70. 魔族の子供
本当に小さい頃は普通に過ごしていた。
多分そのころに一緒にいた女が母親だったのだと思うが、その女はシャロが物心ついてしばらくしたころには寝たきりになっていて、気が付いたらいなくなっていた。多分死んだのだ。
瘴気は、気が付いたら自然と作り出せるようになっていた。
自分の魔力を手のひらの上に集める。それは始めは透明で目に視えないのだが、手のひらにもう少しだけ魔力を足してやると真っ黒に染まる。その黒い魔力は宙に放るとしばらくふわふわと漂って、少しずつちぎれて消えていく。瘴気を作り出してそれで何かをしようとか考えてのことではなく、単純にその様子をぼうっと見守るのがシャロにとっては手遊びの一つだったのだ。
シャロの作った瘴気は他の者には見えないらしく、シャロがその遊びをしていても誰も気が付かなかった。なので、家の中が他と比べて瘴気の濃度が高かったことにも誰も気が付かなかったらしい。母親だと思われる女が寝付いたのも瘴気のせいだったのだろう。
母親がいなくなった後、シャロは他の大人の家に引き取られた。
しばらくしてその家の大人も倒れた。そしてシャロ自身も蝕まれていった。
その頃にはシャロも、自分の作り出す黒い魔力が瘴気と呼ばれるもので、体に悪い影響を与えるということはなんとなく理解していた。だからなるべく瘴気を作らないように気を付けていたのだが――幼い頃から手遊びとして繰り返していたせいで、ぼんやりしていると無意識に作り出してしまうのが癖になっていたのが災いした。
たまたま外にいるときに作り出した瘴気が、シャロの周りの草を枯らしていったのを見られてしまったのだ。
「やっぱりお前が瘴気を作り出してたのか…!」
瘴気そのものを見ることができなくても、目の前で見る見るうちに草が枯れていけばそこに瘴気があることは誰でもわかる。
そこに居合わせたのは、デュランという男と、他の大人たちから森長と呼ばれていた男の二人だった。デュランはシャロの教育係だったが、いつも他の大人のいないところでシャロを叩いたり、シャロのために用意された食事をひっくり返して食べられなくしてしまうので苦手だった。そのデュランが顔色を変え、上ずった声でわめきだした。
「おかしいと思ったんだ。この黒い目は魔物そのものだ。シレネは、こいつの父親が戦いで死んだと言っていたが、それがエルフだったのかすらも怪しい」
「落ち着けデュラン。黒い目を持つエルフだって少ないがいないわけじゃない。それにこの子の父親はきちんと他の集落に所属していたエルフだ」
「瘴気を作るなんて魔物だろ!それか…魔族だ。シレネは魔族に魅了されたんだ!」
「デュラン!いい加減にしろ!魔族なんて存在しない。お前がシレネを慕っていたのはわかるが、子供に言いがかりをつけてあたるな。それにお前は今、シャルロットだけじゃなくシレネのことも侮辱しているんだぞ?」
「じゃあこの瘴気は何なんだよ!こいつが魔族の子供じゃないならなんでこんなことができるんだ!瘴気を作るエルフなんて聞いたことがない」
「…近々、オーリスからこの森の魔物の増加について調べたいという者たちが来る。魔物や瘴気について造詣が深いと聞いている。シャルロットのことは彼らに相談してみる。それまでこの子は離れの小屋に隔離して、たとえ瘴気を作っても外に漏れないよう結界も張る。それでひとまず危険はないだろう?」
「魔族なんて殺せるときに殺さないと何をやらかすかわからないだろ!」
「今のお前は冷静じゃない。少し頭を冷やせ!」
二人の男の言い争いは、森長がデュランを宥める形で終結した。そのあとシャロは森長に離れの小屋に連れていかれ、そこに閉じ込められた。
「シャルロット、しばらくここから出られないが我慢してくれ。それと、ここは瘴気を通さない結界を張ってあるから瘴気を作り出すと部屋の中に充満してお前自身が苦しい思いをすることになる。どうかお前自身のために、ここでじっとしていてくれ」
森長は「こんなところに閉じ込めてすまない」と言い残して小屋から出て行った。そして鍵のかけられる音がして、足音が離れていった。
そのあとは一日に二度、誰かが食事を持ってきてくれる他はただひたすら一人でぼんやりと格子の嵌った窓から外を眺めて過ごした。
そうして何日たったのかよくわからないが、ある日の暗い闇の中、小屋の扉が乱暴に壊された音がした。月の明かりを背負って、暗い小屋の中にさらに黒い影を落としたその男、デュランの目は完全に狂気に染まっていた。
「他の森から調査に来る連中がいる。……お前が見つかったら、シレネが魔族なんかに魅入られたことが知られちまう…シレネの名誉のためだ。お前は死なないといけない。魔族の子供なんて、生まれてきたことが、生きてること自体が罪なんだよ」
デュランの手には剣が握られていた。振り上げられたその剣に月の光が反射して、殺される、と思った瞬間――シャロは咄嗟にデュランに向けて瘴気の塊を撃ち出していた。
ゴトンッと重い音を立ててデュランの体がその場に倒れる。
殺してしまった?
動かなくなったデュランに、シャロは恐る恐る近づいた。どうしよう、誰かを呼ばなければ。でもここから出てはいけないと言われた。混乱しながら、無事かどうか確認しようと手を伸ばした。その手が、掴まれた。
「邪悪な魔族…!俺からシレネを奪って!俺も殺すつもりか!!…そんなことはさせない。殺してやる…!!」
ぎりぎりと腕をちぎらんばかりに強く握りしめられ、動けなくなったシャロの顔の目の前に男の手がかざされた。魔力の集まる気配がする。魔法を撃つつもりなのだ。こんな近くで魔法を撃たれたら、死んでしまう。
「や、だ!」
叫びとともに目の前の景色がぐにゃりと歪んだ。そして一瞬だけ真っ暗になり――次に明るくなった時にはシャロは森の中に立っていた。
なぜ自分が森の中にいるのかはわからなかったが、デュランが追ってくるかもしれないという恐怖からシャロは闇雲に草をかき分け歩き出した。そして気付いた時には、周りを魔物に囲まれていた。
オオカミだろうか、野犬だろうか。集落の外に出たことのないシャロには見分けるだけの知識がなかった。分かっているのはそれがとても危険な生き物で、シャロが自分の身を守るためにできる攻撃は、瘴気をぶつけるしかない、ということだ。
近づいて来た魔物へ向けた手のひらに魔力を集め、瘴気に変えてぶつけてみる。
――デュランは一撃で倒れたというのに、獣はひるむことすらなかった。
効かない。なぜ?
何度か試してみてもやはり効果は見えなかった。シャロは一生懸命頭を使って、なぜ効かないのかを考える。魔物は瘴気を纏っている…だから瘴気は効かないんだ、と気付いて絶望的な気持ちになった。
もうだめだと目を瞑った次の瞬間、今までとは違う大きな獣の咆哮が響いた。
うなり声と、争う音、肉が裂けるような濡れた音に何かが砕けるような鈍い音。そして立ち込める血の匂いと、獣の息遣い。
それからしばらく待っても、覚悟していた痛みはシャロにはやってこなかった。恐る恐る目を開いた彼女の前に広がっていたのは、先程までシャロを脅かしていた獣たちの無残な死体と、大きな一頭の熊だった。
熊は他の獣よりも濃い闇を纏っていた。じっとシャロを見つめ、そしてその鼻をシャロに近づけてきた。
「や、こないで…」
震える手で瘴気を作り出してその鼻先にぶつける。
だが熊は全く意に介した様子はなく、シャロのにおいをかいで興味を失ったように身を引くと、その場に寝転がった。
「……?」
何が何だかわからないが、助かったらしい。
この隙に逃げ出すべきだろう、と震える足を叱咤して後ずさりした。すると途端に熊が頭を上げ、グオォォと吠えた。
「ヒッ」
驚いて尻もちをついたシャロを睨みつけ、そうしてまた眠る体勢になる。どうやらここから離れるなという意味のようだ。助けてくれたのだろうか。――もしかしてシャロが魔族の子だから?
離れようとすると威嚇されるので離れるのはあきらめた。この熊が側にいると魔物が寄ってこないので都合はいい。たまにやってきても熊の方が強くて、あっという間にやっつけてしまう。
この熊の側にいればとりあえず安全のようだ。そう判断したシャロはなるべくその熊の側で夜を明かすことにした。明るくなったら集落に戻って、森長を探そう。そう考えながら、ぼんやりと瘴気を作り出して宙に浮かべる。熊がそれを視線で追ってるのに気づいて、瘴気を動かして熊の目の前に持っていくと、大きく口を開けそれを一飲みにした。気のせいか、少し熊の体の纏う闇が濃くなった。シャロの瘴気を吸って、強くなっているのかもしれない。
それならどんどん与えたほうがいい。強ければ強いほど、シャロは安全だから。
デュランだって怖がって近づいてこないはずだ。
そう思って瘴気をどんどん作り出して、熊に与えた。
熊は瘴気を取り込んで目に見えて体が巨大化していった。
――そうしてある段階で、狂った。
シャロを守ってくれるはずだった熊は、歯をむき出し咆哮を上げ、口から泡を吹きながら彼女の体を片手ではねのけた。シャロの小さな体は容易に吹っ飛ばされて地面に叩きつけられる。のろのろと顔を上げたシャロの目の前に、熊の鋭い爪が迫っていた。
再びの暗転。
酷いめまいと吐き気と頭痛に襲われながら目を開けると、なぜかシャロはまた先程までとは別の場所にいた。そしてすぐそばには呆然とした顔の男が立っていた。
「お前…今、どこから出てきた…?」
茶色い髪でやせぎすで、目つきが悪くてみすぼらしい格好の男だった。突然現れたシャロに対して警戒心あらわに睨みつけたものの、よろけたシャロの様子を見て顔色を変えた。
「あっ、おい大丈夫か?ああ、怪我してんじゃねえか…って、エルフ…!?」
「…たすけて…」
「…お前、なんて名前だ」
「シャ…ロ…」
そうしてシャロはアドニスに拾われたのだ。




