第九話 再会
「キャンキャン!!ウ〜ッキャンッ!」
雅の前に小さな黒柴の子犬が転がり回っていた。
足元をチョロチョロして纏わり付き、どこまでもついてくる。
自分はそんなに狼臭いのだろうか。
雅はそう思った。その間も子犬は横っちょにズレた、ちょっと変なおすわりをして雅にキャンキャン吠え続けている。
黒い体に白いお腹。まろまゆに頭の天辺がハゲたように白い子犬を見つめて、雅はつまみ上げた。
そのままコートのポケットに突っ込むと再び歩き出した。
「ん」
雅に寮の外へ呼び出された瑞希は目の前に突き出された子犬を見つめた。
「ど、どうしたんですか?この子……」
子犬はヘケヘケとキラキラした目で瑞希を見つめていた。
「拾った」
「えっ?」
雅がボソリと言うと瑞希は素っ頓狂な声を上げた。
「この子……毛並みも綺麗ですし、きっとどこかから逃げてきちゃったんじゃ……」
瑞希は子犬を受け取ると、じっと見つめた。
黒い体に白いおなか、まろまゆに、特徴的な天辺ハゲの黒まめ柴。生後一ヶ月くらいだろうか。
子犬は夢中で瑞希の匂いを嗅ぎ回った。
「この子……この子……」
「タロに、似ている」
雅がボソボソとそう言うと子犬はキャンキャン吠えだした。瑞希の髪を嗅ぎまくる。
可愛い。
瑞希は子犬を胸に抱いた。
「でも、探している人がいるかも知れません……。ちょっと待って下さいね」
と言って携帯端末を取り出した。操作して○イッターを開く。
瑞希はこの二週間で携帯端末の使い方をだいぶ覚えた。
「どこでこの子を拾ったんですか?」
「〇〇区」
瑞希が問うと雅は素直に答えた。瑞希は○イッターで「〇〇区迷い犬」で検索をかけた。
「出ていませんね……困ったなぁ」
瑞希は子犬を見つめ返した。真っ黒なつぶらな瞳が見つめ返す。子犬は「キャン!」と吠えた。
「飼えばいい。寮では飼える。その気になれば。金は俺が出す」
瑞希の心が揺れた。それもかなり。
「でもやっぱり飼い主さんを探さなきゃ。こんなに可愛い子です。きっと心配してます」
「離れたくないと思っている。
なら見つかるまで預かればいい」
瑞希はパアッと笑顔になった。
瑞希の部屋で子犬がちょっと横っちょにズレた変なお座りをしている。
「ふふ。タロにそっくり」
タロのお座りは何度直そうとしても結局直らなかった。
「私は魚住瑞希って言うんだよ」
瑞希の言葉に反応するように子犬の尻尾が千切れんばかりに振られた。
「お腹空いてる?」
瑞希はしゃがみ込んで、お湯でふやかしたドッグフードに、犬用ミルクを混ぜた離乳食を子犬の前にコトリと置いた。
子犬は顔を輝かせた。
「まて」
瑞希が試しに言ってみると、子犬はうずうずしながらちゃんと待った。
「おて」
子犬の前に手を差し出すと、子犬は左前足を瑞希の手に乗せた。
「おかわり」
今度は右足を乗せる。
「よし!」
子犬はごはんに飛びついた。
「いい子ね。賢いなぁ」
「おて」と「おかわり」が左右逆なのもタロそっくりだ。
「君のお家はどこかな?君はどこから来たの?」
瑞希は答えが無いと分かっていながら子犬に訊いた。
子犬はごはんにがっついている。
瑞希は頬杖を付いた。
「君のこと、コジローって呼んでもいい?」
すると、子犬は顔をあげて「キャン!」と一言鳴いて千切れんばかりに尻尾を振った。
〇イッターに「〇〇区で迷い犬を拾いました預かってます」と、写真を添えて投稿して、瑞希とコジローの生活が始まった。
コジローはまだ生後一ヶ月くらいなのに賢く、トイレの場所もすぐ覚えた。
「いくよ〜」
瑞希の声にコジローがハッハと息を切らしながらキラキラとした目で見つめる。
「そーれっ!」
瑞希の掛け声と共に手から小さなボールが放たれた。コジローは一直線に部屋を駆けていき、ボールにむしゃぶりついた。
散々転がり回ってボールに飛びついた後、咥えてハフハフ言いながらまた瑞稀の元へと持ってくる。
「お利口さんだね。コジローは賢いなぁ」
瑞希はボールを受け取るとコジローの頭を撫でた。
コジローはつぶらな瞳をキラキラさせて瑞希を見つめる。口元は柴犬スマイルだ。尻尾は霞むほどに振られている。
「もっともっと!もう一回やって!!」と目が語っている。
瑞希はコジローの期待に応えて再び構えた。
「行くよー!」
コジローは地団駄して待ちきれない。
「そーれ……あっ!」
狙いを逸れたボールが壁にバウンドして、瑞希の顔に直撃した。瑞希はそのまま床に倒れた。
「いたた……」
「キュゥーン」
瑞希が床に伸びているとコジローが側に立っていた。まろ眉毛を下げてうるうるした目で心配そうに見ている。
瑞希は雅を思い出した。
コジローは瑞稀の顔をペロリと舐めた。
「大丈夫だよ。ありがとう」
瑞希がそう言うとコジローはパッと柴犬スマイルになって、瑞稀の体によじ登ると、顔をべろべろ舐めだした。
「く、くすぐったい、くすぐったいよ。分かった、分かった。起きるから!」
瑞希はコジローを抱えて体を起こした。コジローはビョンビョン跳ねてまだ瑞希を舐めようとする。
可愛い。
瑞希はコジローの頭を撫でた。
二日経ってもそれらしき投稿や、瑞希の投稿への反応は無かった。雅が届け出てくれた交番の方も動きはなしだ。
瑞希は少し迷ったが、コジローを連れて雅と共に〇〇区へ向かうことにした。
「本当にどうしましょうか……」
「このまま飼うのでは駄目なのか」
雅が眉毛を下げて訊いてきた。
「できるなら……返してあげたいです。家族がいるのかも知れません」
瑞希は抱いているコジローを見つめた。
「迷っている」
雅は瑞希の心を言い当てた。
「離れ難い。そう思っている」
「……はい」
雅はおずおずと瑞希に手を伸ばすと、一瞬迷って頭を撫でた。
「このまま見つからなければ……お前がこいつの家族になれば、いい。俺が協力する」
瑞希は頬を染めて顔を綻ばせた。
「はい。ありがとうございます」
雅の口角がちょっと上がった。その時、男性の声が聞こえてきた。
「デコジローーーーーー!!!!どーーーこに行ったんだーーーーー!!!!」
見ると白髪混じりの男性がゴミ収集所の裏と塀の隙間に挟まって叫んでいた。
デコジロー……。
瑞希はコジローのてっぺんハゲみたいな頭を見た。
「あの……」
瑞希は男性の肩に手を置いて声を掛けた。男性はくるりと振り向くと目を見張った。
「デコジロー!!!」
「キャンッ!」
男性の声と同時にコジローが吠えた。
やっぱり。
瑞希の心に微かに落胆の色が浮かんだ。雅は瑞希を見つめて眉を下げた。
「いやあ!どうもすいません!デコジローを拾っていただいて……」
六十代くらいの初老の男性がパアッと顔を明るくした。
「三日前、二本先の通りで拾った。警察に届け出て、預かっていた」
雅がボソリと言った。男性は驚愕した。
「そうだったんですか!一昨日気づいて探し回ったんですけど見つからなくて……。本当にご迷惑をかけて……。ありがとうございます!
どうぞ、うちに来て下さい。お礼にお茶でも」
「いえ、」
「分かった。行く」
男性の言葉に瑞希が遠慮しようとすると、雅が遮って背中を押した。
「それじゃあお言葉に甘えて」
瑞希は微笑んだ。
男性の家に上がると瑞希と雅はワラワラと子犬に囲まれた。コジローの尻尾が振られる。瑞希はコジローをギュッと抱き締めると、子犬達の中に下ろした。
コジローは子犬達と一緒になって跳ね回った。
「本当にお世話になりまして……なんと申し上げたらいいか」
男性に廊下を案内されてリビングに通された。
そこで、瑞希は硬直した。
クッションに横倒しで寝かされて、それでも必死にこちらを見て首を伸ばしている天辺ハゲ頭の黒い豆柴。
「ん?デコタロー?どうしたんだ?
すいませんね、この子は昔の無理が祟ったみたいで今晩が山というところでして……」
ハゲ豆柴は瑞希の方を向いて尻尾を千切れんばかりに振り回している。
「タロ?」
瑞希が一歩前に進んだ。ハゲ豆柴の尻尾がこれ以上ない程、霞むほどに振られた。
ハゲ豆柴は男性が驚く目の前でなんと立ち上がった。足が三本だ。
「タロ……!」
瑞希はタロに駆け寄ると抱き締めた。
タロだ。これは間違いなくタロだ。
タロは瑞希の腕の中で崩れ落ちながらも尻尾を振り回し続けた。
瑞希は伯父に「タロは他所に貰われていくことになった」と言われて別れることになった。
「そうでしたか……」
瑞希から簡単な事情を聞いて、男性は少し眉を顰めた。
瑞希はクッションの横のカーペットに座って、タロの頭を膝に乗せて撫で続けていた。タロは疲れたのか、今は静かに尻尾を振っていた。瑞希の周りをコジローが跳ね回る。
雅は男性が勧めるにも関わらず瑞希の横に座っていた。
男性は丸いすを出して、二人の前にクッキーと、コーヒーと、ミルクと、角砂糖の入った瓶を置くと、向かいに座った。
「すいませんね、妻が町内会の行事に出てて簡単なものしかありませんが……」
礼を言い、瑞希はコーヒーにミルクを入れ、角砂糖を二つ入れた。雅はブラックで一口飲んで、砂糖を四つ投入した。雅は甘党辛党両党だ。
「私がこの団地でこの子を拾った時にはですね……。この子は虫の息でした」
瑞希はパッとタロを見た。
貰われていったのではないのか。
雅が苦虫を噛み潰したような顔をした。
「首には紐が巻きついて、痩せ細って、身体中傷だらけのボロボロで……。すぐ動物病院へ連れて行きましたが、足は切除するしかありませんでした」
瑞希は息を飲んだ。
「時期から言ってそう遠くはない。どこかへ貰われると言って、捨てたんでしょうな。あなたの伯父さんは」
そう言った男性は目を薄めた。
「この子はウチの子になった後も、常に、暇さえあれば外を見ていました。子供も生まれて、孫もできて、こんなになっても、私たちに本当の心は開いてないのが分かりました」
そこで男性は目元を和らげると、瑞希を見つめた。
「今思えば、戻りたかったんでしょうな。あなたの元へ」
瑞希の目から、タロの頭にぽたりと雫が落ちた。
タロ、タロ、タロ。どれ程苦しい、辛い思いをしたのだろうか。どれほど壮絶な旅をしたのだろうか。一体どれほど、戻りたいと思ってくれてたのだろうか。
タロはいつでも、瑞希の味方だった。寄り添ってくれていた。
瑞希はタロを見た。タロも、瑞希を見つめ返した。尻尾がパタパタッと激しく振られる。
会えただけでこんなに喜んでくれているのだ。ずっと瑞希を想っていてくれていたのだろう。瑞希はたまらなく嬉しかった。
瑞希はタロの頭を撫でた。
「よければ連れていってあげてくれませんかね」
男性が口を開いた。瑞希は顔を上げた。
「いえ、何も押し付けたい訳じゃありません。犬の最後を看取るのは初めてではありませんし。
ただ、この子があなたの膝の上で亡くなりたいんじゃないかと思いましてね」
「いいんですか?」
瑞希が問うと男性はコクリと頷いた。
コーヒーを飲み終わった雅がスッと立ち上がって瑞希の膝からタロを抱き上げた。
その日の夜。瑞希の部屋で、叶芽に許可を取って特別に女子寮に上がった雅と、瑞希がタロを見守っている。
タロは肩で大きく呼吸を繰り返していた。目はもう開いていない。
瑞希はタロの頭を撫で続けていた。
「タロ、覚えてる?三人でよく、ピクニックに行ってたこと」
瑞希が訥々と話しかける。
「タロとはよく、サンドイッチのハムを半分こしたよね。
タロは、サンドイッチの卵や、ハムをつまみ食いしちゃって、おばあちゃんによく怒られてたよね」
タロの耳がピクリと返事をするように動いた。
「おばあちゃんと、抱き合ってたら、よく挟まりに来てたよね。
おばあちゃんと歌ってたら、タロったら、遠吠えみたいに一緒になって歌ってたよね」
タロの耳がピピクッと動いた。タロの呼吸が荒くなる。
「悲しい時は一緒にいてくれたよね」
瑞希の目から涙が一粒零れた。
「タロ、タロ。ありがとう。ずっとずっと待っててくれたんだよね。もう一人にしないよ」
瑞希はタロをギュッと抱き締めた。タロの尻尾が微かに揺れた。
「私はもう、ひとりじゃないよ。タロ、大好き。ありがとう」
瑞希の言葉を聞いて安心したかのようにタロは尻尾を微かに揺らすと、体を何度か痙攣させて動かなくなった。
瑞希はタロの心音が聞こえなくなるまで、ずっと抱き締めていた。
タロは探したペット葬儀屋で火葬、供養してもらうことになった。
寮の前まで来てもらったペット霊柩車。それにタロが乗せられて走り去っていく。
瑞希はそれをいつまでも、いつまでも、見えなくなっても見送っていた。
トンっと肩に当たる感覚。見ると、サングラスを外した雅が寄りかかっていた。
眉毛を下げて、大きな金色の瞳で瑞希の顔を覗き込む。
悲しみを共有しようとしてくれている目だ。
瑞希の視界が潤んだ。
雅は肩を離すと瑞希をそっと抱き締めた。瑞希は雅の胸に顔を埋めて泣いた。
しばらく、何ヶ月か経った後。タロを拾った男性から電話がかかってくるのはまた別のお話。