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女の自宅は電車で十分程度の場所にあった。電車の中で女は、わたしの顔を横からやたらジロジロと見てきた。
「…なんですか?」
あ、ごめんなさい、と女は詫びてから、「肌がきれいだなと思って。あんまりメイクしてないですよね?」
ああ、なるほど、とわたし。
「顔にいろんなもの塗ると、感覚が鈍るんですよ。あと、煙草とお酒とかね。暴飲暴食も駄目。常にいい状態を整えてないとわたしの仕事は出来なくなるんです。」
へぇ~、と女は冗長な感嘆符を漏らす。
「わたしには無理だなー。お酒も煙草も大好き。オールで飲みパとかいまだにやっちゃう。」
わたしは何と答えればいいものかと思ったが、まあ、二十歳過ぎたらだんだん落ち着いてきますよ、と返事しておいた。無邪気で可愛いとこもあるじゃないか。
嫌いだけど。
あの家ですよね、と、わたしは数十メートル先から確認した。女はヒエッという顔をして、どうしてわかるんですか?と聞いた。仕事ですから、とわたしは答えた。一目瞭然。鎮火した火災現場に舞っているようなどす黒いススで家全体が覆われていた。
「はっきり言うけど…あなたのお兄さんもう成仏出来ない。」
えっ、と女は息を飲んだ。
「どうなるんですか…?」
「消すしかない。たぶん…とにかく中に入りましょう。」
女が玄関の鍵を開ける。まっすぐ奥へと続いた廊下のどん詰まりに、黒いススを吹き上げる真っ黒な人影があった。
「わたしの肩に手を置いて。あなたは見ておいた方がいい。」
女は言われた通りにし、ヒッと息を飲んだ。
「あれがいまのあなたの愛しいお兄さんよ。あの黒いススが、この家を覆ってる。お父さんは突然亡くなった?」
女は青褪めた顔で頷いた。
「あまり真面目に働く人じゃなかったわよね。お兄さんがこの家の家計をやりくりしていた。高校生のころからね。」
そうです、とか細い声。
「家族思いの、優しいお兄さん。あなたたちの行かないでという思いを聞き続けて、成仏のきっかけも失って、こんなものになってしまった。よく見なさい!彼をこんなものにしてしまったのは、あなたたちに他ならないのよ。」
女は啜り泣きを始めた。
「もう、どうにもならないんですか…。」
どうにもならない。
「消すしかない。あなたは外へ出てください。」
女は泣きながら玄関を出た。わたしは息を吐けるだけ吐き、いったん止めて、一気に吸い込んだ。この家に災いを振りまいていた純粋な愛は、あっという間に吸い込まれてまるで初めから何もなかったように屋内は静まり返っていた。わたしはドアを開けて、少女のように立ち竦んでいた女に話しかけた。両肩に手を置いて、諭すように。
「今日のこと絶対に忘れちゃ駄目よ。あなたはこれから、お兄さんに恥ずかしくないように真っ当な人生を生きなさい。あんなになってまで側に居てくれたお兄さんに、真っ当なあなたを見せることで報いなさい。たとえ生まれ変わってもあなたとお兄さんは二度と会うことは無い…わかりますか?あなたはこれから、お兄さんの人生も背負って生きるのよ。それが、供養と言えば供養よ。」
はい、はい、と、女はぼろぼろ泣きながら何度も頷いた。わたしは微笑んで彼女の肩から手を離した。
「体調はじきによくなるでしょう。それでは。」
ありがとうございました、と女は深く頭を下げた。
わたしはどこにも寄らずに真直ぐに家に帰って、長風呂をしてから夕食を食べ、ぼんやりとテレビ番組を観て、早めに寝てしまった。忌々しい気持ちが最後まで消えなかった。