第二十七話 愛から恋へ(下)
電車に乗ること五十分。広い芝生の公園へ着いた。
昼の名残りの風が気持ちいい。
木の側でレジャートートから小物を取り出してシートを広げる。雅がバスケットとコジローを下ろした。
「コジロー長旅お疲れ様」
瑞希はバッグからコジローを出して水を飲ませてやった。雅はランプを灯してシートのそばに置いた。
今日は夕方ピクニックだ。
広い公園は夏で平日で夕方だからかほぼ人がいない。
「気持ちいいですね」
瑞希は雅に話しかけた。
「そうだな」
雅の髪を風が揺らした。
「コジロー!ちょっと遊ぼうか」
瑞希がそう言ってフリスビーを手に取るとコジローは柴犬スマイルで目をキラキラさせながら寄ってきた。
「行くよー。そーれっ!」
瑞希がフリスビーを投げるとコジローは一目散に駆けて行きジャンプして咥えると、「もっとやって!」と持ってきた。フリスビーを受け取ると、瑞希はコジローを褒めておやつをあげた。
雅も投げて何度もフリスビーをして遊んだ。
子供の頃以来のシャボン玉を吹く。
大小様々な大きささのシャボン玉が穏やかな風に吹かれて宙を舞った。夕日色に光を反射するシャボン玉はなんだか幻想的だ。
瑞希は小さなシャボン玉を幾つも作ったり、大きなシャボン玉を作って遊んだ。
コジローはシャボン玉を追いかけて走り、跳ね回った。
雅はその様子を携帯端末を構えてこちらを見ていた。
散々遊んで日が落ちた頃に三人はお弁当を広げた。
コジローにもフードを入れてやる。
「おすわり」
「おて」
「おかわり」
「ふせ」
「まて」
までさせて雅と二人手を合わせた。
「それじゃあ、いただきます」
「いただきます。いつもありがとう」
「コジロー、食べていいよ!」
三人同時に食べ始めた。瑞希はサンドイッチのハムをほんの少しだけコジローにあげた。
食事が終わると遊び疲れたのか、コジローは丸くなって寝てしまった。
ランプの灯りに照らされて夕方から夜に変わる空を眺めながら、瑞希は立ち上がり、雅の真横にぴったりと寄り添って座った。胸が高鳴る。
雅は少し驚いた顔をしたがそのまま一緒に空を眺めた。
「雅……」
瑞希は話すなら今だと思って口を開いた。
雅がこちらを向いた。視線を捉える。
「私、今朝からおかしいんです。
雅にくっ付くと、とてもドキドキして苦しいくらいなのに、それでも、もっと一緒にいたくて、もっとくっ付きたくて仕方ないんです。
雅と話すと、目が合うと、それだけで胸が高鳴って言葉も噛み噛みになっちゃうんです。
雅がどう思うか、何を考えてるのかばっかり気になって仕方ないんです。
雅はこんな変な私を見てどう思いますか?」
そこまで言って瑞希は目を閉じた。
しばしの沈黙の後、頭の後ろに雅の温かい手が回された。グイッと体が引き寄せられる。唇に柔らかい何かが触れた。
そこで瑞希は目を開けた。サングラスを外した雅の顔が目の前にあった。
一度離れる。
「みや……」
瑞希が名前を呼ぶ前に雅はもう片方の手で瑞希の手を掴むと再び唇を重ねた。雅の目が上がった。熱を帯びた大きな金色の瞳と視線がぶつかる。瑞希の心臓が大きく跳ねた。
優しいキスを何度か重ね、雅は瑞希の開いた唇を舌でなぞった。くすぐったさを感じて身を引くと、雅は瑞希の頭を引き寄せて唇で口を塞いだ。瑞希の心臓は飛び出るんじゃないかと思うほど鳴っている。
瑞希の呼吸に合わせて雅は時に強く、時に優しくついばむようなキスをした。瑞希は心臓は爆発しそうなのに、妙な安心感を感じて雅に体を委ねた。
雅が瑞希の唇を再び舌でなぞり、今度は口の中へ入れてきた。舌が舐められて瑞希はまたくすぐったくて身を引こうとして雅に捕まえられた。
雅は舌を絡めて瑞希の口の中をゆっくりなぞった。瑞希はくすぐったいやら何やら訳が分からずぞくぞくした。
心臓はけたたましく鳴りっぱなしなのに、瑞希の体から力が抜けていく。
そこで雅は最後にもう一度普通の優しいキスをすると、瑞希とじっと視線を合わせたまま、ゆっくりと顔を離した。心なしか目が潤んでいる。
瑞希はもうくてんくてんだった。後ろ頭に回された雅の手に全体重を預ける。
「俺はお前に触れたいと思われて嬉しい。
胸が高鳴ると言われて俺の胸も高鳴った。
そんなお前を見て俺はお前の事が堪らなく愛しいという気持ちになった。
好きだ。瑞希。
最初からお前は俺の全てだが、お前が俺と同じ気持ちでいてくれる。それがこんなに、言葉に言い表せないほど嬉しいとは思わなかった」
そう言って雅は瑞希の手を離して体に回し、今朝のように強く抱き締めた。雅の心臓の音が伝わる。今朝寝ていた時より早い。
自分の激しい鼓動も伝わっているのだろうか。
「みや……みやびも、おなじきもちなんです……か?」
ぼーっとする頭でやっとのこと言葉を絞り出した。
「そうだ。お前と触れ合う時はいつも鼓動は高鳴りっぱなしだ。苦しいほどに。
それでいてもっと一緒にいたいと思う。触れ合いたいと思う。
お前にどう思われるか、お前が何を思っているのか、それを考えてばかりで常に頭がいっぱいだ。
好きという、愛しているという言葉だけではとても言い表せない」
ちょっと力を取り戻した瑞希は雅の頬に頭を擦り寄せた。心臓はまだバクバク鳴っているが、瑞希はものすごく安心感を感じていた。
「嬉しい……。
自分が今までこんな気持ちを抱えた事がなくて、どうしたんだろうって、不安だったんです。
でも、雅が同じように私を想ってくれてる。その事がとっても、とっても嬉しい。
雅、大好きです。
私は今、これ以上ない程幸せです……」
瑞希が夢見心地でそう言うと雅は体を離して瑞希の顔を見つめた。瑞希も見つめ返す。
大きな金色の瞳と視線が絡んだ。
雅はもう一度優しく口付けをすると、まだあまり力の入らない瑞希の体を傾けた。
ドサリと瑞希がレジャーシートの上に転がる。雅はその真横に手をついて、瑞希の頬を撫でた。
瑞希の心臓がまた高鳴り、顔に血が上った。
「ワンッ!」
そこでコジローが起きた。雅はハッと我に返った様子で赤くなり、眉を下げて横を向いた。体を起こす。
「ごめんごめん。すっかり夜になっちゃったね。
帰ろっか」
瑞希は起き上がると、まだふにゃふにゃなりながらコジローの側へ行って頭を撫でた。
電車に乗って家に帰り着くと瑞希は案外へとへとになった。
「おかえりなさいませ。楽しかったですか?」
流衣が玄関へ出てきた。
「「ただいま」です。
はい!とっても楽しかったです!」
瑞希は雅と声を揃えてただいまを言った。
「食後のお茶でも飲みながらお話を聴かせてください」
流衣は微笑んで瑞希達をリビングへ誘った。
流衣が淹れてくれた紅茶を飲みながら瑞希は今日のピクニックの様子を語って聞かせた。
「コジローを放してフリスビーをして遊びました。コジローったらこんなにちっちゃいのにすごいジャンプをするんですよ!」
瑞希は床から手を伸ばしてコジローがどれ程跳んだかを見せた。
「私の投げたフリスビーはあまり飛ばなかったんですけど、雅が投げるとすっごく遠くに飛んでコジローは最初取れなかったんですよ!
ねえ雅!」
「ああ。飛ばし過ぎた」
流衣はにこにこしながら話を聴いている。
「その後シャボン玉で遊びました。
コジローがまたシャボン玉を捕まえようとしてて可愛かったです。
日が傾いてた時間だったので、夕日に照らされたシャボン玉の色がとても綺麗だったんですよ!」
瑞希は目をきらきらさせた。
「子供の時、ピクニックによく、シャボン玉を持って行って遊んでいたんですけど、それ以来で久し振りで楽しかったです。
夕方にやったのは初めてでなんだか幻想的でした!
流衣にも見せたかったなぁ……。
今度、庭でやりましょう!」
瑞希が提案すると、携帯端末を操作していた雅が口を開いた。
「写真がある」
そう言って端末を差し出した。
「わぁ……」
瑞希は思わず声を上げた。
綺麗な広い夕焼け空を背景に、瑞希とコジローの姿が逆光で納められている。二人を取り巻くように浮かぶシャボン玉が夕日に染まって薄く虹色の輪郭を象っていた。
二人の表情は写っていないが手足の動きでまるで物語の一ページのようだった。
瑞希はシャボン玉をしていた時、雅が携帯端末を構えていたことを思い出した。
「美しいですね」
流衣も感想を漏らした。
雅は一旦端末を引っ込めると、今度は瑞希とコジローがフリスビーで遊ぶ様子を写した写真を見せた。
コジローの生き生きとした表情、瑞希の笑い声が聞こえてきそうな様子の伝わる写真だった。
瑞希は雅は写真のセンスがとても良いと思った。
「近くで見ても良いですか?」
瑞希が言うと雅は携帯端末を差し出して渡してきた。
受け取って流衣と一緒になって覗き込む。
拡大しようと指で画面に触れたらフリックしてしまった。
そこにはブレっブレの瑞希とコジローが写っていた。戻るを押してみる。
ライブラリには先程の写真と似た構図の画像がずらりと並んでいた。ブレたの、ピンボケしたの、写ってないの、などなど……。
雅は瑞希達が別の写真を見ていることに気づくと、慌てて端末を取り返した。
瑞希と流衣が見つめる。
「上手く撮れなかった。だから連写した」
雅は眉を下げて目を伏せ、恥ずかしそうな表情で言った。
「すごくいい写真でした。とっても好きです。
雅はすごく素敵な写真を撮れるんだなって思いました」
瑞希が感想を述べると、雅は目を輝かせてパアッと表情を明るくした。瑞希は褒められた時のコジローを思い出した。
「雅は写真、好きですか?」
瑞希が訊くと雅は頷いた。
「お前達を撮るのは楽しい」
瑞希は雅の新たな一面を知った。
「その後はどうされたんですか?」
流衣が訊いてきた。
「その後、コジローは寝ちゃって、雅と夕暮れから夜に変わる綺麗な空を見てました。
それから……」
そこから先のことを思い出して瑞希はボッと赤くなった。雅もそっぽを向いて赤くなっている。
「ず、ず、ず、ずっと空を見てました!!!それだけです!!!」
瑞希は慌てて流衣から目を逸らした。
「……へぇ」
流衣はものすごく含みのある微笑みを浮かべた。
「そうだ!!もう!寝ましょう!!!
明日もお仕事ですし!!!」
そう言って瑞希は立ち上がった。
歯を磨いたりお風呂に入ったりして、ベッドに入ると瑞希はあっという間に眠りに落ちた。
瑞希と「おやすみ」と挨拶を交わしてベッドに転がっていた雅が体を起こした。
ベッドから足を下ろして暗い部屋で瑞希の寝顔を見つめる。すーすーと寝息を立てる瑞希の顔は一段と幼い。
最近はオークションの悪夢にうなされることも減ったようだ。
枕元に立って瑞希の長い髪を一束手に取った。匂いを嗅ぐ。綺麗な水辺の花のような香りがした。
雅はこの香りが一番好きだ。
そっと髪を戻してしゃがみ込み、瑞希の寝顔を見つめた。
瑞希は殊に恋愛に関して、かなり幼い。
最初にキスをした時も、驚きと安心の匂いしかしなかった。
一週間瑞希の部屋で過ごした時は一緒のベッドで寝ようなんて言い出す始末。
一緒に住もうと言い出した時も本来それが何を意味する事かも分からず言っていた。寝室を一緒にする訳も。
いつもくっ付いている時も、安心と信頼の匂いしかしていなかった。
何度か雅がキスしようとした時も、ただただ不思議そうに見上げるだけで、自分が何をされようとしているのかすら分かっていなかった。
だから雅もこれでもかなり自制していた。今日までは。
昼から何やら腹の据わった様子を見せていたと思ったら、どうだ。
いつも自分が感じている狂おしい程の胸の高鳴りを瑞希も感じてくれている。
それでも一緒にいたい、触れ合いたいと心から思ってくれている。
自分と触れ合うことで興奮と喜びの匂いがした。
嬉しさのあまり今日、雅は自制心を失った。
何度か離れようとする瑞希を強引に引き寄せ、ぐったりさせる程に想いをぶつけるようなキスをしてしまった。
それでも嬉しいと言ってくれた瑞希の言葉に浮かれて、挙句の果てには危うく次の行為にまで移そうとしてしまった。
雅はしゃがんだまま自分の顔を覆った。
それでも瑞希は嫌がるどころか、喜びの匂いをさせていた。
いや、それは次に何が起こるか分かっていなかったからだ。
と頭の中で悪魔の囁きと良心が綱引きをする。
雅はその晩、眠れぬ夜を過ごした。
翌日出勤すると瑞希は叶芽に呼び出された。
「昨日はあの後どうなりましたか?」
デスクの上で組んだ手に顎を乗せ、にっこり笑って尋ねてくる。
瑞希は真っ赤になった。
「き、きちんと気持ちを伝えられました」
瑞希はそれだけ言うと視線を落とした。
顔から火が出そうだ。
「そうですかそうですか。それは何よりです。
雅の反応はどうでしたか?」
叶芽の目が細くなる。
「それは……その……あの、嬉しいって、自分も同じ気持ちだって言ってくれました。愛しいと思う、とも……」
瑞希は口ごもり、更に顔を赤くした。
「ほうほう。
でも、それだけではなかったでんじゃないですか?」
叶芽は口元を隠しながら訊いてきた。肩が揺れている。
「あの、あの、えっと……そ、その前にき、キスをしてくれました……」
瑞希の顔がこれ以上ないくらい赤くなった。
「どんなキスをされたんですか?」
叶芽は最早隠そうともせずに満面の笑みで追及した。
「それは、それ、は……あの、えっと……」
瑞希の視界が潤んだ。
叶芽は椅子から立ち上がると瑞希の前まで来て、肩に両手を置いた。
銀色の瞳が瑞希の目を覗き込む。
「瑞希、これはとても大事なことなんですよ。
あなたの相談に乗る上で、何がどうなったのか詳しく知る。
これ以上ない程の重要事項です。
これからもずっと良きアドバイスをするために。
さあ、深呼吸して……ゆっくりでいいので話して下さい」
叶芽は真面目な顔で声に喜色を覗かせてそう言った。
「い、言わなきゃダメなんですか?」
瑞希が目をうるうるさせながら訊くと叶芽は大真面目に頷いた。
「これも全てはあなたと雅のより良い関係を築くため。
絶対に必要なことなのです」
瑞希は洗いざらい白状させられた。




