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第二十六話 愛から恋へ(上)

 瑞希(みずき)の朝はそこそこ早い。

 流衣(るい)と家事を分担するようになって、その前は(みやび)と分担していたのでそこまで早く起きる必要は無いのだが、最早これは習慣だ。

 なんやかんやあった二月、三月頃はすっかり狂ってしまっていたが、長年染み付いた習慣はそう消えるものではないらしい。

 ベッドからそっと体を起こして隣のベッドを見る。

 隣ですやすやと眠る雅の整った顔はなんだかあどけない。

 瑞希は早く起きて出来た時間を瑞希はもっぱらこの寝顔を見ることに費やしていた。

 最近はオークションにかけられた時の悪夢を見ることもかなり減って穏やかな朝を迎えられる。

 これも雅のおかげだ。


「み、ずき……」


 雅が寝言で名を呼んだ。

 雅は時々寝言を言う。これをメモするのも瑞希のお楽しみの一つだ。


 本人には絶っっ対言えないけど。


 今日は二人とも休みの日だ。いつもよりゆっくりできる。


「ふふ。可愛いなぁ」


 瑞希は小さく呟いて雅の目にかかった髪を払ってやった。

 その時ガシリと手首が掴まれた。引っ張られてベッドに倒れ込む。


「どこにいってた」


 見れば雅の金色の目が半分開いていた。


「え?え??」


 今までこんな事は一度だって無かった。


 混乱する瑞希を他所(よそ)に、雅はベッドの上で瑞希を引き寄せ、いつもより強く抱き締めた。


「どこにもいくな」


 瑞希の頭に顔を(うず)めて頬擦りする。密着した胸から雅のゆっくりとした鼓動が伝わってきた。


「おまえはいつもいいにおいがする」


 雅は瑞希の頭の上でもごもご言った。


 いつもくっ付かれたり、抱き締められたりしても平気なのに、薄着で、こんなに密着しているというのがいけない。


 瑞希の心臓は爆発寸前だった。


「すー」


 雅の寝息が聞こえてきた。


 寝ぼけていたのか……。


 瑞希はまだドキドキする心臓を宥めながら、雅の腕の力が抜けるのを待ってそっと抜け出した。

 雅はまたあどけない顔で寝ている。


 はーびっくりした。


 瑞希は深呼吸を繰り返した。このドキドキはびっくりしたからだけでは無いような気がした。




「おはようございます」


「?おはようございます。何かありましたか?

 お顔が赤いですよ」


 二階で洗顔と着替えを済ませてから降りると、レースの敷物の上で洗濯物を畳んでいた流衣が尋ねてきた。

 瑞希はパッと頬に手を当てた。


 しまった。充分落ち着いてから降りてきたつもりだったのにまだ赤かったのか!さっき顔を洗った時には気づかなかった!


「な、な、なんにもありませんでした!よ?」


 瑞希が答えると流衣は僅かに目を細めた。


「そうですか……」


 なんだか含みのある言い方。


「コジロー!おはよう!」


 ケージの中で横っちょにズレたちょっと変なお座りして、待っていたコジローに挨拶して解き放ってやった。コジローは一目散に庭へ駆けて行った。流衣の目がまだ瑞希を追っているのが分かる。

 エプロンを身につけ、流衣の目の届かない台所へのたのたと逃げた。


 今日の朝ごはんは何にしようかな。


 携帯端末で検索をかけるが、集中出来ず画面の上を目が滑る。


 こんなことではいけないな。


 瑞希は検索をかけるのを止めて頬を叩くと、冷蔵庫から卵と牛乳、バニラエッセンスを取り出した。

 こんな時にはおばあちゃん直伝レシピに頼るに限る。

 今朝は休日におばあちゃんがよく作ってくれていた、フレンチトーストにすることに決めた。

 ボウルにたっぷりの卵と牛乳、少なめの砂糖にバニラエッセンスを少々加えてよく混ぜて卵液を作る。

 食パンの耳を取って半分に切って卵液に浸し、電子レンジに少しだけかける。

 チーンという音で完了すると取り出して、食パンを裏返してもう一度かけた。

 これが卵液をパンに染み込ませるコツらしい。

 余った卵液にパンの耳も浸して三度レンジへ。

 フライパンにバターを乗せて至極弱火で温める。バターが溶けたらパンを投入。そのままの弱火で蓋をしてじっくり蒸し焼きにする。

 焦げ目ついたかな?

 フライパン返しで焼き加減を覗いていると雅が起きてきた。


「おはようございます!」


 瑞希は元気に挨拶した。


「はよ……どうした」


「えっ?」


 瑞希はフライパンの上にパンを落とした。


「……赤い。熱でもあるのか」


 雅は瑞希の額に手を当てた。雅の手の方が温かい。


「ん。無いな。何かあったのか」


「な、な、なんでもないです!」


 瑞希はフレンチトーストに慌てて視線を戻しながらそう言った。ひっくり返してもう一度蓋を閉める。


「……そうか」


 雅は瑞希の複雑な心境を嗅ぎ取ったのか、何も訊かずにいてくれた。が、いつものように後ろからもたれかかってきて、瑞希の肩に顔を埋めた。引き締まった腕が前に回される。

 瑞希の心臓がまたドキドキと激しく鳴りだした。顔に血流が上がっていくのが分かる。


「ほんとにどうした」


「ひゃっ」


 耳のすぐ近くで聞こえた雅の声に瑞希は思わず飛び上がった。

 雅は体を離すと瑞希の肩に手をかけてくるりと振り向かせた。


「今日のお前はずっと混乱して興奮している。

 どこか悪いのか」


 と心底心配そうに眉を下げて瑞希を見つめる。

 瑞希はフライパン返しを胸の前で握りしめた。目が泳ぐのが分かる。


「どどどどどこも悪く無いです!ほんとに!本当に悪く無いんです!!

 今朝ちょっと恥ずかしい夢を見た!とか!!」


 訳の分からない言い訳を口走ってしまった。


「……そうか」


 雅はまだ疑わしい目で見ていたがとりあえず納得してくれたのか台所を出ていった。

 瑞希は胸のドキドキを後ろから聞こえるジュージューという音で落ち着けようとした。


 ん?ジュージュー?


「あーーーっ!!!」


 雅が飛んで戻ってきた。

 瑞希はフレンチトーストを少し焦がしてしまった。




 フレンチトーストは焦げを落としたら美味しく食べられた。

 家から近い川べりの木陰をコジローと瑞希と雅の三人で散歩する。

 コジローはあちこち匂いを嗅いで回ったり、スズメを追ったり楽しそうだ。

 瑞希もだいぶ落ち着いてきた。


 今日は一体どうしたんだろう。


 チラリと雅に目を走らせると、サングラス越しの雅の目と合った。またドキドキと胸が鳴りだした。瑞希は慌ててコジローに目を戻した。


「今日は……()めとくか」


 その様子を見て雅が声を掛けた。


「それは絶対嫌です!」


 瑞希は断固拒否した。


「様子が変だ」


 それは瑞希も思っている事だった。


「だ、だ、大丈夫です!で、出かけるくらい出来ます!出来ます!

 楽しみにしてるんです!」


 瑞希は鼻をふんすと鳴らして雅を見上げたた。


「そうか」


 雅はそれだけ答えると視線を前に戻した。途端、瑞希はもっと雅にくっ付きたい気持ちに襲われた。

 ただそばにいるだけでドキドキが止まらない。それなのにどうしようもなく雅にもっと近づきたかった。


 手だけでもでもいいから繋ぎたいな。


 でも、目が合うだけでこれなのだ。これ以上変に思われるのも嫌だ。雅にどう思われるのかが無性に気になって仕方がなかった。

 瑞希はコジローに視線を固定した。二月には生後一ヶ月だったコジローももう、七ヶ月。だいぶ重たくなった。

 瑞希が抱くとプルプルなって碌に歩けないから家までの日向は雅の抱っこだ。

 ウェットシートで足を拭き取り、放してやると玩具箱へ飛んでいって、ボールを取り出して持ってきた。キラキラした目で見上げてきた。


「走ってくる」


 雅はそう言うとそのままの格好で外に出ていった。雅は散歩くらいの運動量ではもちろん足りないので、よく遠くまで走りに行く。

 山まで行って狼にの姿になって走り回ることもあるそうだ。

 瑞希は少しコジローとボールや引っ張り合いっこで遊んだ。


「今回はこれまで」


 コジローはもうちょっと物足りなさそうにしていたが、お気に入りの椅子の下へと向かっていった。




 瑞希は流衣に頼み込んで今日だけ昼食の準備を任せて、二階の自室に上がって電話をかけることにした。

 相手は叶芽(かなめ)。一番親しい女性で、今の瑞希の親のような存在の叶芽に、この朝から続く不可解な現象を相談したかった。


 お昼前だけど出てくれるだろうか。


 三回コール音が続いた後叶芽が出た。


『はい、蛇元です』


「瑞希です。お昼前に、しかもお仕事中でお忙しいのにすいません。

 どうしても雅がいない間に相談したいことがあって……」


 おずおずと話を切り出した。


『どうしましたか?何かあったんですか?』


 叶芽の口調がお仕事モードから切り替わった。


「あのですね。今朝、雅にベッドに引っ張り込まれて……」


『ングっグフ!!!ゴッホゴホ!ゲホゲホゲホッッ!!!』


 瑞希が話し出すと叶芽が盛大に咽せた。


「だ、大丈夫ですか?」


 コーヒーにでも咽せたのだろうか。


『し、失礼しました。続きをどうぞ』


 叶芽は何かを取り(つくろ)ったような声で続きを促した。


「強く抱き締められたんです」


『んっふん!それで、どうなったんですか?』


 叶芽が変な咳をして嬉しそうに先を促す。


「そ、それだけだったんですけど……。それからちょっと私、おかしくなっちゃって」


 瑞希は思い出したらまた自分の顔が赤くなるのを感じた。


「いつもくっ付いたり、抱きついたりしてても平気なのに、今日は雅が後ろにもたれてきた時、心臓が爆発しそうになったり、声を掛けられると飛び上がってしまったり、目が合うだけでドキドキが止まらなくて……。顔がずっと赤いままなんです。」


 瑞希の口から堰を切ったように言葉が飛び出した。


『ほうほう、そうですか。あなた達はいつもそんなことを……。

 んっふん!いえ、なんでもありません。

 そうですかそうですか……』


 叶芽は喜色(きしょく)を帯びた声で何やら呟くと、また変な咳をして神妙に相槌を打った。


「私、どうしちゃったんでしょうか?

 なんだか自分が自分じゃなくなっちゃったようで、どうしようもないんです」


 瑞希は最後まで言い切った。


『瑞希、それであなたは雅と離れたいと思いましたか?』


「いいえ。むしろ一緒にいたい気持ちと、心臓が爆発しそうな感じが、ない混ぜになっちゃってどうしたらいいのか……」


 離れたいとは一度も思わなかった。いつも雅といると一緒にいたい、安心する、といった気持ちが湧いてくる。


 だが今日はなんだか違う。無性に雅にくっ付きたくなるし、ドキドキが止まらない。二つの相反する気持ちが混ぜこぜになって困っているのだ。


『ふんふん。そうですね……』


 瑞希がそのことを口にすると叶芽は考え込むように口を閉ざした。


『瑞希、それはですね……』


「それは……?」


 叶芽は焦らすように間を置いた。


『恋というやつですよ』


「恋?」


 瑞希は繰り返した。


「雅と私は恋人だったと思うんですが……」


 瑞希が思わずそう言うと叶芽が電話の向こうでニヤリとしたのが分かった。


『いえいえ。今までのあなた達は恋人というよりはむしろ老夫婦で正直つま……。

 ゴッホン。長年連れ添った老夫婦のようなものでした』


「老夫婦……」


 そんなに枯れていたのだろうか。


『ええ、そうです。

 安心と信頼の絆。恋人を飛び越えて家族に対するような愛まで行ってしまっていたのです。

 それでは枯れていたのと同じです』


 叶芽の声はとても嬉しそうだ。


「恋を飛び越えて……」


『ええ。

 若いあなた達に足りないのは刺激。ときめきです。

 愛は十分に育まれていますが、恋心と言うやつがやっと追いついてきたのでしょう』


 瑞希が繰り返すと叶芽は電話の向こうで頷いた。


「これが恋……。

 でも、こんなにドキドキしていたら体がもたないです」


 ドキドキし過ぎて苦しいくらいだ。


『瑞希、それはいずれ慣れますよ。

 今このこんなに面白いのに放っておくのは勿体な……いやいや。

 恋をすれば人は変わる。体の異変に気持ちが追いついていないだけ。大丈夫ですよ』


 叶芽は何やら呟いた後、優しい声でそう言った。


「雅の前で噛み噛みになっちゃうんです。

 もっとくっ付きたいのに、ドキドキしちゃって出来なくて……。

 雅にどう思われるのかが気になってしょうがないんです。

 こんなに変な私を雅はどう思うんでしょうか?」


 瑞希は自分の気持ちを吐き出した。


『そうですね。

 瑞希はもっと自分の欲求に素直になっていいと思いますよ。

 くっ付きたい時にくっ付く。そうすればいずれドキドキはその内慣れていきます。安心とドキドキの調和が取れるようになるでしょう。

 あと、雅の気持ちを確かめる方法が一つありますよ』


「ど、どうしたらいいんですか?」


 瑞希は食いついた。


『先程あなたが私に話した自分の気持ちを雅の視線を捉えてお話しなさい。そして目を閉じて待つのです。

 そうすれば分かりますよ』


 叶芽の声が震えている。


「ほんとですか?」


 瑞希は顔を明るくした。


『ええ。

 私は瑞希がこういった相談をしてくれたのが嬉しいですよ』


 叶芽は優しい声でそう言った。


「こちらこそ……お話を聴いて下さっただけじゃなくて、アドバイスまでしてもらって……。

 ありがとうございました。

 また困った時は相談させてもらってもいいですか?」


 瑞希は微笑んだ。


『もちろんです。仕事中だろうがなんだろうがあなたのことは最優先事項です。

 いつでも電話してきてください。

 いえ、むしろ逐一(ちくいち)報告してもらえるとありがたいです』


「はい。ありがとうございます」


 そんなに言ってもらえるなんて心強かった。


『では、それで。

 結果報告お待ちしています』


 そう言って叶芽の電話は切れた。




 下へ降りるとちょうど雅が帰ってきた。


「お帰りなさい!」


 瑞希は雅に抱きついた。心臓の音が最高潮に高鳴る。

 朝、雅は寝言で瑞希のことをいい匂いだと言ったが雅だっていい匂いがする。例えるならお日様の香りだ。

 雅は硬直していたがおずおずと瑞希を抱き返した。


「た……だいま。どうした」


 瑞希は雅を見上げた。視線がぶつかる。瑞希はどっと赤くなった。


「な、な、なんでもないです」


 離れてもドキドキしながらそう言った。


 雅はどう思っただろうか。話をするならやっぱり夕方の出かけた先がいいかな。


 振り返ると流衣と目が合った。


「お帰りなさいませ」


 と言って笑みを深くする。瑞希は顔の血流が逆方向にいくんじゃないかと思うほど赤くなった。

 流衣と雅と三人で昼食を取って少しゆっくりした後、瑞希は夕方の準備をした。

 パンにバターを塗って水気をしっかり切ったレタス、トマト、ハムや卵を挟んで飾り切りしたソーセージと共に大きなお弁当箱に詰める。フルーツをカットしてカップに入れた。途中でコジローが柴犬スマイルで覗きに来た。


「後でちょこっとあげるから今は我慢してね」


 瑞希がそう言うと首を傾げながらも退がっていった。


 カラトリーをリボンで纏めて、冷蔵庫から前日から冷やしていたオレンジの輪切りとミントを入れた水のボトルを二つ取り出した。

 ボトルと作ったサンドイッチとフルーツカップ、カラトリーを大きなバスケットに入れて、冷凍庫から凍らせたおしぼりを取り出す。ジップロックに入れてこれもバスケットに入れる。

 レジャーシートで作ったトートバッグにコジロー用の水と水入れ、オヤツとフリスビー、リード、フードとランプ、シャボン玉を入れた。


「コジロー!お出かけするよ!」


 瑞希がお出かけバッグを取り出すとコジローは飛んできた。


「雅!準備出来ました!」


 雅はスタスタとやって来て、コジローの入ったバッグを肩にかけてバスケットを持った。


「流衣……一人でお留守番させてしまってすいません」


 レジャートートを持った瑞希が流衣に声をかけると、流衣は微笑んだ。


「大丈夫ですよ。外で楽しい思い出を作って話してくれる。

 それが私の喜びですから」


 シルキーである流衣は外に長時間出かけられない。家を保つために。出ると家が崩れるそうだ。

 瑞希もにっこりした。


「それじゃあ行ってきます!」


「行ってくる」


「行ってらっしゃいませ」


 流衣に手を振って三人は駅まで歩いて行った。

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