95. 仲良く、は努力目標
教会の敷地内にある衛兵たちの訓練場の片隅で紙飛行機が一機、少し上下左右にふらつきながら飛んでいく。
その紙飛行機は、トッ――という軽い音と共に木に縫い留められた。
機体を貫いているのは小さな投擲用のナイフだ。
「おおー」
紙飛行機を投げたルルシアがぱちぱちと拍手をするものの、ナイフを投げた本人のアドニスは納得していないらしく眉間にしわを寄せて手のひらを握ったり開いたりしていた。
「すごいな、あんなにふらふら飛んでるのに当たるのか」
訓練場の壁にもたれかかって眺めていたディレルが感嘆を込めて言った言葉に対し、アドニスは静かに首を振った。
「ふらふらしててもまっすぐ動くなら軌道が読みやすいから何とか当たる、っていう程度だ。もっと動き回るやつは無理かもしれない」
「今くらいのでも十分実用レベルだと思うけどね」
ディレルの言う通り、先程の紙飛行機はそれほど大きくないにもかかわらず、十メートルほど離れた位置から当てられるというのはかなり実戦レベルではないかとルルシアも思うのだが、本人には飛び方や投げる時の感覚にどこか違和感があるのだろう。
「もうちょっと変則的な動きするやつも作れますよ? 試してみます?」
「今のよりも更にか…そうだな、たのむ」
「あいあいさー」
今やっているのはアドニスの手の回復具合のチェックの一環である。ルルシアが紙飛行機を投げて、その紙飛行機をアドニスがナイフで狙うのだ。
鳥型や昆虫型の魔物のような小さくて空中を動き回るものを想定した戦闘の訓練として、ひれをつけて少しだけ不規則な飛び方をする布製のボールを投げて狙う練習方法があり、始めはそれをやろうとしていたのだが――ルルシアが、自分の弓の練習に滞空時間の長い紙飛行機を使っていたと話したところ、訓練場にいた衛兵たちも興味を示したのでやってみることになったのだ。
ボールの場合は誰かに投げてもらわねばならないのだが、紙飛行機ならば一人で飛ばせるので練習がしやすく、衛兵たちにも好評だった。
まさかルルシアも、生まれ変わった先で紙飛行機の折り方や飛ばし方の知識がこんな風に役に立つ日が来るとは思わなかったが。
アドニスの戦闘スタイルは短剣や短めの片手剣で懐に飛び込む近接タイプで、さらにナイフの投擲による短~中距離攻撃を組み合わせている。以前のテインツ教会での戦闘ではあのキンシェと渡り合っていたので、元々の実力は相当なものだろう。
だが、今は――。
斜め下に向かって飛んでいた紙飛行機が突然ぐわんと軌道を変えて浮かび上がる。そこに飛んできたナイフがパサッと乾いた音を立ててかすり、飛行機はへろへろと地面に落ちていった。
「チッ…やっぱだめだな」
「今のはかすった時点ですごいけどな…」
「わたしもそう思う…」
(十分だと思う…けど、本人としては悔しいだろうね)
神の子の癒しは、予想通り瘴気の後遺症に対しても十分な効果を発揮した。
おそらく軽い症状であれば一度の癒しで完全な回復が見込めるだろう。だが、アドニスの症状は重すぎた。――今回の実験では足も手も完全に回復させることはできなかったのだ。
と言っても、引きずっていた足は少しこわばりが残る程度まで改善。手に関してはまだだいぶ痺れが残っているため以前のように剣を振るうのは難しいという。が、先程の腕前だ。
少しの間アドニスは自分の指を見ていたが、ふと思い出したように顔を上げた。
「そう言えばあのエルフ人間はいないのか」
「エルフ人間…セネシオさんなら情報収集するって言って…街に行きました」
人間の姿に変身しているエルフだからエルフ人間なのだろう。
ルルシアはアドニスが今までセネシオの不在に気づいていなかったことに驚いた。あれだけインパクトのある人物の不在に気付かないほど、自分の回復度合いを試したいという気持ちが強かったのだろう。
「直近の国境付近の様子を知ってる人がいたら聞いてくるって言ってたけど…やたらご機嫌だったし、どこに何をしに行ったんだかわかんないけどな」
「ああ…なるほど」
ディレルの微妙に呆れを含んだ言葉に、アドニスは同様に呆れたように頷いた。アドニスはエフェドラに来るまでセネシオとの接点はほぼなかったはずだが、それでもディレルの言いたいことが分かったようだ。さすがセネシオである。
「でも、この分ならサイカ行きは大丈夫ですね」
「そうだね。自分の身を守るくらいはできるでしょ」
「…まあ、自分一人ならなんとかなる」
「最悪ルルが怪我しないように盾になってくれるんならなんでもいいけど」
「ディル!」
和解したのかと思ったのに! とルルシアは眉を吊り上げたものの、それを言われたアドニスが何のためらいもなく頷いたのを見て目を丸くする。
「元よりそのつもりだ」
「ええ、重っ…命は大事にね?」
「それをルルが言うの一番説得力ないよ?」
「うっ…」
ジトっとディレルに睨まれてルルシアは目をそらす。そもそもディレルがアドニスに対して怒った原因は、彼とシャロを助けるためにルルシアがうっかり死にかけたからだ。確かに説得力がない。
そしてアドニスの覚悟が重いのも、ルルシアがそうやって敵であったはずのシャロを助けたからである。全てルルシアの行動の結果だ。
「とにかく! 皆無事に帰ってくるの。あ、それと皆仲良くね」
「うーん…仲良く、は努力目標だね」
「必達目標だから!」
努力はするってば、とディレルは笑いながら木に刺さったままになっていたナイフを抜いてアドニスに渡した。
「ま、予定通り明後日出発かな」
「ああ。そうなるだろうな」
明日は二回目の癒し実験。そして明後日サイカに出発して、戻ってきたら再び実験。ルルシアたちはそこでテインツへ引き上げるが、アドニスは実験終了までエフェドラに留まることになっている。
歴代の神の子の記録と、ハオルたちのこれまでの経験によると、神の子による『癒し』は一定期間内に回復できる上限値のようなものがあるらしい。
例えば、一回目の癒しでHPが十まで回復したとして、その同じ日は何度癒しを施してもそれ以上回復することはない。でも次の日もう一度やると十五や二十まで回復する――という塩梅だ。
この『一定期間』というのは一日だったり一か月くらいだったりと、癒しを受ける人の体質によるのか症状によるのかははっきりわかっていない。比較的症状が軽い場合や症状が出て間もない場合は一日経てば再度癒しの効果が出ることが多く、逆に症状が重い場合や長く患っている場合は長い期間空けないと効果が得られないことが多いそうだ。
アドニスはおそらくその上限値に引っかかったせいで一度の癒しで完全回復できなかったのだと考えられるため、一日置いて再び癒しを試してみて、それで回復しなければ期間を空けて再挑戦を何度か繰り返す…という計画である。
現状、瘴気による後遺症は医学では有効な治療法が見つかっていない。神の子の癒しが唯一の治療法となるかもしれない、ということで実験に協力している医者も非常に乗り気らしく、他にも後遺症を抱える患者を探して実験を重ねる方向で話が進んでいるようだ。
神の子の奇跡は不治の病や死に至るような重傷には効果がない。神秘の力なのか、医学の力なのかの違いだけで、出来ること自体は医者と変わらないのだ。だが神の子の力を特別視するあまり、医者に掛かれば治療できる症状でも神の子の奇跡に頼りたがる者は多く、癒しの順番待ちの間に悪化して病院に担ぎ込まれる…という事例が後を絶たないらしい。
けがや病気は医者へ、瘴気関係は教会へ――という棲み分けが出来ればそういった事例が減り、医者としてもやりやすくなるのだろう。
「あ、そうだ。まだちゃんと言ってなかった。…まだ完全じゃないけど、アドニスさんの体が良くなってよかったです。シャロさんも絶対喜びますよ」
ルルシアがそう言ってにへっと笑うと、アドニスは「ああ」と目を細め、ふ、と少しだけ笑った。
「…ありがとう。あんたのおかげだ」