161. ライノールさんの話(2/3)
過去の話と、本編57の後、65-66のあたりの話です。
朝方、早くにノックの音で叩き起こされたライノールは、イライラと扉を叩いたアニスを睨みつけた。
ジルとルミノアが留守にしているため、昨日は夜遅くまで本を読むルルシアに付き合わされたのだ。最近のルルシアはジルの真似をして子供には難しすぎる本を読みたがるので困る。
だが、扉の向こうに立つアニスの目の真剣さに異変を悟り、寝ぼけた頭を振った。
「何かあったのか」
「……ジルとルミノアが、死んだ」
「……は?」
アニスの抑えた声に一瞬頭が真っ白になった。
何を言っているのだろう。
彼らはフロリアの森に呼ばれて行っていただけで、別に討伐に出ていたわけではない。フロリアは薬草を栽培している集落で、危険なことなどないはずだ。魔物が増えているとは言っていたが、あの二人がそう易々とやられるわけもない。
――だが、アニスはそんな悪質な冗談を言うような人物ではない。
彼女が言うならばそれは、認めたくなくても事実だ。
アニスは固まったライノールの肩越しに、室内へ目を向けた。部屋の中には寝ぼけ眼でぼんやりとこちらを眺めているルルシアがいる。
そうだ、彼女に知らせなければ。
「……」
どう伝えたらいいのか。ルルシアはまだ十歳になったばかりなのに。――だが、誰かが伝えなければならないのだ。
ライノールはもう一度頭を振って、深く息を吐いた。
「詳しい話を教えてくれ。ルルに説明しないと」
「ああ。現段階ではまだ情報が錯綜していて、分かっていることだけになるが……それと、ルルには私から説明するから、お前から話す必要はない」
そう言ってアニスは一度言葉を切り、まっすぐにライノールを見つめた。
「その代わり、しばらくの間、あの子の傍にいてやってくれないか」
「それは……今までとそれほど変わらんし、構わないが」
「頼む。まだ幼いあの子を独りにしたくない。……あの子の家族になってやれるのは、ライ、お前だけだと思う」
ライノールはよくこの家に出入りしているし、ルルシアもそれなりに懐いている。
だが、アニスはルミノアと昔から仲が良くて、ルルシアのことを目に入れても痛くないとばかりに可愛がっていた。
――今のルルシアに家族として寄り添う、その役目をやりたかったのは自分だろうに、とアニスの憔悴した顔を見つめる。
彼女はこの森の長だ。真面目過ぎて人一倍自分を律して生きている彼女は、自分がルルシアを特別扱いしてしまうことを恐れているのかもしれない。
「分かった。……俺じゃあ家族にはなれんと思うが、とりあえず一人にしないように気を付ける」
「……ああ」
アニスはぎゅっと目をつむり深呼吸をして、「よし」と呟いた。
「ルル、話がある」
玄関先で話していたライノールたちの雰囲気から異変を感じ取っていたルルシアは、そのアニスの硬い声にびくりと体を震わせた。ライノールはルルシアのこわばった体を抱き上げて、せめてもの慰めになればと、彼女の癖のある柔らかな黒髪をなでた。
ルルシアは両親の死の報せに対し、やはり声を殺して静かに涙をこぼした。
少女の頬を濡らす涙を見つめていると、ライノールの脳裏に『まるで死神のようだ』という、呪いのような言葉が蘇ってくる。
(違う、馬鹿げてる。これは不幸な事故だ)
何かに縋りつきたかったのは、むしろ自分の方だったのかもしれない。そう思いながら、ライノールは小さく震える少女のあたたかな体を抱きしめた。
アニスは淡々と事実を伝え、「しばらく捜索は続けられるが、あまり期待しないで欲しい」と締めくくった。ルルシアはきっと完全に理解をしていないのだろうが、それでもこくりと頷く。
「……ライ、後は頼む」
ルルシアが頷いたのを確認した後、アニスは静かにそう告げて去って行った。
アニスが踵を返す瞬間、彼女の頬に光るものが伝い落ちたように見えたのは――多分、ライノールの気のせいだろう。
その日からしばらくの間、ルルシアはぼんやりと空を眺めていることが多かった。
以前の彼女は、一人にしておくと不思議な歌をうたっていることがよくあったのだが、あの日以来、その耳馴染みのない歌たちを聞くことはぱったりとなくなった。
その代わりに、増えたのは泣いている時間だった。
困ったことに、彼女は声を立てずに泣くので気付きにくい。ふらりと外に出て行って、泣き疲れて眠っているのを集落の住人に発見され、ライノールのところへ運び込まれるなどということも何度かあった。
じっとしているな、と油断しているといつの間にか姿を消しているのでなかなか目が離せない。
ジルの心配がこんな形で的中するとは、なんとも皮肉である。
(見張ってるって言ったのにな。やっぱりジルさんの方が泣かせてるじゃないか)
泣き疲れて眠るルルシアの頭をなでながら、ライノールは苦く笑った。
泣くことが少なくなってきたな、と思っていたある日。
ルルシアは弓を抱えてライノールのもとへやってきた。
「ライ、戦い方を教えて。魔獣を倒すから」
「は? 何言ってんだお前。魔獣は無理だろ」
「じゃあ魔物でいいから、倒すの」
じっと見つめてくる少女の目は真剣で、冗談や気の迷いではないらしい。
敵討ちに走ったか……と、ライノールは黙ってルルシアを見つめ返す。
じっと見つめるだけで何も答えないライノールの様子に、だんだんとルルシアは不安になってきたらしく、そろそろと視線を彷徨わせ始めた。が、すぐに「これではいけない!」と思い直したのか、再び負けじと睨み返してくる。
「ふっ……」
「! なんで笑うの!?」
「分かったよ、基本的なことは教えてやる。どうせこの森はそういう森だしな。ただし、集落の外に出るのも実際に魔物と戦うのも、アニスの許可がないと駄目だ。守れないなら何も教えない」
「うん! 守る!」
「お前、返事だけは立派だからなあ……」
「大丈夫!」
「あー、はいはい」
全く信用できない元気な返事に、それでも静かに泣かれるよりも数倍マシだな、とライノールは笑った。
案の定、過保護の化身のようなアニスからは激しい反対があったが、それでも最終的には「ルルが怪我したらライを氷漬けにする」という、酷く理不尽な条件で許可が出た。
そこから、何故か肉を食べようとして身体強化魔法に異様な情熱を燃やしたり、魔物を食べようとしたり、主に食に対する数々の奇行を見せつつもルルシアは大きな怪我をすることなく成長し、同時にライノールも氷漬けにされることなく――髪の毛が凍らされたことは何度かあるが、おおむね――無事生き延びた。
***
それから月日が経って――
ルルシアがアドニスとシャロを瘴気から救って、そして倒れたあの日。
倒れた理由は魔力の使い過ぎだ。それはエルフであってもままあることで、通常であれば命に関わるようなものではない。
特にルルシアはそれほど体内の魔力が多い方ではないので、眩暈を起こして倒れるということは今までも何度かあった。ライノールはその度、自分の限界くらいきちんと把握しろと彼女を叱ってきた。
だが今回は、きっとルルシアは自分の限界を分かっていた。そのうえで、あの二人を救うためにそれを超えて無理をし続けて倒れたのだ。
蒼白になった顔で鼻血を流していた。慌てて触れた手は恐ろしく冷たかった。
いつも飄々として落ち着いているディレルですら、しばらく取り乱したくらいに、あの時のルルシアは死の一歩手前にいた。
「あなたは生きているのに、なぜ」
忘れたと思っていた言葉が、まるでついさっき言われたかのような鮮やかさで脳裏によみがえった。
それを聞きたいのはこっちだと歯噛みをした。
俺はあの時、死んでいればよかったのか?
「ライ」
悪い方へ、悪い方へと落ちていく思考がディレルの声で引き止められる。
「――え? 悪い、何か言ったか」
「いや、呼んだだけだけど……。やっぱり部屋用意するから、うちに泊まっていきなよ。落ち着かないんだろ? なんか放っておいたら食事も抜きそうだし」
意識のないルルシアは看病のためランバート邸に引き取られることになり、その時ついでにライノールも泊まっていけとアンゼリカたちから勧められたのだがそれは断っていた。医者が往診して、メリッサが細かく面倒をみてくれるというならライノールが傍にいてもやることなどない。
だが、ディレルはライノール自身の体調を心配しているらしい。自分だって気が気じゃないだろうに、人の心配をするなんて良い奴だよな、と思いながらライノールは改めて首を振った。
「いや、いい。事務局で調べたいことがあるし」
「……ルルが起きた時に、ライの具合が悪そうだったら絶対泣くよ?」
「泣きはしないだろ」
顔をしかめたり怒ったりはするかもしれないが、泣くというのはあまり想像がつかない。戦い方を教えろと言ってきたあの日以来、ルルシアが涙を見せることはほとんどなくなったのだから。
だが、そんなライノールをディレルは呆れたような目で見た。
「泣くよ。ルルもそうだけど、ライは自分がどれだけ相手から大事に思われてるかってこと、分かってないよね。それとも、失くすのが怖いから分からないふりをしてるの?」
それは新しい視点だな、と少し感心する。
ルルシアはライノールが『家族みたいな』という言葉を使うと露骨に嬉しそうな顔をする。――だが、『家族』だと言い切ったことは一度もない。お互いに、だ。
ルルシアの家族にはなれないと、過去にアニスへ言ったのは紛れもない本心で、今もそれは変わっていない。だが。
(ただ、失くすのが怖くて認めたくないだけか)
なるほど、と心の中で少し笑う。
「……どうだろうな」
「ほら、ここで憎まれ口が返ってこない時点で相当重症だし」
「まあお前も、そう踏み込んでずけずけ言ってくるあたり、相当機嫌悪いよな」
「うーん、そうかも」
そう言ってディレルが苦笑する。
何もかも、このすぴすぴと眠っている小動物が悪いのだ、とライノールはルルシアの頬をつねる。血の気の薄い白い肌は触るとひんやりと冷たかった。
「早く目を覚ませよ。平和な顔して寝やがって」
それからルルシアが意識を取り戻すまでに三日。体力回復までにさらに数日。
医者の許可が出て、早速中庭で弓の鍛錬を始めたルルシアはどうも機嫌が悪いように見えたが、まあ元気そうではあった。ほんの少しだけやつれて見えるのはしばらくまともに食事ができていなかった影響だろう。
散々迷ったが、ライノールはそんな彼女に、両親を殺した魔獣を作り出したのはおそらくシャロであるということを話した。
後々誰かの言葉で偶然知るよりも、自分で伝えておきたかったのだ。
悲しむのか、怒るのか。どちらにせよ傷つくだろう。
そう思っていたというのに、彼女から返ってきたのはなぜかライノールの頭をなでるという行動だった。
彼女には自分自身よりもライノールの方が落ち込んでいるように見えたのだろうか。ライノールが顔をしかめていると、ルルシアはいつもの平和に緩んだ顔で「わたしは大丈夫だよ」と言った。
「……あのね、多分ライが思ってるよりわたしは平気なんだよ」
「平気?」
「お父さんとお母さんが帰ってこなかったのは悲しかったよ。どれだけ泣こうが嘆こうが戻ってこなかったし、何も変わらなかったけど――でもそういう時、いつもライがそばにいてくれたでしょう? わたしね、一人じゃなくてよかったっていつも思ってたの。一人じゃないから耐えられるって思えたんだ。……だから、ライがいるからわたしは平気」
ルルシアがライノールを見上げてニッと笑った。
「ライが泣く時はわたしがそばにいてあげるからね」
「別に泣かねえし」
ライノールは、はあ、とため息をつく。
一人だったら耐えられなかったのはライノールだって同じだ。
こうして今ここに立っていられるのは、どうしようもなく凍えていた自分に、この少女がぬくもりを分けてくれていたからだ。
しつこくなでようとするルルシアの腕を掴んで、その細い腕のあたたかさに、ライノールはやっとホッと安堵の息を吐いたのだった。