迷い蜂は夢の中(星花女子学園第11期キャラクター紹介2)
時々思い出すザッピングの中では、いつだって誰もいないリビングダイニングと、割れた食器とテーブルの上に置かれた五千円が息づいている。夜になると家に帰ってくる大きな人たちは、一人ずつでは静かに食事をしてからいなくなるのに、二人そろうといつも喧嘩をしてしまう。その人たちは、××がたまに粗相をすると酷く大きな声で罵って拳を振り上げて、××の存在を否定する。それが怖くて堪らなくて、××は子供の頃からずっと部屋の隅で毛玉のついた淡い黄色の毛布をかぶって過ごしていた。
学校に行っても、××はうまく他の人と話せなかった。最初は皆「一緒に遊ぼうよ」なんて誘ってくれるけれど、それにうまく返せないでいるとやがて眉根を寄せてみんな去ってゆく。やがて××が小学校高学年になると、話さない××になんて誰も近寄らなくなった。
××は酷く苦しかった。普通の人が普通に持っているものを、どうして自分は持っていないのか。いや、きっと見えなくなってしまっただけで持ってはいる────じゃあ、それが見えないのはなぜ?
××はずっと、そんながらんどうの自分を抱えて生きていた。腫れた頬、切れた唇の端、割れた食器、溜まるビール缶と瓶、居場所のない学校、将来。そこから逃げ出したくて、愛されたくて、許されたくて。そうしていつの間にか××の許可もなく生み出されたのは、明るくて、楽しくて、時々意地悪で、だけど人に愛される────そんな理想の人物キャラクターだった。
その人物が生まれると、××の中から××は見えなくなった。生きているけれど生きていない、見えるけれども見えない、まるでひと夏の夜の幽霊みたいなその人はいつの間にかひとりでに歩き出して大人になってしまって。だから置いて行かれた××は、すべてを『その人』にあげたのだ。全部好きなように生きていいよと、××なりの精一杯の愛をこめて────最もその人からすれば、それも迷惑な話なのかもしれないけれど。
愛想を振りまいて、適度に空気を読んで、たまに空気の読めない発言をして、『いいね』とか『嫌い』とか評価を貰って。そんなことだけが、いなくなりそうな『ハチ』を必死に繋ぎとめていた────だって今更、どこにもいけやしないのだから。
「かおるさん、もうすぐ夕飯出来るから机……って、あれ? 寝ちゃったんだ」
キッチンの方から名前を呼んでも反応が返って来ないことを不思議に思って覗きにくれば、かおるさんは夏休み後から転入する星花女子学園の資料を机の上に広げたまま、こくこくと船を漕いでいて。「どうしようかな」と思いながら、再度「かおるさん?」と先程よりも小さな声で呼びかけても、かおるさんは小さく寝息を立てていた。
(……どうしよう)
初めての出来事に戸惑って、とりあえずそっとかおるさんの下から資料を引き抜くと、どこかの高校の資料をパラパラとめくる。
(……星花女子学園? いつの間に貰ったんだろう)
少しの間資料やパンフレットに目を通すも、その内容もあまり良く解らず、資料を手紙やダイレクトメールを仕分けるために買った木引き出しのなかに書類を突っ込んで。それから────
「……ぶはっ!」
濡れたタオルをかおるさんの目元に落とせば、僅かにずれてしまったのか鼻の上にもかかってしまって。かおるさんは、目元のタオルをとると「……普通に起こしなさいよ」なんて不機嫌そうに呟く。
「聞いてるの、蜂谷。だいたい、今日の星花での態度も……」
くどくどとお説教を始めたかおるさんの話に首を傾げながら、夕食をキッチンからダイニングテーブルまで運んでいると、彼女は同じようにくどくどと文句を言いながらそれを手伝ってくれる。その様子を尻目に「かおるさん」と名前を呼べば、彼女は「何よ」と眉根を寄せたまま???を見て。僅かに幼さの残ったその顔に小さく笑いながら、「よだれ、ついてるよ?」と声を掛ければ、馨さんは夕食のエビフライが乗った皿をテーブルの上に急いで置くと一目散に洗面所の方へ掛けてゆく。その様子を尻目にテーブルの上にご飯と味噌汁を並べていれば、洗面所の方向から「蜂谷!」と怒りを含んだ声が飛んでくる。
「あんった、また嘘ついたわね! よだれなんかついてないじゃない!」「……あは、バレちゃった」
まるでぷりぷりと頭に擬音語が乗っているような様子でリビングまで戻ってきたかおるさんにそう返せば、かおるさんは「しんじらんない!」と怒りながら、冷蔵庫から麦茶の2リットルのペットボトルを持ってきて机の上に置くと、椅子を引いてハチの対面に座った。
「怒ってる?」「あたり前でしょ!」「あはは」
そう言うと、馨さんは「あははじゃないわよ」とひらひらと手を振る。それに対して返答に困っていれば、「ほら、夕飯だけは一緒に食べるって言ったの、あんたでしょ」とガラスコップに麦茶を注ぎながら、僅かに照れたように呟いて。「そーだった?」と返せば、「そうなの!」と返されてしまう。
「ほら、ご飯食べるわよ。いただきます!」「……いただきます」
かおるさんに倣って手を合わせながらそう言えば、対面に座った彼女は???の様子を見て満足そうに頷いた。「作ったのは???なのに、なんでそんなに嬉しそうなの」と言いかけて口をつぐむ。どうせ言われても、解らないような気がしたから。
「────ずいぶん大人しいのね」「……え?」
馨さんは味噌汁を左手に持ったまま、訝し気に???を見て。それに思わずごくりと唾液を呑み込むと「……っ、そっ、そうかな」と返せば、かおるさんは汁椀に口をつけたまま「ええ」と短く返す。
「うまく言えないけど、夕飯の前にちょっと寝るって言ってた時と今では、なんか────」
────肘が何かにぶつかったような感覚がした。僅かに遠くなった意識を引き戻したのは、かおるさんの「何やってるのよ!」と言う声で。それにはっと意識を引き戻して慌てて机の上を見れば、机の上に置いた半分くらいまで入っていた麦茶のペットボトルが倒れて、フローリングの床の上に零れていた。
「え、うわっ!」
かおるさんの言葉にふと自分の姿を見れば、部屋着の白いTシャツがびしょびしょに濡れていて。それに慌てて立ち上がれば、かおるさんは急いで洗面所からバスタオルを取って来ると、机の上の料理を台所へ移してから、麦茶まみれになってしまった机の上を拭く。それに慌てて手伝おうとすれば、「良いから、あんたは着替えてきなさいよ!」と言って自室の方へ押しやられる。
「ごっ、ごめ、」「謝ってる暇があるんならさっさと着替えてきなさい!」
かおるさんはそう言うと、「あー、もう!」と言いながら茶色に染まったバスタオルだけでは追い付かなかったのか、キッチンの小引き出しから布巾を何枚か取り出して。???はその様子を尻目に、急いで自室へ向かう廊下をぱたぱたと走る。濡れたTシャツが張り付いて、やけに気持ちが悪かった。
(おこられる、おこられる、おこられるおこられる………!)
冷えてゆく身体とは対照的に、心臓は酷く心拍数を上げてゆく。呼吸は酷く苦しくて、うまく息が出来ない。濡れた服を持つ自分の手が、やけに震えている気がした。
???は慌てて濡れた服を部屋の隅に隠すと、クローゼットの中からTシャツを引っ張り出して身に付ける。
(大丈夫、大丈夫、大丈夫大丈夫大丈夫……)
僅かに震える自分の身体を抱きしめるように左腕で右腕をぎゅっと握れば、ふわりとするような感覚に包まれて、そのままゆっくりと意識を手放した。
────鈍く光る銀色のドアを開ければ、濡れたタオルを持った馨さんがゆっくりとこちらを振り返る。「ずいぶん遅かったわね」と言う馨さんの態度はいつも通りで。それにへらへらと笑い返しながら「ごめーん」と言えば、馨さんは「別に、大したことじゃないわ」と言って、濡れたタオルを洗面所の方へ持ってゆく。
「いやー、なんか気がついたら服濡れてるしびっくりしたよ」
へらへらと笑いながらそう言えば、馨さんは一瞬だけ「は?」と呆気に取られたような表情でハチを見て、何か言いたげに口を開くも、思い直したように口を噤む。それから僅かに眉間に皴を寄せると、「……蜂谷」と名前を呼んだ。
「……蜂谷」「んぁ? なに、馨さん」
洗面所へ向かう途中の馨さんに呼び止められて振り向けば、馨さんは何とも言えない表情をしたまま「……あんた」と呟く。
「……あんた、本当に大丈夫なの?」
僅かに不安げにこちらを見る馨さんに「えー?」と適当に返して。「だいじょーぶだよォ」とひらひらと手を振る。
「だいじょーぶだよォ、別に」「……そう。なら良いけど、無理しないで休める時には休みなさいよ」
馨さんはそう言うと、濡れたタオルを持ったまま今度こそ本当に洗面所の方へ向かって。その後ろ姿を見送りながら自分の席に着くと、指先でそっとダイニングテーブルを撫でて、思わず「あれ?」と呟いてしまう。
「────なんでテーブル、濡れてんだろ」
洗面所の方では、馨さんが洗濯機を回すゴウンゴウンと言う低い音が聞こえている。ハチは少しの間ぼんやりとそれを眺めると、キッチンの小引き出しから乾いた布巾を取り出して拭いた。