絵
「慣れない紙筒がランドセルに刺さっているね。
それはなんだい?」
「授業で描いた絵が帰って来たんだ。」
「見せて貰えたら嬉しいな。」
「恥ずかしいから嫌だよ。」
「恥ずかしがる事なんて無いさ。
有名な画家のピカソって居るだろう?
彼は物心ついた頃から絵がとても上手だったらしい。
だけど彼は子供のが描く様な視点が安定しない、原始的な絵に憧れがあったらしいんだ。
コンプレックスだったんだろうね。
殆どの人類が経て来た経験をスキップして、結果にだけ辿り着けることが出来るほどの天才は、凡人と比べた時に逆に一つ、何かが欠けているとも言えるね。
有り余るという事は、足りないのと同じらしいよ。
過ぎたるは及ばざるが如しってね。
こんな話がある。」
ある寺がある日ボヤになった。
客間の火鉢の火が飛んだとかなんとか。
幸いすぐに気がついて、寺は焦げる程度で建物に被害は殆ど無かったのが不幸中の幸いだった。
しかし一つだけ、不思議なことが起こった。
そのある寺の客の来ない茶室には、一枚の幽霊画が飾られていたのだけれど、火事の日を境に白紙になってしまった。
その掛け軸を気に入っていた寺の住職は悲しんで、それを色々な人に、こんな幽霊をどこかで見なかったかなんて野良猫でも探す様に聞いて回ったせいで、話が広がってしまって見物人が絶え間なく訪れる様になった。
何も描いていない白紙の掛け軸を見物して何が面白いのだろうかと思っていた住職であったが、見物客を観察しているうちにわかって来た。
白紙の何も描いていない物を前にして、想像上の幽霊を見ている気になって、各々が勝手に分かった様なことを言って満足していたのだ。
曰く、火が掛け軸に燃え移るのを嫌ったのだろうと。
曰く、火事を見て生前をおもいだしたのだろうと。
曰く、町の庄屋の若旦那に惚れられていたのだと。
曰く、曰く、曰く。
噂が噂を呼び、尾鰭どころか角やら牙やらが生えて来た頃、住職の夢枕に幽霊が現れた。
町の人達が私を探しまわっていて困っているので、掛軸に帰りたい。
何故死んでまでこんな、罪人の様に逃げ回らなければならないのか。
よよよ、と泣く幽霊だが、住職は正直帰って来て欲しくは無かった。
コイツが居た時は寺に誰も見向きもしなかったが、居なくなった途端に大勢がやってきて、檀家も増えた。
今更掛軸に帰られると困るというものだ。
しかしながらあまりにも悲しそうに泣く女が気の毒になり、受け入れた次の日の朝、掛け軸には本当に女が帰って来ており、心なしか表情も明るくなっていた。
とはいえ元々が幽霊画なので、本当に心なしか程度だった様だがね。
住職はもちろんそれも辺りに言って周った。
元々気に入っていた絵だから、あんなに熱心に白紙を覗いていた人達に自慢したくなったのだ。
「でもね、一度見にくる客はいても、すぐに殆ど誰も見に来ない状況に戻ったんだって。
変な話だけれど、人は完璧な物を求めているわけでは無いんだね。
というよりも、完璧というものはかなり個人的な物で、求めはするけれど提示されると拒絶するのだろうね。
理想から遠いより理想から少しだけ違う方が嫌なんだ。
サモトラケのニケといい、ミロのビーナスといい、欠けて完成するものもあるってことさ。
だから上手い下手は気にしなくて良いんだよ。
僕は君の感性で描いた絵を見てみたいのさ。」
少年はランドセルから紙筒を取り出して、僕に渡して来た。
僕は初めから気がつくべきだったのだ。
自分の子供時代を振り返れば、簡単なことだったのに。
自分が描いた絵が、丁寧にも紙筒に入って返って来たことなんて無いのだから。
蓋をポン、と開けると、中には丸められた紙が2枚入っていた。
一枚は彼の絵、そしてもう一枚はその絵へと与えられた賞状であった。
「…文部科学大臣賞…!」
うっま!
それが第一印象であるその絵は、完璧であった。
驚愕して目を見開く僕に、少年が一言呟いた。
「恥ずかしい。
俺の絵なんて、見たままを描いただけで、みんなみたいなのと違う。」
釈迦に説法、楳図かずおに手の描き方の注文をした編集者がいたらしいが、そのエピソードを聞いて僕はそんな人にはならない様にと心がけて生きて来た。
ピカソのエピソードなんて話さなければ良かった。
僕は苦い顔で俯く少年の頭を撫でたが、手は震えていた。
…恥ずかしい。
恐らく僕の顔は、オディロン・ルドンの堕天使の様な顔になっていた事だろう。