149. 素直じゃないな
冷えた廊下を通って明かりとざわめきの漏れる部屋に入った瞬間、ルルシアは暖かいと感じるどころか、むしろ酷く暑く感じた。そして少し遅れてぶるりと寒気を感じる。
自覚はなかったが、どうやら体の芯から冷え切っていたようだ。
暖かな空気に誘発された軽い眠気と戦いつつ、ルルシアは部屋を見回して、角の方のテーブルに探していた人物がいるのを見つけた。
その人物――ディレルはライノールと話をしている。二人とも戻ってきたルルシアにはまだ気づいていないようだ。
(これは絶好のチャンス……)
ルルシアはアルニカと別れて、足取り軽く角のテーブルに近づいていく。
決してライノールの視界には入らないようなルートで、かつ、他の人に声をかけられないように気配を殺して。
途中でディレルが気付いたが、背後をとっているおかげでライノールはまだ気づいていなかった。ディレルには人差し指を口に当てて黙っているよう身振りで伝える。
そして、ライノールの背中にそろりと手を伸ばした。
「っ冷たっっ!!」
ルルシアの冷え切った手を首筋に押し付けられたライノールはガタンと大きく椅子を鳴らしてのけぞった。驚きに見開かれた目がルルシアを捉えて、一気に眉が吊り上がる。
「ルル!」
「あはははは! やった、ライがびっくりした」
「……お前ふざけんなよ。ってか何でそんなに冷え切ってるんだよ!」
「外にいたから」
「外!?」
なんでこんな寒い中…とライノールが続けるのを無視したルルシアはディレルの方へ移動すると、何のためらいもなく彼の膝の上に座った。
「えっルル? ……うわ、本当に冷たいんだけど大丈夫?」
「うーん、わかんない……眠い」
ルルシアは伸ばした手をディレルの首に絡めて抱きついて、彼の肩に自分の顔をうずめた。
「えーと……ルル?」
「……」
ライノールが大きな声を出したせいもあって部屋の中の全員が注目する中、突然の過剰なスキンシップにディレルは困惑する。恐る恐る声をかけたのだが、ルルシアから返事はなかった。
その様子を見ていたライノールが片眉をあげる。
「……凍死か?」
「は!?」
慌てて冷え切った少女の体を両腕で包み込むと規則正しい呼吸が伝わってくる。
「……なんか普通に寝てるっぽい……」
「……なんだそれ」
「あーごめんね、やっぱり酔っちゃってたねえ」
ホッとして、そして同時に戸惑いながら呟いたディレルにアルニカが苦笑いしながら歩み寄ってきた。
「ほんの一口だけだったんだけど……お酒弱かったんだね」
そう言いながらアルニカはルルシアにブランケットをかけ、頭をぐりぐりと撫でる。ルルシアは嫌がるように小さくうめき声をあげたが起きる様子はなかった。
「おや可愛い」
ルルシアが起きないのを良いことに、今度は冷えて赤く染まっている頬をつまんでやろうと伸ばされたアルニカの手は、ルルシアに届く前に掴まれて止められた。
「なんだよくそエルフ」
「アルニカちゃんもしかして外で飲んでたの? ……怪我人なのに?」
「……ちょっとだけだ。気分転換さ」
アルニカは半眼で睨むセネシオの視線から顔をそらして逃れる。だが逸らした先にはシオンが酒瓶を持って立っていた。
空になった瓶を握ったシオンが、じっとりとした目でアルニカを睨む。
「まさかと思うがババア、ルルシアにこの酒飲ませたのか」
「そうだけど?」
「火酒じゃねえか! しかもストレートだろ!」
「お酒飲んだことないっていうからちょっと試させてあげようと思って」
「こんなん、酒飲んだことないやつに飲ませる度数じゃないだろ!」
「そんなにキツイかなあ」
「……あんたってやつは……」
不思議そうにするアルニカに大きくため息をついたセネシオとシオンの肩を、慰めるようにエンレイがぽんぽんと叩いた。そしてエンレイはルルシアの呼吸や脈をさっと確認してから「ま、大丈夫そうね」と呟いてディレルに目を向けた。
「ちょっとしか飲んでないっていうし問題ないとは思うけど、一応急性中毒とか心配だからディレル君しばらくここで様子見てくれる? 呼吸がおかしかったりしたら教えてね」
「分かりました」
「お願いね。――さ、アルニカさんは『安静に』って言ったのに飲酒していた理由を伺いましょうか、医務室で」
エンレイはバキバキと拳を鳴らしたあと、優しい笑顔を浮かべてアルニカの両肩に手を置いた。
「おっと、ちょっと急用が」
「お黙りなさい。医者に逆らうんじゃありません!」
「待て、エンレイ嬢。普通医者っていうものは患者の前で拳鳴らしたりしないだろ?」
「あたしだって患者が普通の患者だったら鳴らさないわよ」
「アルニカちゃん、諦めて戻りなよ……」
三人がかりで叱られたり宥められたりしながら、アルニカはしゅんと肩を落として医務室へ連れていかれた。
頬杖をつき、苦笑交じりにそれを見ていたライノールは視線をディレルに戻す。
ディレルは首にしがみついていたルルシアの腕を解いて彼女が楽な体勢で眠れるように抱えなおし、ブランケットを掛けているところだった。
「なあ」
「うん?」
「……お前本当にルルでいいのか? 割と生態が野生動物に近いぞ、そいつ」
ライノールの言葉にディレルは顔を上げ嬉しそうに笑う。
「そういうところも可愛いじゃん」
「物好きな……まあお前がいいならいいけどさ」
「ライだって可愛いと思ってるくせに」
からかうような口調で言われて、ライノールはチッと舌打ちする。
「……それとほぼ同じくらいどうしようもないクソガキだと思ってる」
「素直じゃないなあ」
そう言って笑ったディレルに、ライノールはわざと顔をしかめて見せた。
ディレルがルルシアに結婚を申し込んで、ルルシアも了承したのだとライノールは先程聞かされたばかりだった。
そんなところに本人がケタケタ笑いながら突っ込んでくれば不安にもなろうというものだ。
ディレルがルルシアを妻にと望むこと自体は、どうせいずれそうなると思っていたので驚きもないし、まして反対する気など毛頭ない。むしろ、自分の庇護してきた子供が、自分も信頼できる相手を伴侶として選んだというのは喜ばしい事だとすら思っている。
ただ――
『こいつがエルフだったら良かったのに』と、何度思ったか知れないことを再び考えて、そして頭の中から振り払う。
「まあせいぜい長生きして側にいてやれよ」
「言われなくてもそのつもりだよ」
間髪入れずに返ってきた返事にライノールは思わず、ふ、と笑う。
「…お前最近、生意気に言い返すようになってきたよなあ」
「ライの口の悪さが移ったのかもね」
「元々ふてぶてしかったのが表に出てきただけだろうが」
そんなことないよと涼しい顔でうそぶく年の離れた友人に、ライノールは今度は声を上げて笑った。
***
全身がほわほわと温かい。
時々心地よく静かな低い声が聞こえてきて、その音と同時にかすかな振動を感じる。
この甘やかな感覚には覚えがある。
ぱちんと目を開けて、視界に入ったのは人の襟元。
「…………」
状況がわからなくてルルシアはぱちぱちと瞬きをする。
アルニカと話して、一緒に戻ってきたところまでははっきり覚えている。
そう、そしてライノールにいたずらをして――その先は強い眠気に襲われてしまって覚えていない。ただ、直前までのアルニカとの話のせいでディレルに会いたいと強く思っていた気がする。――が、これは。
(もしかして抱っこされてませんか……これ……)
会いたいどころか密着している。二人きりならば(どうしてそうなったかは別として)まあ問題ない。だが、今は普通に周りから人の声が聞こえる。ついでにいうとディレルも普通に人と会話している。
(なぜ、わたしは衆人環視の中ディルに抱っこされてるの……?)
ルルシアがぽかんと至近距離にあるディレルの顔を見つめていると、向かいに座っていたライノールがそれに気づき、からかうような声を出した。
「お、ルルが正気に返ったな」
「え? ああ、ルル起きたね」
「……なに……なんで? あっ、とりあえず降りる。重かったよねごめん」
「重くはないよ。待って、危ないから暴れないで」
もごもご動いて腕の中から逃れようとするルルシアを、ディレルは一度抱き上げてそばにある椅子に座らせてくれた。
とりあえず座ったのはいいのだが、状況はまったく整理できていない。しかし、なんとなく残っている記憶の断片から推測するに、どうやら皆様の前でディレルに抱きつくという、普段のルルシアなら考えられないことをしたのだということだけは分かった。
とりあえず体にかけられていたブランケットを頭からかぶって、現実逃避をはかる。
「絵に描いたように見事に混乱してるな」
「ルル、アルニカさんのお酒飲んで酔ったんだって。覚えてない?」
「一口だけもらった……のは覚えてるけど。本当に一口だけ」
問いかけに対してブランケットをずらして頭を出したルルシアにディレルは微笑んで、布をかぶったせいでぐしゃぐしゃになった前髪を柔らかくなでつけた。
「ものすごく強いお酒だったらしいよ、それ。だから酔ったんだろうってアルニカさんが言ってた」
「しかし、いくら度が強いって言っても一口だろ? それで酔って男に抱きつくなんて弱いどころじゃないだろ」
男に抱きつくという言い方は過分に悪意を含んでいる。
いくら酔ってタガが外れていたとしてもルルシアはディレル以外の男性に抱きついたりはしない。(と、思いたい)
ルルシアはややむくれてライノールを睨み、そして視線を泳がせた。
「……ちなみに、ただ抱きついただけですよね」
「……あー……」
ライノールは薄く笑みを浮かべて目をそらした。
その意味深な反応にルルシアが「!?」と、勢いよくディレルの方を見ると、彼は彼でにこりと微笑んだだけで何も答えてくれなかった。
「え……、え……?」
全く記憶がないのだが、何かもっととんでもないことをしてしまったのだろうか。涙目でおろおろし始めたルルシアを見て、ライノールは両手で顔を覆ってしまった。その肩は震えており、明らかに笑っている。
ディレルも同様に笑いを噛み殺した顔でルルシアの頭を撫でた。
「ごめんね、しがみついて寝てただけだよ」
「……もう二度とお酒飲まない……」
再びブランケットをかぶったルルシアは、机に突っ伏して忍び笑いを漏らしているライノールを布の隙間から睨みながら強く心に誓った。




