2(ラスト)
右手がすっかりまともな状態に戻った頃には冬が始まっていた。わたしはしばらく玄関に置きっぱなしだった自転車に空気を入れ、透き通るような冷たい快晴の中をお寺へと走らせた。お寺のある小さな山の登り口に差し掛かったころから、ここに来るのはこれが最後かもしれないという奇妙な予感がちらちらと脳裏に過った。でもそれを気にしないように努めた。わたしにだって思い違いということはあるのだ。門の前に自転車を置き、住職さんの姿を探したけれど、見当たらなかった。玄関の靴置場に、わたし宛の茶封筒が置かれていた。封筒の中には、短い手紙と、何枚かの紙幣が入っていた。よろしくお願い致します、とだけ、手紙には記されていた。わたしは封筒をバッグに入れて、裏庭の方に向かった。
おそらくはここで一番の歴史を持っているのだろう大木の逞しい枝に縄をかけて、住職さんは首を吊っていた。着物の襟のところに見つけやすいように遺書を忍ばせていた。わたしに対する配慮なのだろう。ぶら下がった住職さんの足元に、子供の霊がしゃがみ込んでいた。虚ろな瞳。なにもかもが初めから失われていたんだ、そんな目をしていた。この人はもしかしたら、いつか弟を救いたいという気持ちだけでこの世を生きていたのかもしれないな、わたしはそう感じた。楽にしてあげるからね、とわたしはそう声をかけた。あとになって思えば、そんなことをしたのは初めてだった。ゆっくりと息を吐き、吸い込んだ。長いこと迷子だった少年は、どんな意思も残さずに消えた。わたしは警察に連絡して、その日のことをありのまま話した。遺書にはたくさんのことが記されていたらしく、わたしはあまり時間を取られることはなかった。
いつかのようにわたしは、自転車を押しながら時間をかけて山を降りた。強い冬の風が時折、まるで津波のように背中からやって来ては視線の先へと去って行った。山道の入口のところで、短い間に様々なことを教えてくれた場所を振り返った。さようなら、と丁寧に口にするように、無数の木々が静かに揺れてさざめいていた。
【了】
ありがとうございました。




