或る日のデストルドー 裏
ママから僕の生まれた時の話を聞いたことがある。
普段はあんまり顔に感情が出ないパパが、その日は目に見えて浮かれていたんだって。
それで、ペットボトルのキャップより少し多いくらいのお酒でベロンベロンになって、起きたら出産が終わっていたんだとか。
「パパ…。」
正直パパはそう言う所がある。
カッコいいし、うちはお金持ちだから、すごいパパなんだと思うけれど、なんか、そう言う所がある。
「ママは怒らなかったの?」
「怒らなかったよ。
なんか、そんなパパを見るのは初めてでね、呆れるとかよりも嬉しくなっちゃった。」
ママはそう言って笑っていた。
◆
誠也がいつもの様に打ち合わせをサボって公園をプラプラしていると、サッカーボールを壁に当てている少年がいた。
あの子はサッカー選手を目指しているのだろうか、熱心にボールを蹴っている。
あの日、虫の足を千切っていた日、俺は今日を想像してはいなかった。
小学生とはいえ、何かをしたいと思った事もなかったし、未来の想像などしていなかった。
ふんわりとはあったけどね、そりゃ。
グレンカイジャーになりたいとかさ。
でもまぁ、皆そんなもんなんだろう。
俺だけ特別、何にも考えてなかった訳でもないんだろう。
そう考えると運が良かった。
あの日、先生に出会わなかったとして、ヴァイオリンに出会わなかったとして、俺は一体今どこに居たのだろう。
一枚ずつ剥がしていくと、玉ねぎの様に何もかもが無くなってしまいそうだ。
そう思うと幸運だった。
それでもふと、消えてしまいたくなる時がある。
それも俺だけではないのだろう。
皆が薄っすらそう思うタイミングなんかがあるのだろう。
あの一生懸命にボールを蹴っている少年が、メッシやロナウドの様な選手になったとして、それでもそう思う日が来るのだろう。
デストルドー。
死への渇望。
死にたい気持ち。
普通に隣にあるものだ。
誰の隣にも居て、誰も口に出さない。
俺は元気だけどね。
先生の年齢もちょっと前に越えた。
小さい頃から、ちょっと死にたいかもと浮かび、いつの間にか忘れ、その境目をふらふらふらふらふらと漂いながら今日も生きている。
子供も出来たし、あいつが大きくなっていく事は楽しみだ。
ヴァイオリンの講演が一年半先まで決まっている、それも楽しみ。
来週のスピリッツを電子書籍で定期購読もしている。
二週間先にはルイスコールの新譜が出るらしい。
今日の夜には、打ち合わせ先の偉い人との会食で、自分で払うにはちょっとなーと思う価格のディナーが待っている。
その後、家族にビデオ通話をする予定だ。
湯船に入れるちょっと良いバスソルトを買っている。
その時に使うシャンプーも、お気に入りを朝ホテルを出る前に洗面台に出して来た。
先生は、死ぬって分かった時に、死にたいと思ったそうな。
でも結局生きて、死んだ。
それがなければ、俺は境目を越えた可能性もあるし、別のことに生き甲斐を感じていたかもしれない。
結局は何がどうなって誰の役に立っているかなんて分からない。
皆死にたがっていて、何かのきっかけで少しの間だけそれを忘れて、またその内消え去りたくなる。
ずっとそんな感じなんだろう。
さっき考えた少し先の少しだけ楽しみな事。
その為に生きているとは言わないが、そんな薄い氷の様な足場を重ねて歩いていくしか無いんだろう。
来週は俺のコンサートがこの街で行われる。
1万人くらいは間違いなく入るらしい。
すごい事だ。
俺はその1万人の薄い氷にはなれそうだって事だ。
じゃあ、頑張って弾かなきゃね。
俺の足元にも、その分の氷は敷かれたって訳だ。
少年が蹴ったボールが、変な跳ね方をして足元へと転がって来た。
そのボールを蹴り返したが、上手く当たらずに変な所へと転がって行く。
それが不恰好だったのか、少年は笑っていて、釣られて俺も笑った。
誰かの為にサボった打ち合わせに顔だけでも出そうかな。
そう思って立ち上がるが、公園の端にフィッシュ&チップスのワゴンがとまっているのが見える。
とりあえず俺は俺のために、それを買うことを直近の目標にした。
完
ありがとうございました。