18. キャパオーバー
湖の端に立ったルルシアを中心に、湖全体に波紋が広がっていた。
ヴェールのように薄く透き通った水の壁が幾重にも重なって、彼女を守るようにぐるりと取り囲んでいる。
その中に悠然と立つ少女の体は、幽かな光を放ち、神々しさすら感じさせる。――これが水の精霊の姿だと言われたら、きっと誰もが納得しただろう。
今、彼女はうっとりとしたほほ笑みを浮かべており、その姿は妖艶ですらあった。
湖畔にいる誰もが、彼女の姿に釘付けになっている中で、ライノールだけが若干苦さを含んだ顔でそれを見ていた。
「あいつ、キャパオーバーでハイになってるな……」
その呟きに、ディレルはライノールを見た。
「……キャパオーバー?」
「自分の能力以上の魔力を扱ってるせいでタガが外れてるというか……とにかく、しばらく寝込むのは確定だな」
「……それ危険ってことですよね」
「体には良くないな。死にはしないだろうが」
眉根を寄せてはいるものの、さらっとなんでもないことのように言うライノールに、ディレルは「は!?」と声を荒らげる。
「何であんたらの判断基準は死ぬか死なないかなんだよ!? 止めたほうがいいってことだろ!」
「いや、たぶん止めるほうが危ない。あいつは自分と他人の魔力をシンクロさせて、自分の魔力として使えるらしいんだよ」
その辺のやり方は俺にもよくわかんねぇんだけどさ。とボソッと一言挟んで続ける。
「で、今あいつは湖とシンクロして魔力を動かしてる最中だから、無理やり引き剥がしたせいでシンクロ状態がうまく解除できなかったりすると、動かしてる魔力が暴走するかもしれん」
「暴走……」
魔法や魔力の事はよくわからないので、ライノールの判断に頼るしかない。ディレルは肩を落とした。
「――じゃあ、何もできないってことですか」
「そうだな。できることって言ったら……多分あいつこの後ぶっ倒れるから、顔が水に浸かって溺れる前に湖から出してやることくらいさ。服濡らしたくないとか言ってせっかく生足披露したのに無駄になったな」
「生足披露って……もしかしてこうなるってわかってて笑ってたんですか」
「大方予想はしてた」
「あんたって人は……」
文句を言おうとしたディレルを、ライノールが手で制する。そのライノールの視線を追ってルルシアの方へ目を向けると、ちょうど彼女が腕を振り上げたところだった。
「行け」
少女の硬質な声が響き、湖面が激しく一度だけ波立った。そして一瞬の沈黙の後、ドンッッ!!! という大きな音とともに、湖の中心に見上げるほど大きな水柱が立った。
「うわ!」
「なんだ? エルフちゃん何やったんだ」
「……あれ、瘴気が消えてない?」
ルルシアの姿を見守っていた冒険者達が、口々に喋りだした。
「ホントだ、瘴気消えてる」
「エルフちゃんがやったの? え、すごくない?」
「じゃあ監視シフト組まなくていいってことか!」
次第に興奮し、盛り上がり始める周囲の人々に構わず、ライノールはルルシアの元に駆け寄った。
それとほぼ同時に、ルルシアの膝から力が抜け、ゆっくりとくずおれていく。
彼女を取り囲んでいた水の壁がパシャパシャと音を立てて崩れ落ちる中で、ライノールの手がルルシアの体を支える。ぐったりした少女の体は、ひんやりと冷たかった。
「あー、結局濡れたな。水の壁は予定外だ」
ライノールはそうひとりごちながら、気を失って青白い顔で目を閉じるルルシアの体を抱き寄せる。
「……あまり無理はしてくれるなよ」
そのまま抱き上げて湖畔に戻る。そして心配そうな顔をしているディレルの腕にルルシアを押し付けた。
急に少女の体を押し付けられたディレルは「うわっ」と慌てながら、それでもしっかりと抱きとめた。
「さすがに俺の力じゃいつまでも持ってられん。――ギルド長、大変申し訳無いが、ルルシアが起きるまで宿を借りることはできますか」
湖の水柱、倒れたルルシア、消えた瘴気、盛り上がる冒険者たち……一気に押し寄せた出来事にクラフトギルド長は一瞬止まり、すぐに返事をした。
「! もちろんです。起きるまでと言わず、しばらく逗留してくださって大丈夫ですよ」
「ありがとうございます。状況確認もあると思いますが、先にルルを休ませてやりたいんですが……」
「ええ。馬車を出しましょう。ディレル、ライノールさんに同行してやってくれ」
ギルド長からの視線を受け止めたディレルは、黙ったままひとつ頷いた。そもそも、ルルシアを抱えている以上、言われなくても同行するつもりだったのだが。
***
馬車はすぐに用意された。
心配半分、興味半分でルルシアを見ようとわらわら寄ってくる冒険者達を散らしつつ乗り込む間も、ルルシアは全く目を開けなかった。
呼吸はしているが、体はひんやりと冷えていて血の気がない。
ディレルは無意識に自分の体温を分け与えるように少女の頬を手で包んだ。
そしてふと向かいに座るライノールに目を向けると、彼は疲れた顔で座席にもたれかかっていた。
「よく見たらライノールさんも顔色悪いですね」
「魔力使いすぎたからな。そいつも同じだよ。自分と湖の魔力の境界線がわかんなくなって、自分の魔力もギリギリまでぶち込んだんだ。それで魔力切れでダウンしてる。そんなに心配しなくても、時間が経てば回復するよ」
「ああ、タガが外れてるってそういう……」
ライノールはだるそうに頷いた。
「この間見ただろ、魔獣の時間止めるやつ。あれも似たようなもんで、俺の魔法とシンクロして、本来なら自分じゃできない魔法を使ったんだ。あのときはちゃんとしてたから、魔法使った後も普通に動き回ってただろ?」
「ああ、たしかに。……てか、ライノールさん休んでていいですよ、だいぶ辛そうですし。すぐ着きますけど、目を閉じるくらいは……」
ディレルは気を遣ってそう言ったのだが、対するライノールは大袈裟に天を仰いだ。
「いや……若者が俺のかわいいルルに手を出さないよう見張ってないといけないからなぁ」
「出しませんよ……人をからかう元気があるなら大丈夫そうですね」
そう言いつつ、ディレルは自分の手がルルシアの頬に触れたままだったことに気付いて手を放した。
その様子にライノールはくつくつと肩を震わせて笑う。
「……結局、ライノールさんとルルシアの関係って何なんですか?『俺の』ってよく言ってますけど」
「なんだ、気になるのか? へーえ」
頬杖をついてニヤニヤするライノールの顔を見て、聞いたことを後悔する。
ディレルは舌打ちしたい気分で「やっぱり聞かなくていいです」と、馬車の窓の外に目を向けた。
「俺はルルの両親に命を救われたんだよ。こいつはその人達の娘で、生まれたときから知ってる。だから妹みたいな娘みたいな……。まあとにかく、守るべき小さい生き物だな」
その言葉に、ディレルがちらりとライノールの方を見ると、彼は慈しむような目でルルシアを見ていた。
(そんな顔するくせに、ああいう危ないことをさせるんだよな……)
なんとも不思議な愛情の形だ。彼が独特なのか、エルフというものがこうなのか。
そう思っていると目があった。
「お前ならルルに手を出してもいいが、ちゃんと本人の同意は得ろよ」
「……あんたって人は……」
思わずじっとりとした目で睨んでしまったディレルに、ライノールは再び笑った。