第十二話 隣人の世界
「わぁ……」
入社の儀式の後、瑞希の見る世界は一変した。
仕事が終わって部屋で寛いでいた瑞希を、雅は寮のすぐ側の山へ連れ出した。
夜目の効く雅に抱き抱えられて通り抜ける山道には細かな光が舞っていた。
「隣人の通り道。精霊が通るとこうなる」
雅がボソリと説明した。
「驚くのは、まだ早い」
間も無くして、少し開けた地の大木の目の前に到着して雅はそう言った。
雅は瑞希を片腕に抱き直すと枝に手をかけひょいひょいと登り始めた。段々と離れていく地面に、瑞希は雅の首に回した腕を少しきつくした。
天辺近くまで登ると雅は瑞希に前を見るように促した。
「わぁ……綺麗……!」
眼前に広がる景色は美しい夜景だった。
山々や平地に隣人の通り道が淡く光り、遠くに街の明かりが見えた。
「お前にこれが見せたかった」
瑞希の反応に雅は満足そうにニヤリとした。
「ありがとうございます雅。最高の誕生日プレゼントです」
今日は三月九日。瑞希の誕生日だ。もう長いこと、誕生日を祝われたことのなかった瑞希は今日だけで三回も祝われた。
一度は現在研修中の総務課で。
総務課では書類運びや、お茶汲みなどの合間にワードやエクセルなどパソコンの使い方を習っている。
その総務課に今日出勤すると、入った瞬間にクラッカーを鳴らされ、「17」の数字の小さな蝋燭の立てられたケーキを差し出された。
二度目はお昼の時、叶芽から。白いパールの連なったの髪留めをもらった。
三度目は今、雅から最高の夜景をプレゼントしてもらった。
瑞希は感動に目を潤ませて雅の大きな金色の瞳を見つめた。
雅の目は優しさを帯びていた。
寮の前まで着くと雅は瑞希に白いリボンのかかった青い小さな箱を差し出した。
「開けてみろ」
瑞希はそっと受け取ると、リボンを解いて箱を開けた。
中には小さな雫型の石が下がった華奢な耳飾りが入っていた。吸い込まれるように深い、黒に近い、それでいて透明感のある青の石。
「霊青石だ。隣人の世界の石。水と相性がいい。持ち主に幸運を与えると言われている」
雅は耳飾りを取り上げると、瑞希の耳に着けた。
「お前の瞳の色に似ている」
瑞希は雅に抱きついた。瑞希の胸は感謝と幸せと嬉しさでいっぱいになった。
雅は瑞希から抱きつかれて一瞬硬直したが、すぐに抱き締め返した。
どちらからともなく体を離して、視線がぶつかる。雅は瑞希の肩に手を置いて、そっと顔を近づけた。
「大好きな水の石の匂いがするわ」
雅が固まった。見るとすぐ側に水を纏った手のひら大の小さな精霊が浮いていた。
雅の眉がみるみる下がる。
瑞希は好物を取り上げられた犬を思い出した。
精霊は燐光を舞わせながら、スイっと瑞希の目の前を横切って、二人の周りを周りをくるくる回った。
「あなたが噂の人魚ね?」
精霊の問いに瑞希は目を見開いた。
「うふふ。風の精霊に聞いたの。今ではもう、ほとんどいない人魚がネクストドアネイバースに入ったって」
精霊は小さな手を口に当てて可愛らしく笑った。
「私たち水の精霊はあなた達人魚が大好き。よろしくね?」
精霊は小さな手で握手を求めてきた。
「魚住瑞希って言います。よろしくお願いします」
瑞希が小指を差し出すと、先っぽをキュッと握った。
可愛い。
「うふふ。瑞希。いい名前ね」
精霊と瑞希はにっこりと笑い合った。
誕生日から二週間程経った頃。瑞希は朝食を食べながらテレビを観て目をぱちくりさせた。
『ごめんなさい!今日は魚座のあなた!とにかく悪いことが起きまくります!最悪な一日になるでしょう!
ラッキーカラーは黒!』
瑞希は朝食に目を戻した。
元よりこの手の占いは信じる質ではない。
『本当に本当に悪いことが起こります!黒を身につけてください!ご武運を!!』
あまりにもしつこいニュース番組のおまけの占いに瑞希は笑いそうになった。
結局瑞希は黒のニットのトップスに、ショートパンツ、黒いニーハイに、黒いショートブーツで出勤した。
たまには占いの忠告に従ってみるのもいいかもしれない。
そう思ったのだ。
しかし、今日は本当に不運の連続だった。
時計が壊れて少し遅刻した。
パソコンは突如画面が暗転し、故障した。
蹴つまずいて叶芽のマグカップを割った。
コピー機も故障し、紙を撒き散らし、極めつけは昼食時にまた蹴つまずいて熱々のカレーうどんを雅にぶちまけたことだった。
「本っっっっ当にごめんなさい!!!」
半泣きで雅にかかったうどんをとり除きながら瑞希は頭を下げた。
「いい。気にしてない。着替えに帰れば済む」
雅も自分でうどんを摘み上げながらそう言った。
熱かっただろうに顔色一つ変えてない。
「何か困っているんじゃないか」
雅が訊いてきた。
「それが……」
瑞希は馬鹿げてると思いながらも今朝の占いの事を話した。
「霊青石はどうした」
「落とすのが怖くて今日は置いてきちゃいました……」
雅の問いに瑞希はしょんぼりして答えた。
「そうか」
雅は瑞希の頭に手を置いた。
「あまり、気にするな。気にすると、悪い気が寄ってくる」
そう言って瑞希の頭を撫でた。
昼休憩の後、叶芽が瑞希を手招きで呼んだ。
「瑞希、申し訳ないのですがこの小包を他県の子会社の総務課へ届けてもらえませんか?」
叶芽は瑞希に薄茶色の紙に包まれた小包を差し出した。
「はい。わかりました」
瑞希は素直に頷いて受け取った。
エレベーターの脇の大きな扉の前に立ち、社員証を見ながら暗証番号を打って地名を入れて翳す。
ピーっと音がして扉のロックが解除されると、瑞希は届け先の支社へ足を踏み入れた。
支社を散々彷徨いて総務課を探し当てると瑞希はドアをノックした。
「はいはーい」
と声がして中から柔和な笑顔の男性が出てきた。
「お届けものです」
瑞希がそう言って小包を差し出すと男性はホッとした顔をした。
「あああ〜助かりました〜!
いやあ、うっかり無くしちゃって本部から新たに探してもらったんですよ〜!」
と嬉しそうに小包を受け取る。
「ではこれで失礼します」
「あっ待って!待ってください!!」
瑞希がペコリと頭を下げると男性は慌てて引き留めた。
瑞希が首を傾げると、男性は両手を合わせて瑞希を拝み倒した。
「これを届ける先に着いて来てください!お願いします!!」
「と、言いますと?」
瑞希は更に首を傾げた。
「届け先のおじいちゃん、遅れたもんだからそれはもうカンッカンなんですよ!
でも、可愛い女の子相手ならそこまで怒りません!
どうかお願いします!!
男性は瑞希の手を両手で握って涙目で訴えた。瑞希はその態度に圧倒されながら頷いた。
人気のない入り組んだ林の中を進む。
「いやあ、助かりましたあ。あそこのおじいちゃん、怒るとそれはもう怖くて怖くって」
男性がニコニコしながら瑞希を先導して足速に進んでいった。
一方、瑞希はそれにかなり遅れを取り、かなり後ろをのたのたと、一生懸命小走りに着いて行く始末だった。
「あ、あの、待って……あっ!」
瑞希はとうとズベリと転んだ。
「いたた……」
体を起こすと男性をものの見事に見失っていた。
「どうしよう」
と、その時、突風が吹いて、小包の紐に挟んであった、遅れたことを謝る旨の手紙が舞い上がった。
「あっ!待って!」
瑞希は小包を道の脇に置くと、のたのた走って追いかけた。手紙はひらひらと踊るように舞い飛んで瑞希を弄ぶ。
随分長いこと走ったところで誰かが紙をキャッチした。
「瑞希!」
この間の水の精だ。
「お久しぶりです。ありがとうございます!助かりました!」
精霊は宙を泳ぐように瑞希の元へやってくると手紙を手渡してくれた。
「でも、どうしてここに?」
「うふふ。私たちは川に沿って気の向くままに旅することがあるの」
瑞希が問うと、精霊は両手を口に当てて可愛らしく笑った。
言われて見ればここは小さな河原だった。
「私たちはよく川遊びするの。でも最近はなかなかできなく……逃げて!!」
精霊がそういうと同時に宙から人影が現れ、キーンと耳鳴りがした。瑞希は後ろに飛び退った。
人影は精霊を捕まえると立ち上がった。
黒いミニドレスを着て、腰までのツインテールの金髪と緑の瞳。魔女だ。
「あはっ。あなたは誰?あなたは何者?
精霊と話すなんてあなたも何かの能力があるのかしら?」
魔女は逃れようともがく精霊を握り締めた。精霊が苦しそうに呻く。
「そのひとを離してください!」
瑞希はカバンの底を、魔法陣の向こう側を探りながら魔女を睨んだ。
「キャハハッ。そう言われて逃す人がいるのかしら?」
魔女は更に精霊を握る手に力を込めた。
瑞希は素早くカバンから瓶を取り出すと、中身をばら撒いた。銀色の液体が宙に浮く。魔女は少し呆気に取られたような顔をした。
瑞希の周りの水銀が無数の矢に変わり、魔女に向かって発射された。
あっという間の出来事に魔女は避け損ねて腕を矢が突き抜けた。
精霊は手が緩んだ隙にすかさず逃れた。
瑞希は少しホッとした。
「へえー液体を操る能力かしら」
魔女は後ろの地面に刺さった矢を抜こうとして、手が突き抜けると顔を顰めた。
「この液体。何かすごくいやあな感じがするわ。
あなた本当に何者?」
「そう言われて答える人がいるんですか?」
瑞希が言葉を返すと魔女は笑った。
「キャハハハッ。それもそうね。あなたの体。欲しいわ」
そう言うと魔女は瑞希に手を翳した。
何か来る!
瑞希は直感に従って河原を転がった。一瞬前まで瑞希がいた場所に見えない何かが通り抜けた。近くにあった石がぱっくりと裂けている。瑞希は青ざめた。
瑞希は矢を魔女の四方八方へ回り込ませて応戦した。魔女は高速で走り、時に宙を飛び回り、全ての矢を躱していく。
瑞希は焦った。矢は益々狙いが逸れて外れる。
魔女が再び手を翳して何かを放った。
瑞希はそれを直感で跳び、転がって、奇跡的に川に落ちて逃れた。頬の浅い切り傷から血が流れる。
瑞希の髪色が僅かに明るく変わった。
すると、魔女は口が裂けたように吊り上げて、再び手を翳した。突如吸い込まれるような突風が巻き上がり瑞希の目の前に幾つもの竜巻が現れた。瑞希は碌に動けもせずにジリジリと吸い寄せられていく。肌を無数の風の刃が傷つけた。
ふ、と風が止んだ。瑞希が目を開けると魔女が目の前にいた。額に指が触れる。
「初めまして、私は風の魔女。あなたは人魚ね。『おやすみなさい』」
最後の一言と同時に瑞希が水の中へ崩れ落ちた。
魔女はすぐに気を失った瑞希を川から引き上げると、抱えて河原へ上がった。そして細い棒を取り出すと宙に光る文字で円を描いて、その中に跳躍して姿を消した。光文字は溶けるように消えた。
それを葦の茂みから水の精霊が震えながらじっと見ていた。
雅が柔和な顔の男性に掴みかかった。グルルと喉から唸り声が響く。
「なぜ、あいつを、置いていった!!!」
「す、すいません本当に、いつの間にかいなくなってて……」
雅の威圧に怯えながら男性は謝った。
「ごめんで、済んだら、警察は、いらない!!!」
「ひぃっ」
雅が男性を吊り上げたその時、雅の頭に鋭いチョップが下された。
「雅、気持ちは分かりますが、まずは瑞希を探すのが先決でしょう」
叶芽が厳しい目で雅を見つめた。ここは瑞希が小包を置いていった。林道の上だった。
雅は男性をひと睨みすると、下ろしてすん、と空中の匂いを嗅いだ。
「こっちだ」
一同を先導して走るように進む。進むにつれ、雅の顔色が変わった。
「魔女の楔……!!!」
叶芽が絶句した。何もない空中に赤黒い杭が突き立っていた。雅はそれを引き抜いた。
パキンッと音を立てて結界が割れるとそこにはもう誰もいなかった。
雅の唸り声が一段と大きくなった。
と、その時。雅の目の前に水の精霊が飛び出した。
「ああ……!よかった……!!」
精霊は黒目がちの目からポロポロと涙をこぼしながらそう言って雅に飛び付いた。
「ごめんなさい!ごめんなさい!!
瑞希が……私が捕まったのを助けて……!!!
助けを呼びに行こうとしたんだけど魔女の楔に邪魔されて……!!!」
精霊は雅のコートの襟に掴まるとさめざめと泣いた。
「魔女はどこで消えた」
雅は精霊に訊いた。
「あっち」
精霊が指さす方へ一行は向かった。雅はすん、と鼻を鳴らすと狼へと姿を変えた。空中の匂いを嗅ぐ。
「まずは本部に戻って準備を整えてから……雅もそれに……雅!」
叶芽の手が雅の尻尾を捕まえる前に雅は駆け出していた。精霊は雅の毛に捕まって着いていった。
「全く!もう!!すぐ本部へ戻ります!」
叶芽は男性にそう告げた。




