86. ドナドナ
ごとごとごとごと、がこっ、ごとごと……
ルルシアは荷台の縁に手をかけ、ゆっくりと後ろに流れていく地面を見つめていた。きちんと舗装されていない道は時々大きくへこんだり盛り上がったりしているのでその上を車輪が通過するたびにゴテンッと揺れる。
(なるほど、これがドナドナされる子牛目線……)
今乗っているこの馬車は、荷馬車と言っても幌が装着されているので幌馬車と呼ぶのだろうか。ランバート家や教会で乗せてもらった箱馬車とは違って壁も窓もない。地面の凹凸から来る衝撃を吸収してくれるサスペンションもないのですべての衝撃が伝わってくる。一応座れるようにベンチはあるのだが、ただの板を金具で固定しただけのもので、不要なときはパタンと畳める構造になっている。
要は、荷物を運ぶことを目的とした荷馬車に幌がついたものに乗っているので、なかなかに快適とはいいがたい。
馬車にはルルシアの他にセネシオとディレル。そしてムスッとした顔のアドニスが乗っている。馬車を操るのは冒険者ギルドから派遣されている御者だ。ダールという名前で、もう七十歳近いというだいぶ老年の男性なのだが、背筋はシャンと伸びていて若々しく見える。
ダールがエフェドラの出身だと聞いたセネシオは、御者台の方に行ってエフェドラ今昔のような話をしている。そちらの二人は楽しそうに話をしているが、ルルシアたちのいる荷台の方は沈黙が落ちていた。
ディレルは馬車が出発して早々に布にくるまって眠ってしまった。こんなに乗り心地の悪い中だというのに起きる気配はない。この旅程に加わるため魔術具制作の受注をしばらく止めると仲介のセダムに伝えたところ、どうしても、という駆け込みで何件か請けることになってしまい、結局ギリギリまで仕事をしていたらしい。
そして、当然といえば当然だが、アドニスは黙り込んだままほぼ喋らない。誰かが何かを尋ねれば最低限の返事はするものの、その他はじっと黙って荷台の床板を睨んでいる。
アドニスは現在、手かせや足かせのような拘束具は付けられていない。今ここで暴れだして馬車から逃げ出すことが容易にできる状況だ。どうやら根が真面目な彼は、罪人に対していい加減な警備体制のこの状況が気に入らないらしい。
実際のところ、彼が暴れ出せばディレルがすぐさま起きるだろうし、ルルシアとセネシオは魔法を使えるので多少離れたところまで逃げられてもどうにかできる。それにアドニスは仲間の手引も見込めない――どころか、彼が大事にしているエルフの少女の身柄はテインツ議会に掌握されている――状態で、逃走が成功する目など皆無なのだが。
「…………おい、そこの黒髪」
「……へ、わたし?」
黙りこくっていたアドニスが不意に口を開いた。
ぼんやり道を眺めていたルルシアが驚いて振り返ると、彼は眉根を寄せて非常に不愉快そうな顔をしていた。
「……その辛気臭い歌、やめろ」
「うた? ああ、無意識に歌ってました……」
どうやらルルシアは無意識に、可哀そうな子牛が売られる歌を口ずさんでいたらしい。確かに今まさに荷馬車に揺られて運ばれているときには聞きたくない曲である。
「無意識に歌うって……何でそんな辛気臭い歌が無意識に出てくるんだよ……」
「わたしが昔いた地域では、子どもたち全員がこの歌を学校で習うので、染み付いてるんですよ。荷馬車といえばこの歌、みたいな」
「……どんな学校だよ……」
「……確かに、改めて考えるとなんでこんな歌覚えさせられるんでしょう……」
ハッとして考え込んだルルシアを見るアドニスの顔には完全に『何なんだこいつ』という言葉が書かれている。彼の目は完全にルルシアをイロモノとして捉えているようだが、ルルシアからしてみれば一般的な日本の教育を受けた結果というだけのことであって、そんな目で見られるのは何となく釈然としない。
ルルシアがむう、と口をとがらせていると、アドニスは眉をひそめてまた視線を床に落としてしまった。
会話が途切れたものの、道を眺めているとまた無意識にドナドナしそうだったのでルルシアは這い這いしながら寝ているディレルのそばまで移動する。そしてすこし乱れたディレルの髪を手ぐしで整えながら、ちらりとアドニスに視線を向けた。
うつむいたアドニスの顔色は青白い。
彼は魔獣からシャロをかばって負った背中の傷がまだ完治していないのだ。そして高濃度の瘴気に長時間晒された影響で手足がうまく動かせない状態である。顔には出していないが、おそらくこの揺れる荷台では座っているのも辛いのだろう。
――ちなみに、そう思ってルルシアは馬車に乗り込む時に毛布をクッション代わりに敷いたらどうかと提案したのだが、眉をひそめられただけで黙殺されてしまった。毛布を手にしたまましょぼんとしていたら、その毛布はディレルが受け取ってくれた。
アドニスは胡桃色の髪に浅葱色の瞳というテインツではよく見かける色合いで、顔立ちもこれと言って特徴がない。
もともと痩せ型だったが怪我の療養のため前よりも肉が落ち、頬が少しこけている。そのせいで少し年齢が上に見えてしまう。そもそもルルシアは彼の年齢を三十代前半くらいだと思っていたのだが、実は二十六歳でディレルとそれほど変わらなかった。しかも今は前より老け込んで見えるので三十代後半、下手したら四十代くらいに見える。ディレルが童顔なせいもあって、二人が並ぶと良くて兄弟、最悪親子に見えてしまう。
「一旦休憩だってー」
そこに、御者台の方からセネシオの声が聞こえた。
馬を休ませるための休憩である。何回かこういう休憩をはさみながら途中の町で一泊し、エフェドラに到着するのは明日の予定だ。
いつも馬もしくは徒歩移動で野宿ばかりのルルシアは出発前、初めて乗る幌馬車と途中の街での宿泊予定に少しテンションが上がっていたのだが、馬車の揺れがひどすぎて既に地を這うレベルまで落ちている。
本当ならば長距離用のサスペンションのついた馬車を使いたかったところなのだが、そういう馬車は魔工祭の後約一月程度の間、観光客や商用目的で訪れた者たちの帰りの足として利用されるため、テインツから各地へと散らばってしまい台数が激減するのだそうだ。
もうしばらく待てば散らばっていた馬車が戻り始めるのではないか……という話もあったのだが、いつになるか正確にはわからず、しかもオズテイルで囚われている人物の安否も気になる。
そんなわけでルルシアたちはガタゴトとドナドナされているのだ。
一応、途中の街を越えると街道がもう少し整備されて馬車の揺れもましになるという話なのでそれに期待したい。
だんだんと馬車の速度が落ち始め、ガコンっという衝撃とともに停止した。
「ぎゃ」
その揺れに全く備えていなかったルルシアは見事によろけ、ゴッと鈍い音を立てて後頭部を柱にぶつけた。
「……なんかすごい音したけど大丈夫?」
「大丈夫……」
馬車が止まったからなのか、ルルシアが頭をぶつけたからなのか、目を覚ましたディレルが、頭を抱えたルルシアに戸惑ったような視線を向けてくるのがいたたまれない。アドニスには『大丈夫かこいつ』という顔をされた。
ここにいたのがライノールだったら指をさして大笑いしていただろう。
「大丈夫か嬢ちゃん。荷馬車で長距離は慣れないときついからな」
ルルシアが頭を擦っていると、御者台からダールが覗き込んで声をかけてきた。ぶつけた音が外まで響いていたらしい。
ダールが「ほら食いな」とプラムの実を数個投げてくれたのでありがたく頂いておく。
「今日泊まる町でうまく都合が付けばサスペンションのついた奴に乗り換えられるんだがなぁ……」
「……期待してます」
「だが、あまり期待するとだめだった時倍疲れるからな」
「はい……」
貰ったプラムにかじりつくと、甘酸っぱい果肉が慣れない揺れで疲れた体に染み渡っていった。