声が出なくなったので捨てられましたが、結果的に幸せです
マリアはある日突然、声が出なくなった。1週間続いた原因不明の高熱からようやく解放され、唯一付いてくれている侍女のメアリーに話しかけようとした時に気づいた。
呻くような声や掠れた音はどうにか出るのだが、喋ろうとすると喉がつっかえて言葉が出なくなる。異変に気づいたメアリーがすぐに医者を呼んでくれた。
「…ストレスにより一時的に声が出なくなっておりますね。心当たりはありますか」
(…ストレス)
心当たりがありすぎて一つに絞れなくて困った。
物心つく前から自分に冷たく、10歳の時に母親が亡くなってすぐ後妻とその娘(年齢が一歳しか変わらない、つまりそういうこと)を連れ込んだ父、自分と父を引き裂いた女の娘だと自分を恨み虐げ時に暴力を振るい、自分を庇った使用人を全員辞めさせる義母、異母姉のものは自分のものだと言わんばかりの横暴さで母の形見の宝石やドレスを全て奪い、何もしてないのにお姉様に叩かれた、罵倒された、階段から落とされたと虚偽を父に訴え折檻を受ける自分を見て歪んだ笑みを浮かべる異母妹。
そして母が存命のうちに決まった婚約者だが、初対面時から地味で控えめなマリアが気に入らず「お前を婚約者とは認めない」と宣言、周囲から諌められてもマリアを婚約者として扱おうとせず、挙句に外面だけは完璧な異母妹に心を奪われ逢瀬を繰り返す。
マリアが注意しても「嫉妬か、顔だけでなく中身も醜いな。知ってるぞ、お前がララを虐めてることを!」と蔑んだ目で言い放つ、婚約者の第二王子にその腕に巻き付く異母妹。自分で碌に調べもせず第三者の言い分のみを鵜呑みにする迂闊さは王族として許されないのに。
第一王子が王太子として内定してるから、第二王子は周囲から担ぎ上げられないようにと甘やかされまくった結果、愚鈍な人間に育ってしまった。せめて必要最低限の教育は施すべきだったとマリアは常々思っていたが、進言したところで婚約者が怒るか周囲にマリアが余計なことをするなと叱られて終わり。マリアの役割は第二王子を支える、いや何かあった時の尻拭い役なのだ。
婚約者として歩み寄ることは諦め、それでいて第二王子が何かやらかすとマリアがちゃんとフォローしないからと周囲や父にも責められる。
婚約者の醜聞はそのまま第二王子の醜聞になる、と侯爵邸と王城、学園以外の外出は制限され、息抜きすらままならない。邸では異母妹と義母に虐められ、父には顔を合わせると厳しい言葉しか掛けられない。王城に王子妃教育で顔を出せば、「婚約者に蔑ろにされている可哀想な令嬢」と後ろ指を指されて嘲笑される。王太子妃ほどじゃないにしろ、第二王子妃になるための教育は厳しい。
婚約者に対して愛情があれば耐えられたかもしれないが、マリアにはそんなものはない。自分を疎む婚約者のために心身共に削って努力したところで、何も残らない。
こんな環境で過ごしてストレスが溜まらないわけがないが、マリアは自分にはこの道しかないと必死に努力して耐えてきた。が、蓄積されたストレスがついに爆発してしまったらしい。
母が存命の頃からついてくれているメアリーは医者の診断を聞くと「なんでお嬢様ばかりがこんな目にっ!」と涙を流す。マリアは自分のために泣いてくれる人がまだいることを嬉しいと思いながらも、自分の行く末を仄かに案じていた。
当然医者から父に報告が行き、病み上がりなのにマリアは執務室に呼びつけられた。メアリーは父に怒っていたが、もう父にはなんの期待もしてなかったから悲しくも何ともなかった。
執務室に入ったマリアに父が向けたのは情の欠片もない、冷え切った目。
「声が出なくなった?しかもストレスだと?全く、あの程度のことに耐えられないとは侯爵家の恥だなお前は」
労いの言葉なんてかけられない。いつものことだ。どれだけマリアが侯爵家の人間として至らないか、そのせいで自分がどれだけ迷惑を被っているかに始まり、最後は政略結婚で娶らざるを得なかった母に対する憎悪の言葉で終わる。
「流石あの女の娘だ、私に不利益しか齎さない…お前の顔を見てると気分が悪くなる、もう出て行け」
憎悪の篭った目で吐き捨てると、興味はないとばかりにマリアに背を向ける。マリアはさっさと執務室を出た。
暫く部屋から出るなと父に命令されたため、マリアはメアリー以外の人間と顔を合わせない日々が続いた。が、異母妹のララだけは例外だ。ある日ノックもせず入ってきて、開口一番こう言った。
「ストレスで声が出ないんですってお姉様?第二王子妃になるための勉強でそうなってしまうなんて、忍耐力が足りないんじゃありませんの?お母様も言ってたわ、みっともないって」
ストレスの原因その一、その二が何か言ってる。どうせマリアは言い返せないから、と言いたい放題だ。
「ラザール殿下も大層心配しておられたわ、この程度で体調を崩すお姉様は婚約者として相応しくないのでは、って」
婚約者には手紙の一通も送らないくせに、異母妹には会っているらしい。堂々とした彼等の態度に笑いそうになる。
マリアにはメアリーが用意してくれたスケッチブックとペンがあるので、これに書けば意思疎通は可能だ。しかし、そこまで労力を割く価値をララには感じない。
ララは黙って聞くだけのマリアを前に調子に乗り始め、耳を塞ぎたくなるような言葉をぶつけてくる。
しかし、以前なら黙って耐えるだけで心に傷が蓄積されていたが今は大して気にならない。言いたければ言えばいい、そんな精神だ。
いつもみたいに泣きそうな顔で唇を噛み、俯かないマリアに興が削がれたのかララは「もういいわ」と言うだけ言って、乱暴に扉を開けて帰って行った。
それから時折来るララと義母の嫌味を受け流しながら部屋に篭る生活を送ってた頃、父からまた呼び出された。
「ラザール殿下はお前との婚約を解消してララと婚約を結び直したいと仰せだ」
予想していたことが起こった。何でもこのくらいで体調を崩す令嬢は王族の婚約者として不適格だとラザールは国王に再三進言し、国王としても同意見でグラフィス侯爵家の娘ならマリアでなくても構わないと、マリアの意思を確認することなく婚約解消を決定した。
表向きは体調を崩したマリアが、自分はラザールにふさわしくないと自ら身を引いたことになるようだ。
マリアは全く悲しくなかった。寧ろ肩の荷が降りたと心底ホッとしてる。
父は予想と違い悲しみもしないマリアに苛立ち、こう続けた。
「ララが殿下の元婚約者のお前が屋敷にいると気を遣うと不安がっている。良い機会だ、お前にはルーフェン伯爵領に行くことを命じる」
ルーフェン伯爵家は母の実家だ。母が亡くなるまではよく領地に遊びに行ってたが、義母達が来てからは行くことを禁じられた。先妻の実家にばかり赴いているのは、後妻との関係が悪いからだと勘繰られるのを恐れて。
「向こうは再三お前を引き取りたいとうるさかったからな。こうなれば療養の名目で送っても外聞は悪くなるまい、明日には迎えがやって来る。荷物をまとめておけ」
それだけ言うと、出ていくように命じられる。
(ここにいるよりお祖父様達の元に行く方がずっとマシだわ)
マリアは部屋に戻る道すがら、未来に希望を抱き始めていた。マリアは母方の祖父母が大好きだった。夫と不仲な娘と孫を心配し、領地に招いてくれた。マリアも祖父母や領地が隣の幼馴染と過ごすのはとても楽しかったのだ。
祖父母は母の死後義母と異母妹と上手くやれてないマリアを心配し、引き取りたいと申し出ていたが父が突っぱねていた、外聞が悪いからと。それにラザールの婚約者の身分のままではどっちみち叶わなかっただろう。
だが、マリアは婚約解消された。何もなくなったが自由になったのである。
マリアは母が亡くなって以来、初めて心から笑えた気がする。
マリアには伯爵領に持っていくべきものは殆どない。大事にしてるものは全てララに奪われたからだ。だが、伯爵領に行けば母のものはたくさんある。ララに奪われたものが気がかりではあったが、以前よりは執着しなくなっていた。
***********
父はマリアに侍女の1人も付けないつもりだったが、それを聞いたメアリーは退職届を準備しルーフェン伯爵家から来た使者に雇ってくれるよう頼み込むつもりだと聞いた。マリアはメアリーがそうしたいのなら、と止めなかった。祖父母はメアリーを追い返したりはしないだろうから。
翌日、トランク3つ分の荷物をメアリー、使者が馬車に運び込んでくれる。マリアの見送りには誰も来ない。来られても困ったから寧ろ助かった。
マリアは母が亡くなってから針の筵だった侯爵邸を晴々とした気持ちで後にした。
王都にある邸から伯爵領までは馬車で1週間程かかる。使者と御者はとても良い人で、体調を崩したマリアを気にかけてくれて、頻繁に休憩を取ってくれる。そのせいで予定より数日到着するのが遅れてしまったが、祖父母はマリアを笑顔で歓迎してくれた。
「マリア、こんなに痩せてしまって…声が出なくなるなんてどれ程辛い思いをしたのか。助けるのが遅くなった私を許してくれとは言わない、だがここにはお前を傷つけるものはいない、安心して休みなさい」
「侯爵がなんと言ったって、もうあなたをあの屋敷には返しません。今までよく頑張りましたねマリア」
祖父母は心身ともに傷ついたであろうマリアに兎に角優しかった。伯爵家の使用人も。マリアに辛く当たる人間は勿論おらず、食事もマリアが好きなものを料理人に頼んでくれた。侯爵邸ではララの好きなもの、義母の命令で冷めたものしか与えられなかったから温かい食事が新鮮だった。
文字でしか意思疎通出来ないため、どうやってもタイムロスが生じるのだが皆面倒そうな顔は一切しない。
かと言って腫れ物に触るような態度でもない。皆、マリアが喋れないことを念頭に置いているものの避けたりはしない。普通に話しかけ、文字を書く時間を有するもののコミュニケーションが成立してる。
マリアはマリアで実家では肩身の狭い思いをしてた反動で、好き勝手に過ごした。図書室に入り浸り本を読み耽り食事を忘れることも多々あった。
天気が良い日は伯爵家に再就職を果たしたメアリーと共に邸の庭の散歩をしたり、お茶を飲んでいる。こんなに心休まる時間は久しぶりだ。母が体調を崩してからここには来られなくなっていたから、8年ぶりくらいだろうか。
(煩わされるものがないって、素晴らしいわね)
邸を歩いていても使用人に嘲笑われることもない、冷たい紅茶や料理を出されることもない。これが当たり前なのだが、マリアにとっては当たり前じゃなかったのだ。
伯爵領に来て2週間が経った頃、マリアに客人が来た。
「ライオネル・リーデン様です」
メアリーが告げた名前を聞いたマリアは懐かしい気持ちになる。ライオネルは隣の領地、リーデン辺境伯家の次男でマリアの四つ上の21歳。現在は辺境伯騎士団に所属してると祖父母から聞いた。
母と共にここで過ごすことが多かったマリアは年の近いライオネルと仲良くなった。一人っ子だったマリアはライオネルを兄のように慕っていたのだ。だが、ラザールとの婚約の打診を受けた父がマリアの意思を確認することなく受けてしまったことからマリアの人生は狂い始める。
父は母が生きてるうちは伯爵領に来ることを咎めはしなかったが、男子と接することを禁じてしまったから彼とは会えなくなった。母はいつかライオネルとマリアを結婚させようと思っていたらしく、父に何とか考え直すよう進言するも聞く耳を持たれなかったのだ。
元々身体の弱かった母は自分の不甲斐なさを思い悩むようになってしまう。体調を崩しがちになった母は寝込むようになりそのまま…。
辺境伯家の人間は基本的に領地を離れないが、学園に通ってる間は例外だ。6年制の学園で彼と通ってる時期が被ってることもあったが、第二王子の婚約者が他の男子と親しげに話すことは許されない。
だからライオネルと挨拶することはあっても、ちゃんと話したのは8年近く前。しかも今の自分は話すことが出来ない。
(…お祖父様達から話を聞いて、お見舞いに来たのかしら)
実を言うと、ライオネルはマリアの初恋の相手だった。だが、ラザールの婚約者に選ばれた瞬間気持ちには蓋をしたし、この8年間の間にあの頃の純粋な気持ちなんて消え失せてしまった。
それに今の自分はかつての、好奇心旺盛なお転婆娘の姿は見る影もない。やつれており、顔色もあまり良くない。かつてのマリアを思い浮かべてるであろうライオネルが会ったら幻滅されるのではないか。
彼に限ってあり得ないと分かってるが、邸の人間はメアリー以外マリアに憐れみの視線を向けていた。心が弱い人間だと蔑んでいると思い込んで、部屋に閉じこもった。
ライオネルがどんな反応をするのか怖い。どうにか理由をつけて断ろうとしてたら、メアリーが勝手にライオネルを呼んでしまった。なんて事を、と目で訴えると。
「お嬢様、本当はお会いしたいんでしょう?ライオネル様は大丈夫ですよ、絶対」
とメアリーはライオネルを自室に招き入れ、続いてお茶の準備を始めた。
ライオネルは黒髪黒目が特徴の、精悍な顔立ちの男性だ。背も高く騎士服の上からでも分かる引き締まった体躯。彼の姿を見るのは久々で、歳を重ねたことで男らしさと色気も加わっておりマリアは兎に角緊張した。
ライオネルがあまり動かない表情筋を動かし、マリアに笑いかける。
「久しぶりだな、マリア嬢。突然押しかけてすまない、体調はどうだ?」
『お久しぶりです、ライオネル様。王都にいた頃よりは体調は良好です』
サラサラと出来るだけ早く文字を綴ったマリアはスケッチブックを見せる。ライオネルはマリアが喋れないことを目の当たりにしても、表情を変えない。
祖父母も伯爵家の使用人、メアリーでさえ一瞬哀れみの感情を見せたのに。彼は記憶の中と変わらない、感情の読みづらい仏頂面のままである。
メアリーに促され、マリアと距離を開けてソファーに腰掛けるライオネル。2人の邪魔をしないように、メアリーは扉の側に控えている。未婚の男女が2人きりになることはあってはならないからだ。
「本当に久しぶりだな、最後に会ったのは数年前の夜会か?」
『そうですね、軽く挨拶をしたと記憶してます。普通に話したのはライオネル様が卒業した時でしょうか』
「そうだそうだ、懐かしいな。あの時のマリア嬢は今よりあどけなかった」
『…それは子供っぽかったと仰ってます?』
ライオネルは昔からマリアを子供扱いしたし、思ってることは何でも口にしていた。そういうところは貴族の子息らしくなく、マリアの中の男性像がライオネルで固まってしまい、変にキザでまどろっこしいラザールや他の子息が全く魅力的に映らない元凶でもあった。
マリアが拗ねたように頬を膨らませるとライオネルは首を振る。
「まさか、今も昔もマリア嬢は可愛いぞ」
(っ…!)
これだからタチが悪い。ライオネルは子供の頃から臆面もなく可愛いとか、そういった言葉を口にした。成人しても本質は変わらないようだ。
(この方、他の女性にも同じこと言ってるんじゃないでしょうね)
マリアの心に嫉妬の炎が燻り出した。ライオネルとマリアはただの幼馴染で、片や次期辺境伯の兄を支える優秀な騎士、片やストレスで喋れなくなり、婚約解消され家からも見捨てられた傷物令嬢。
どう考えても釣り合わないし、そもそも彼には相応しい女性がいるはずだ。マリアは意識的にライオネルの情報を遮断してたから、婚約者がいるかどうかも分からない。
かつて好きだった人と結婚する女性なんて、知りたくなかったからだ。マリアはスーッと目を眇め、ペンを手に取る。
『お上手ですわ、ライオネル様他の女性にも同じ言葉をかけてらっしゃるのかしら?』
ゴゴゴ、と圧をかけるもこんな柔な小娘の圧なんて全く効いていない様子のライオネルはムッとして眉間に微かに皺を寄せる。
「君は俺が色んな女性に不誠実な態度を取っていると思っているのか?」
カリカリカリカリカリカリ…。
『そんなことは。ただ私だから気にしないのであって他の女性でしたらライオネル様に可愛いなんて言われたら、舞い上がってしまいますわ。ですから、そういうことを言うのは婚約者の方に限定したほうが宜しいかと思います』
気合いで速く書いたけど、右手が痛い。後半字がガタガタになって、見栄えが悪いが止められなかった。
マリアは馬鹿じゃない。子供じゃないんだから、可愛いと言われたからといって勘違いなんて絶対しない。
しかし、何も持ってない今のマリアは脆いからうっかり、封じた恋心を解き放ってしまうかもしれない。婚約者がいるであろうライオネルに懸想するなんて愚かな真似はしたくないのだ。
自分の心が黒く塗りつぶされていくのを感じていたマリア。そんなマリアの心の裡を知らないライオネルは目を白黒させた。
「婚約者?俺にはそんな相手はいない」
「…っ⁈」
思いもよらない言葉にマリアは目を瞬かせ、今の自分の状況も忘れ驚愕の声を上げようとした瞬間咳き込んだ。話そうとするとヒューヒュー、と喉から音が漏れるだけだ。ライオネルはメアリーより先に反応して、マリアの隣に移動すると落ち着かせるように背中をさする。
「大丈夫か?…」
ライオネルはとても心配そうにマリアを見ている。無理に話そうとすると咳き込んでしまうだけで、心配されるほどではないのだがマリアは自分の口から弁明出来ない。
だから、心配してくれているライオネルに何も明かすことなく悪いことだと分かっていながら、彼の献身を受け続けていた。
メアリーの淹れてくれたお茶を何口か飲み、落ち着いた、ということにして話を再開させた。
『婚約者はいらっしゃらないのですか?』
「いないよ」
こともなげに言うが、高位貴族ともなれば20歳までに跡継ぎでなくとも婚約者がいるのが当たり前だ。記憶にある辺境伯夫妻は大らかで息子の婚約者については本人の意思に任せる、と仰っているような方々だった。そうすると、彼の婚約者がいないのは彼自身が決めようとしてないからということに。
『いらっしゃらないのですか。他の女性がライオネル様を放っておくはずがないと思ってましたけど。もしかして、理想が高いのですか?』
いくら幼馴染とはいえ、久々に話す相手にここまで踏み込まれて良い気分にはならないと思う。それでもペンを走らせる手が止まらない。
ライオネルは意味深に目を細める。
「理想が高い、ね。俺の場合は違う。諦めが悪いだけだ。ずっと好きだった子がこの国で最も高貴な血筋の方の婚約者になってしまったから、誰とも婚約する気になれなかっただけだ」
ライオネルは切なそうな瞳でマリアを真っ直ぐに見つめている。マリアは自分の頬が熱を持ち始めているのを感じた。
震える手で文字を綴る。
『好きだった子?とは、どんな方で?』
分かってるくせに、と言いたげな視線をライオネルは向けてくる。
「四つ下の、栗色の髪に赤褐色の瞳でいつもニコニコと笑ってて元気な子だ。森に珍しい植物を見に行ったり、うちの領地を散歩するのが好きで俺は妹のように可愛がってた。両親と彼女の祖父母の間で俺達をいつか婚約させるという話が出ていると知った時、彼女を妹として見てなかったことに気づいたんだ。けど、正式に婚約の話を進める前に王族との婚約の話が出て彼女の父親は相談することなく受けてしまった。それ以来、俺は彼女に近づくことも出来なくなって、もっと早くに行動するべきだったと死ぬほど後悔したよ」
「…」
メアリーが凄い顔でこちらを凝視してる。そして口パクで「私、出て行った方が良いですよね!」と言ってるので首をブンブンと横に振る。メアリーに聞かれるのは恥ずかしいけど、2人きりにされるのも困ってしまう。
そしてライオネルはメアリーの存在を忘れてる気がする。
「彼女の母上が亡くなってすぐ父親が再婚して。再婚相手とその娘との関係が最悪なことも知っていたのに俺は何も出来なかった」
『そんなことないです、知ってます。助けてくれてたこと』
父はルーフェン伯爵家だけでなく、リーデン辺境伯家からの接触を警戒していた。手紙のやり取りすら満足に出来ない状況だったが、ライオネルと祖父が自分の息のかかった使用人数人を侯爵家に潜り込ませていたのを知っている。
彼らは義母やララの目を盗み、例えば折檻されたマリアによく効くと有名で高価な薬を送ったり、気まぐれで食事を抜かれた時はこっそり食事を届けてくれた。メアリーと違い、表向きはマリアに無関心を装っていたけど、確かに助けてくれていた。
何故知っているのかというと、件の使用人が数年前、ライオネルの命令を無視してマリアに教えたのだ。自分の味方がメアリーだけではないと知り、それだけであの冷たい邸で生きていく支えになった。
ライオネルはバレてるとは思わなかったのか、気まずそうに目を逸らす。
「…感謝されることじゃない。もっとやりようはあったのに、あれくらいしか」
『そんなこと、言わないでください。私、ずっと味方がいるって心強かったんです』
マリアの嘘偽りのない本心を伝えるとライオネルの強張っていた表情が徐々に和らいでいく。
『…私声が出なくなって、婚約解消されてルーフェンの領地に行くように言われた時も全く悲しくなかったんです。寧ろ自由になれた、と喜んだくらい』
「…君は殿下を慕っていたわけでは」
とんでもないことを言われて、すぐさまペンを走らせる。
『慕う?あの方初対面の時から私のことが気に入らなかったらしくて、ずっと冷たかったですよ?慕うわけないです。その上異母妹と親しくして、喋れなくなったことを理由にさっさと婚約解消するような方、百年の恋も冷めます』
スケッチブックの筆圧に鬼気迫るものを感じたのかライオネルは神妙な面持ちで、そしてどこか怒ってるように見えた。
「そうだな、そんな不誠実の塊のような男好きになる要素ゼロだ。そしてすまない、勘違いとは言え奴を慕ってるかなんて聞いてしまって」
第二王子を奴呼ばわり。聞く人が聞いたら不敬だなんだと騒がれるだろう。どうでも良いが。
「…君は、いやマリアはこちらに来て全く後悔してない?」
子供の時以来、久しぶりに名前を呼び捨てで呼んでくれた。昔みたいに「ライ兄様」と直接呼べないのが心苦しいけれど、あまり気にならないくらい嬉しい。
『さっきも言いましたよ。私肩の荷が降りてホッとしてるんです。全部無くなったけど、寧ろスッキリしてる』
「そうか。俺は不謹慎ながら、君が婚約解消されてこちらに戻ったと聞いて喜んでしまったんだ。昔出来なかったことが出来るかもしれない、と」
『できなかっ』
文字を書いてる途中で突然手を握られた。驚いているマリアの両手を自らの両手で包み、漆黒の瞳が真っ直ぐに射抜く。金縛りにあったかのように身体が動かない。
「好きな子に結婚を申し込むことだ…ライオネル・リーデンはマリア・グラファス嬢をずっと愛していました。どうか私と結婚していただけませんか」
「っ…!」
目頭が熱くなり、赤褐色の瞳から涙が溢れる。両手を離した彼が瞳から流れた涙を指で拭う。マリアは慌ててスケッチブックとペンを手に取り、急いで文字を書き綴る。
『し、正気ですか』
「正気じゃなければ、プロポーズしない」
ライオネルはクスッと笑う。そんな仕草ですら絵になる人だ。
『私、婚約解消された傷物で父からも見放されて。声だっていつ出るようになるか分からないんです。リーデン辺境伯家の次男にはふさわしく』
また、書いてる途中で止められた。ライオネルの大きな手が自分の手の上に重なる。
「自分を貶めるような言い方は駄目だ。声が出なかろうが貴族じゃなくなろうが、俺はマリアと絶対結婚すると決めてた。それに、グラファス侯爵なんてこちらから捨ててしまえばいい。あの人は親として最低だからな、君に必要ない」
(す、捨てるってそんなこと…)
「ジェルド殿達は今度こそ君を養子にする話を進めてる。侯爵の関心が異母妹と奴に向いてる今がチャンスだ」
(お爺様達が…確かに、今のお父様にとって私はただのお荷物。縁を切れるのなら切りたいと思ってるでしょうね)
「グラファス侯爵家に籍を置いたままだと、侯爵と異母妹がよからぬことを企むんじゃないかと気が気じゃない。俺を安心させるためだと思って養子縁組して欲しい」
「…」
マリアはライオネルの目力に耐えられず、コクリと頷いた。すると彼の表情がパァっと輝き出す。彼の手が離れたので、すぐさまペンを握る。
カリカリカリカリ…。
『私で良いんですか?いつ喋れるようになるか、もしかしたらずっとこのままかもしれないのに』
「喋れなくたって、こうしてコミュニケーションが取れてるじゃないか。それにマリアの綺麗な字を見るの好きなんだ。なんなら文字でやり取りしてみるのも良いかもしれないな。俺は字があまり上手くないから恥ずかしいが…」
ライオネルはマリアが声を出せないことを全く気にしていないようだ。大らかというか、細かいことは気にしないというか。昔から変わっていなくて安心する。
スケッチブックに視線を落とすマリアの顔をライオネルが覗き込んできた。眼前に整った顔が現れる。
「っ!」
「肝心なことを聞いてない。マリアは俺のことをどう思ってる?強引に話を進めてる自覚はあるが、君の意思を無視するのは良くないからな。嫌ならはっきり言ってくれ、結婚することは絶対諦めないがいくらでも待つ」
じっとりと執着を滲ませた漆黒の瞳に射抜かれて、背中にゾクリとしたものが走りマリアの空虚な心が満たされる感覚がしてきた。
(分かってるのに聞いてくるのか、本当に分からないのか…)
マリアは震える手で短い文章を書き記す。
『好きです、ずっと前から』
ライオネルはスケッチブックを一瞥して一言。
「…マリアは綺麗な字を書くのに、この文章だけ字が崩れてるな…いて」
デリカシーのないことを言う彼の肩を思い切り叩いた。
*********
「聞いたか?異母妹と元婚約者の話」
『聞いてないです。何かあったんですか』
あれから半年後。あっさりと祖父母との養子縁組とライオネルとの婚約の許可が降りた。未だにマリアの声は出ないものの穏やかに過ごしていたある日の昼下がり。
辺境伯家の庭でお茶をしていた時、不意にライオネルからそう訊ねられた。
「何でもすっかり仲が冷め切って互いに別の相手を作ってるらしい。どうやら障害がないと燃えないタイプだったようでな。くっついた後急速に愛が消え失せたとか、ハッ。馬鹿らしい」
マリアは元婚約者と元異母妹の末路に言葉を失っていた。
(私を悪者にしてまで盛り上がってたのに、こんなに呆気ないのね)
市井では許されないと分かっていても抑えられなかった、真実の愛だなんだと囃し立てられていたのに。これからどうする気なのか、今更婚約解消は難しいからそのまま結婚…悲惨な結婚生活になりそうだ。
「で、異母妹が駄目そうだからマリアを侯爵家に戻して欲しいと厚顔無恥にも頼み込んでるらしいぞ、侯爵が」
『…面倒ですね』
「ああ本当だ。今更後悔しても遅い、マリアは絶対に渡さない」
好きだよ、と囁きながら抱き寄せられて軽くキスされると声にならない悲鳴を上げた。人払いしてるとはいえ、邸の庭でキスするなんてあり得ない。
「な、にするんですっ…」
酷く掠れた声が喉から出た。ライオネルが目を見開き固まっている。
「…マリア、声が」
「…え。あ、少し、出ます」
その瞬間ライオネルに力一杯抱きしめられ、潰れたカエルみたいな声が溢れた。