り込んでは背中を擦った。
汚く狭い個室に踞る、男二人。
というなんとも気持ちの悪い絵面が広がり、……なんだこれ。と裕はやるせなさでいっぱいになりつつも、わざわざ様子を見に来てくれた蓮のその優しさに生理的ではない涙を瞳に浮かべ、ぐりぐりと便座に頭を押し付けた。
「しんどいね。水、飲める?」
背中を撫でながら、優しく声を掛けてくる蓮。
その問いに一度こくんと頷いた裕に、よしよし。とまたしても優しく背中を撫でた蓮が、キャップを外しミネラルウォーターを裕の唇に押しあて、ゆっくりと流し込んでくる。
それを大人しく受け入れ、カラカラに乾き、それでも胃液のせいでねばつく口の中が徐々に潤ってはじわりと水が染み込んでゆく感覚に、んくっ。と喉を鳴らしゆっくりと飲んでいく裕。
それからまた、
「まだ吐けそう?」
と問いかけてくる蓮に、気持ち悪さがずっと胸に蔓延ったまま、それでも吐けない。とふるふる首を横に振った裕だったが、
「んー、でも一旦水飲んで胃の中全部出さないとしんどいままだよ?」
と少しだけ何か思案する素振りを見せた蓮が小さく、
「ごめんね」
なんていきなり謝りを入れてくる。
その言葉に、いや、謝るのはどう考えても俺の方だろ。と思ったその瞬間、ぐいっと顎を持たれ、裕はへっと間抜けな声を出した。
薄く開いた裕の口の中に、突然捩じ込まれる、指。
「う"っ!?」
その異物感に驚いた喉がひくつき、思わず閉じようとした口をそうはさせないとばかりにガバッと二本の指で押し開かせてくる蓮の、長い指。
それがぐりっと喉奥を抉っては口蓋垂の奥の奥まで侵入してくるので、裕は脳まで圧迫されるような息苦しさにヒュッヒュッと息を乱し、生理的な涙を堪らずボロボロと流しながら、迫り来る吐き気に身を任せ思い切り嘔吐してしまった。
「ぅ、うぅ、ゲホッ、ぅぇ、ゲホゲホッ」
バシャバシャ。と便器の中で水飛沫が跳ね、それに羞恥やら情けなさやらで目眩さえしてしまいそうななか、それでも初めて会った人間の口の中に手を突っ込んできた蓮は動じず、
「よしよし、これでもう大丈夫だからね。少ししたら良くなると思うから。頑張ったね」
なんて裕の体を支えたまま、もう片方の手で汗で額に張りついた前髪を労るよう梳いてくる。
そんな態度に朦朧としだした意識のまま、……こいつ頭おかしい。と裕はぐったりと項垂れ、その大きな体に寄りかかったまま、涙で滲む視界で蓮をぼんやりと見た。
初めて来た場所で、初めて会ったやつに介抱されて、こんな汚い場所で泣きながら吐く。という状況に、裕が、最悪すぎる。とまたしても涙ぐめば、
「大丈夫大丈夫。良くある事だから」
だなんて何のフォローにもなっていない言葉を言ってくる蓮。
その白い歯がやけに脳裏にちらついたまま、緊張や疲労や酔いが限界に達した裕は、ぷつりとそのまま意識を飛ばしてしまった。
しかし意識を手放すその刹那、またしても幼子にやるような手付きで前髪を優しく梳かれた気がした。