146. 最低限のライン
今まで我が物顔で大手を振って歩いていたザースの取り巻きたちが鳴りを潜めたことで、サイカの街中はほんの少し静かになった。
酒を提供している店では、厄介ではあるもののそれなりに金になった客を一気に失ったことを残念がる店主もいたようだが、概ね平和になったことを喜ぶ声のほうが大きかった。
サイカに来てから食事の買い出しで度々利用してすっかり顔なじみになった料理屋の店主によれば、町中を歩く女性や子供の姿を前よりも見かけるようになったという。
「前よりもずっといい雰囲気さね」
と店主は嬉しそうに話した。皆がどことなく委縮していた空気が消えたことで、心なしか人々の顔も明るく見える。
「しっかしお嬢ちゃんがエルフだとはねえ。かわいらしいとは思ってたけど、なんていうか…」
「分かってます、エルフとしてがっかりレベルなのは自分で分かってるので気を使わなくても大丈夫ですよ」
ルルシアが笑って見せると店主は慌てて手を振った。
「いやいや、エルフの兄さんたちはちょっと眩しすぎてあたしみたいなおばさんでも緊張しちまうからさ、お嬢ちゃんくらいだと落ち着いて愛でられるってもんさ」
「ありがとうございます…?」
褒められているのかいないのか微妙だなと思いつつルルシアは微妙な気持ちで笑顔を浮かべた。
ここの店主は初めから亜人に対して悪感情を抱いていない人だということは知っていたので、ルルシアの方から自分がエルフであることを話した。その感想が先程のくだりだ。
ルルシアが焼きたてのパンが詰まったほんわりと暖かな紙袋を抱え、スープの入ったポットに手を伸ばしたところで横から伸びてきた手に先に奪われる。
「ディル」
「どうして一人で持とうとするの」
そう言って苦笑したディレルはパンの入った袋も取ろうとしたが、ルルシアは身体を捩ってその手から逃れる。
「パンはあったかいから私が運ぶ」
抱きしめた袋からはぬくぬくと生き物のような熱が伝わってくる。気温の変化にも弱いエルフがこの数日で一気に冷たくなった外の空気に対抗するために、この焼き立てパンのぬくもりが必要なのだ。
「ま、一気に寒くなってきたからね。…嬢ちゃんたち、近いうちにイベリスに帰るんだろ? にぎやかなのがいなくなるのは寂しいが、そろそろ雪も降りそうだから出発は早いほうが良いかもねえ」
「雪!」
「そうですね…岩場で雪なんて降ったら悲惨ですからね。一応今日明日くらいにはグロッサからの客が来るはずなので数日中には発てると思いますけど」
店主に返事をしながら代金をカウンターに置いたディレルが窓の外の空を見上げた。
サイカは乾燥した気候で、雪が降ると言ってもそこまで多く降ったりはしないのだが、それでも冬の初めごろに何度か降ると聞いている。
できればその前に出発したいのだが、ルルシアたちは今、グロッサの外交官一行が到着するのを待って足止めを食っている状態だった。
今回の騒動を引き起こしたストラともう一人のエルフはすでに魔力を封じられ、獣人の男とともに牢に入れられている。彼らを外交官一行に引き渡した時点でサイカでやるべきことはひとまず終了となる。
そこから先、亜人たちの処罰はグロッサ側で下されることになっているし、サイカとグロッサ間の外交の話はシオンとアルニカの役目である。
そのため、外交官一行が到着するまでの間は特にやるべきこともなく、ただサイカで待機しているのだ。
だが、一緒に来ているメンバーは拠点の書類仕事の手伝いや剣の指導などで結局なんだかんだと動き回っている。しかし机仕事も剣の指導もできないルルシアは正直な所暇を持て余していた。ふらふらしているのも据わりが悪いのでこうして食事の準備などの雑用をしているのだ。
ディレルはそんなルルシアとは対象的に机仕事も剣の指導もできるのだが、大体今のようにルルシアに付き添って行動している。
街の雰囲気が変わった、亜人だからといって捕らえられることもなくなった…と言っても、やはりまだサイカ全体では亜人受け入れに関して戸惑いの声のほうが多いようだ。
昨日まで何年も拒絶し続けてきた相手と『今日からは仲良くしましょう』と言われてもどうしていいかわからないのは当然だ。これについては時間が解決してくれるのを待つしか無いだろう。
まだそういう状況であるため、――ついでにディレルやアドニスから言わせるとルルシアは恐ろしいほど平和ボケしているので――一人で出歩くのは絶対ダメ、なのだそうだ。
ルルシアはほぼ家族のような同族しかいない森で育って外に出るときは基本的に複数人行動しかしていない。テインツでは一人で歩き回っていたが、あそこは治安維持も担っている冒険者があちこちにウロウロしているのでこの世界でも指折りとも言われているほど安全で平和な町だ。
そして極めつけに、ルルシアには日本で生きた記憶がある。夜中に女性が一人で歩いても平気…とまで言い切ることは難しいが、実際出歩いている人も普通にいるくらいには治安の良い場所で暮らしていた。
なのでどうも、自分の身の安全に対する感覚がだいぶずれている――らしい。
それでもルルシアとて小さな子供ではないし、自分に何かあれば周りに迷惑をかけることは分かっているので一人で出歩いたりは基本的にしないのだが、どうにも信用されていないのが若干悲しい。
かまどの火で暖かかった料理屋の外に出ると吐く息が白く染まった。
思わずパンの袋を強く抱きしめようとして、潰してはいけないとすぐに力を緩める。
「手つなぐ?」
「うん!」
ルルシアはえへへと頬を緩めて差し出されたディレルの手を握り、ついでに少し身を寄せてぴたりと寄り添った。
くっついていたいけれど、別に人に見せつけたいわけではない。
なのでルルシアは拠点の人の目に触れる前に離れるつもりでいたのだが、たまたま広場の方でほぼ毎日やっている訓練と銘打った趣味の運動から戻って来たキンシェと途中で鉢合わせしてしまった。
「…よりによって一番うるさい」
ボソリと呟いたディレルの言葉が暗示していた通り、キンシェはそこからブーブーと文句を言いながらついてきた。
「ずるい。おれも可愛い女の子とイチャイチャしながら買い物行きたいです」
「そうですか、行けば良いんじゃないですかね」
「俺に対するディレルさんの対応が日に日に雑になっていく!」
ディレルのおざなりな返事に口をとがらせながらキンシェが執務室のドアを開けた。
ブーブー言いながらも荷物を持った二人に先んじて扉を開ける動作や絶妙な位置取りが洗練されているのがなんともちぐはぐで面白い。日々の言動でだんだんルルシアの中にあったキンシェへの尊敬の念が薄れてきてはいるものの、さすが神の子の護衛である。
「うるさいのが帰って来た…ディル、そいつ外の柱か何かに縛り付けてこいよ」
「嫌だよまた試合とか言われるもん」
部屋の中のライノールが舌打ちして露骨に顔をしかめる。
ライノールはシオンに何か教えていたらしく、机の上には本や書類が広げられていた。
彼はそれなりに長く生きているだけあって博識で、加えて何気に面倒見もいいのでシオンから相談を受けたり、その他の人々――なんとアルニカからも教えを請われたりしているようだ。
ライノールに睨まれたキンシェは後ろ手に扉を閉めながら大げさに天を仰いだ。
「そんな、酷いですライノールさん。寒い中頑張って外で剣の稽古をつけてたのに」
そんなキンシェを半眼で一瞥したシオンが、広げた書類を片付けながら呆れを含んだ声を出した。
「むしろ寒い中意気揚々と毎日若い連中引っ張って行ってるの自分だろうが」
「シオンさん、毎日継続するのが鍛錬のいちばん重要なところです。でもそれと女の子とキャッキャしてるのが羨ましいのは別の問題なんですよ」
「じゃあその辺で誰か口説けば良いんじゃねえの」
「ははは、エルフ組がいるのに相手にされるわけないじゃないですか」
やたらと笑顔を振りまいて(特に女性には)明るい声をかけてまわる絶世の美男は女性陣から絶大な支持を誇っている。そしてそのセネシオとは逆に、特に笑顔もなく淡々とシオンの手伝いをしているライノールもクールでかっこいいとやはり人気で、拠点だけにとどまらずサイカ中の女性の人気を二分している状態だ。
ライノールに関しては浮ついていない感じがシビれると男性陣からも密かに人気が高いらしい。ルルシアはそれを聞いたときにお腹が捩れるほど笑ってライノールに叱られた。
「あ、ちなみにリアさん情報によると公民館の女子たちにはアドニスさんが人気だそうですよ。次点ディル」
「…なんかアドニス氏に懐いてる子が多いなって思ってましたけど気のせいじゃなかったんですね…」
「ライもアドニスさんもお兄ちゃん属性で年下に対して面倒見いいですからね。キンシェさんは『彼氏ならいいけど結婚相手にはしたくない』というご意見を聞きました」
「ああ…さすが公民館の女子は現実を生きてるな…」
シオンはうんうんと感心した顔で頷いている。彼は内容そのものよりも公民館の子供たちがしっかりしていることの方が大事らしい。すっかりお父さん目線だ。
「良かったですね、『生理的に無理』とかではないですよ」
「ええ、人としての最低限のラインには立ててるみたいで良かったです…」
この後、キンシェはひっそりと生き方見直そうかな…と呟いていたという。




