第三話 助けてって言ってもいいの?
眩しい。
瑞希は眩しさを感じて寝返りを打った。そこでがばりと起き上がる。
「今何時!?」
時計を探して辺りを見回してやっとここが自分の部屋でないことに気付いた。
「ここは……?」
白を基調とした優しい色合いの木目の家具の置かれた小さな部屋だった。
瑞希はふかふかのベッドに寝かされていたらしい。そっとベッドから降りると自分の格好を見下ろした。大きな長めの白いシャツ型パジャマ。どう考えても自分のものではない。
きょろきょろと辺りを見回すと白い清楚なワンピースが掛けてあって、脇にメモが置かれていた。
ーー起きたら左隣の部屋へ 叶芽
メモを見て昨日の記憶がどっと蘇ってきた。
黒スーツ、札束、伯父の嬉しそうな顔、妖艶な魔女、港、放り込まれた海の冷たさ、薄い青緑色の尾鰭、出なくなった声、黒い大きな犬、断末魔、溶けた人形……。
そこまで思い出して瑞希は自分で自分の体を抱いてしゃがみ込んだ。肩が震える。
今更ながら込み上げてきた恐怖の数々をなんとか飲み下そうとした。
大きく息を吸って、吐く。落ち着けと心に言い聞かせる。
「大丈夫、大丈夫……」
声も出る。大丈夫だ。
瑞希はスックと立ち上がって着替えようとパジャマを脱いだ。チラリと映ったドレッサーの鏡を見て驚愕して覗き込んだ。
昨日まであった脇の黒あざと頬の腫れが嘘のように無くなっていた。
「どうして……」
呟くと同時に頭が人魚になった事と関連づけた。自分が人間ではないことをまざまざと見せつけられた気がした。
着替えをして部屋を出て、左隣の部屋の前に立つ。恐る恐るインターフォンを押した。
『はい』
少し間延びした叶芽の声が聞こえてきた。
「あの……えっと……」
返事をしようとして昨日名乗りもしていなかった事を思い出す。
『ああ、はいはい。すぐ開けますんでお待ちください』
カメラででも確認したのか叶芽はすぐに返事をした。ガチャリとドアが開く。
「ふわぁ……おはようございます」
ちょっとヨレヨレの叶芽が出てきた。前髪に寝癖がついている。
「おはようございます。あの、昨日はありがとうございました」
恐らく風呂から瑞希を引き上げてくれたのも、着替えさせてくれたのも叶芽だろう。
「いえいえ。お安いご用です。当番明けで寝てたのでこんな格好で申し訳ない」
叶芽はもう一つ欠伸をした。と、その時叶芽の髪が動いた。肩に顔を出したのは叶芽の髪と同じ黒に近い緑色の蛇だ。
驚く瑞希を他所に蛇はにゅぅっと体を伸ばして近寄ろうとした。
「おっと」
叶芽は蛇をパシッと捕まえた。
「すいませんねこの子、綺麗な声が好きなんですよ。
では少々支度をしますので中でお待ちいただけますか?」
瑞希が頷くと叶芽はくるりと後ろを向いて部屋へ入って行った。叶芽の髪は三つに分かれていてその先はなんと先程と同じ蛇になっていた。
蛇達と目が合った。瑞希は驚きのあまり一瞬固まったが、すぐに失礼に当たると思い直して叶芽の後に続いた。
「こんなものしかありませんがどうぞお召し上がり下さい」
と、叶芽がコンビニの袋を差し出して瑞希をベッドへ腰掛けるよう促した。受け取るとおにぎりが幾つか入っている。瑞希は有難く頂くことにした。
おにぎりを齧りながら叶芽の支度を見守る。叶芽は顔を洗って帰ってくると、テキパキと着替えて髪を三つ編みにし、蛇を隠すように巻いてお団子にした。
化粧をしながらドレッサー越しに瑞希を見つめる。
「大丈夫ですか?」
叶芽の問いに瑞希は慌てておにぎりを飲み下した。
「はい。大丈夫です。ありがとうございます」
瑞希は平静を装って答えた。鏡越しの叶芽の顔はまだ何か言いたげな様子だったが黙って化粧に戻った。
都心の一角、高層ビルの並ぶ通りにネクストドアネイバース日本支部統括本部はあるらしい。ビル丸々一つがそうなんだとか。
他のビルの地下まで侵食しそうな程広い駐車場だとか、表から見ると一見普通の人達が普通に働いているようにしか見えない外壁だとか、様々な魔法的な仕掛けがあると叶芽に聞かされても、瑞希は未だに不思議な世界に片足を突っ込んだ実感が湧かなかった。
座り心地の良さそうなソファーと椅子、ローテーブルが置かれている部屋の一室に案内される。
促されるまま瑞希がソファーに腰掛けると、叶芽は壁にかけられた電話でどこかに二言、三言話した。そこでくるりと瑞希を振り返った。
「今からあなたのご事情をお伺いしたいのですが、今回の件に関わりがありますし、大神を呼んでもよろしいでしょうか?」
瑞希は迷うことなく頷いた。雅の落ち着く金色の瞳が見たかった。
叶芽はまた二言、三言話すと電話を終えて瑞希の前の椅子に腰を下ろした。まもなくドアがノックされて可愛らしい雰囲気の女性がお茶を運んできた。
女性はティーポットから三人分のカップに紅茶を注ぐと静々と去って行った。ドアが閉まるか閉まらないかの内に再びノックがあって今度は雅が入ってきた。
今日も真っ黒。でもサングラスは外している。
雅の金色の目と視線がぶつかった。瑞希は慌てて目を前に戻した。雅は椅子には座らず壁に寄りかかって腕を組んだ。
「さて……それではまずあなたのお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
叶芽の言葉に瑞希はハッとした。
まだ名乗っていなかったなんて!
「魚住瑞希と申します。今朝は助けて頂いてありがとうございました。名乗りもしていなくてすいません」
瑞希はぺこりと頭を下げた。
「お気になさらず。
では、早速本題に入りましょう。今朝未明にあなたが巻き込まれた事件。そのあらましと経緯を教えていただけますか?
辛いことを思い起こさせてしまい申し訳ないのですが……」
瑞希は思わず俯いた。ひとつ呼吸をして気持ちを落ち着けると顔を上げた。
「はい、今朝三時頃、家に帰って……」
「大丈夫ですか?」
叶芽が話を遮って訊いてきた。じっと瑞希に視線を向ける。瑞希は心内を隠して微笑んだ。
「はい、大丈夫です。今朝のことなら出来るだけ早く話しておいた方が……」
「大丈夫では、ない」
今度は雅が遮った。見ると雅はいつの間にか瑞希の直ぐ側に立っていた。スッと床に片膝をついて瑞希と視線を合わせて顔を覗き込む。
「恐怖を押し殺している。お前が今から話そうとしているのは気持ちを押し殺した事実だけだ。それも今回の事件だけの。
だがそうではない。お前からは傷ついている匂いがする」
叶芽が何か言いたげに口を開いたが止めた。
「そ、そんなこと……」
「今朝のことだけではない。
初めて会った時からお前は悲しい匂いをさせていた。
ずっと長い間傷ついてきて深い、深い傷を負っている悲しい匂いだ。」
またしても瑞希の言葉を遮って雅は続けた。
「俺はお前の味方だ。何があろうとも、例え世界中を敵に回したとしても、お前の味方であり続ける」
瑞希の肩が揺れた。
どうしてこの人はこんな言葉を自分にかけてくれるのだろう。
「話してくれ。ぶつけてくれ。お前の気持ちを。このままではお前はいずれ壊れる。
助けを求めてくれ。」
雅の目は真剣そのものだ。眉をちょっと下げて心から心配しているように見える。
その時、不意に瑞希の視界が揺らいだ。驚いて頬に手を当てると涙に濡れていた。雅がそっとその手を取った。
温かい。
「俺はお前を助けたい。信じてくれ」
雅は大きな金色の瞳で真っ直ぐ瑞希を見つめた。
「た……助けてって言ってもいいの?」
瑞希の口からそんな言葉が思わず突いて出てきた。雅は力強く頷いた。
「俺にはそれができる術がある。必ずお前を助ける」
どうにもできないと思っていた。
ただ耐える事しか知らなかった。
誰にも話せない、話したところでどうにもならないと思っていた。
「うくっ」
瑞希の喉から嗚咽が漏れた。雅が立ち上がって瑞希を抱きしめた。驚いて息が止まる。
だがその温かさで溶けるように、今までずっと押し殺していた感情が溢れ出てきた。
大好きだったおばあちゃんが死んだこと。
飼い犬のタロと離れ離れになったこと。
よそよそしい伯父に引き取られてからひとりぼっちになったこと。
それと同時に始まったいじめ。
次第にエスカレートしていく伯父の暴力。
毎日一生懸命働いて得たお金を巻き上げられる日々。
独り立ちしたくてずっと貯めていたお金を取り上げられたこと。
伯父に売られたこと。
魔女から受けた傷の痛み。
冷たい海の水。
自分の足が尾鰭に変わったこと。
自分のものじゃないみたいに動かなかったこと。
声が出なくなった恐怖、人の死ぬ瞬間の恐怖、人の形をしたものが溶けて消える恐怖……。
瑞希は雅にしがみついて覚えのある限り初めて声を上げて泣いた。
「落ち着いたか」
雅の声に瑞希は離れた。
まだヒクヒクなって苦しいし、鼻も詰まっているけど涙は止まった。雅の声かけはいつも絶妙なタイミングだ。
叶芽から差し出されたボックスティッシュでチーンと鼻をかんだ。雅のスーツは涙と鼻水でベトベトだ。
瑞希は少し申し訳なくなった。そしてちょっと気まずく思った。
人前でこんなに泣いたのは初めてだ。
「あなたを助けたいと思っているのは大神だけではありません。私達皆そう思っています」
叶芽が少しむくれたように言った。
「あ、ありが、とう、ございま、す」
瑞希はズビッと鼻を啜ってしゃくりあげながら礼を言った。
「お、大神さんも、す、スーツ、すいません」
「雅でいい。洗えば済む。問題ない」
雅の話し方はまた元に戻っていた。雅はジャケットを脱ぐと今度は瑞希の隣に少し間を開けて腰掛けた。
その様子を見て叶芽はなぜかため息をついたがすぐに表情を整えて瑞希に向き直った。
「私のことも叶芽とお呼びください。
お客様の好みにもよりますが、ここでは大体下の名前で呼び合います」
瑞希はコクリと頷いた。しゃっくりはだいぶ落ち着いてきた。雅は少し前に出て瑞希の顔をまた覗き込んだ。
「お前のことを聴かせてくれ」
真剣な眼差しで瑞希を見つめる。瑞希はひとつ頷くと最初からぽつりぽつりと語り始めた。
瑞希が語り終えると叶芽は身を乗り出して瑞希の手に手を重ねた。雅の手とは対照的にひんやりと冷たい。
「ずっと一人で……耐えてこられたんですね」
憂いを帯びた表情で瑞希を見つめる。
雅は隣で微動だにしない。ところがグルルルという唸り声のようなものが聞こえてきた。
見ると歯を食いしばって剥き出していた。膝の上で握りしめた拳も震えている。
怒ってる。
「雅、押さえなさい。瑞希さんが困るだけですよ」
叶芽が厳しい声で雅を制した。雅の目がギラリと光る。
「雅!」
叶芽がメガネに手を掛けた。瞬間、雅がシューンと身を竦めた。瑞希は怒られた時によく耳が下がって萎んでいたタロを思い出した。
「失礼しました」
叶芽が瑞希に頭を下げた。瑞希は首を振った。
雅が瑞希の話を聴いて怒ってくれたことを少し嬉しく思っていた。
「さて、ここからは少し業務的な内容になりますが、お許しください」
叶芽は再び頭を下げるとキリッと表情を引き締めた。
「まず、あなたの戸籍についてですが、こちらはすでに魔女の手が回っているでしょう。
残念ながら、あなたは戸籍上死んだことになっているはずです」
瑞希は然程衝撃を受けなかった。
あんなものを見せられて、売り買いされるならなんでもありそうだ。
「そこで、あなたの今後についてご提案できる道が一つだけあります。
我々の用意した新しい戸籍で我々の保護下で生きる道です。
衣食住、就職、出かけることもできます。街でショッピングなんかも。寮を出て一人暮らし、結婚だってできます。
行きたければ学校も……生活全般を全力でサポート致します。
受けてくださいますか?」
「受けなくともこちらが勝手にするがな」
叶芽の説明に雅が付け加えた。叶芽は「余計なことを」とでも言うように雅を睨んだ。
「はぁ……まあ、そういうことです」
叶芽はため息を吐いて白状した。