133. 濡れ場じゃなくて
拠点内は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
罪人を拘置していた牢屋に何者かが突然現れ、魔術でそこにいた者を攻撃して昏倒させ罪人を連れ去った。
あれは魔術ではなく魔法に違いない。ならば亜人の仲間が乗り込んできたのだ。
ヒソヒソと、ある者は興奮気味に、ある者は怯えながら交わし合う言葉を聞きながらアドニスは拠点内の東棟の通路を歩いていた。
この東棟は執務エリアと居住エリアの二つの建物が廊下で繋がった形になっており、拠点内で一番人の出入りが多い。
また、下働きの姿もそれなりにあるため、アドニスは荷運びの人足だという顔をして潜り込んでいる。彼は良くも悪くもこういう場所では目立たない(ルルシアいわくカタギじゃないっぽい)容姿なので、堂々としていると逆に気付かれないのだ。
構成メンバーの中で居住する建物が独立しているのはリーダーであるラグラスのみで、他の人々は今アドニスがいる東棟内の居室エリアにそれぞれ部屋を持っている。らしい。
最上階は丸々ワンフロアをザースが使用していて、その下に幹部クラス、更にその下に行くほど下っ端…というわかりやすい権力構造になっている。
ちなみにシオンはリーダー宅、エイレンは中層に住んでいるので上の方はよくわからないそうだ。
そのよくわからない最上階を目指し、単身で潜入しているのが今のアドニスである。
セネシオの命令で、潜伏しているストラを探すために。
セネシオは簡単に『探して』などと言い放ったが、彼はアドニスのことを特殊能力を持った隠密か何かと勘違いしているのかもしれない。
アドニスはただ気配を消して紛れ込むのが得意なだけで、残念ながら潜入捜査スキルが高いわけではないというのに。
初めて訪れた建物内の怪しい場所の気配を察することなどできないし、大体の候補を絞ってあとは地道に調べるしか無いのだ。
救いは、セネシオが『ザースの寝室のそば』だろうとアタリをつけてくれたことである。
ザースは魔法薬を使って洗脳され、操られている。ならばストラは間違いなくザースの近くに潜伏しているというのがセネシオの見立てだった。
「ストラは普段は姿を隠してて、定期的に魔法薬を使ってるんだと思うんだ」
「定期的? 一回じゃだめなのか。簡単に傀儡にできるのかと思った」
セネシオの推測に、シオンは魔法なのにと首を傾げた。
「魔法薬ってあくまでも催眠状態に入りやすくするだけで、それだけで人を操れるようなもんじゃないんだ。そもそも人の心を操る魔法は存在しないからね。簡単な内容…事実に反しないことなら一回でも効果あると思うけど。だけど目の前にストラがいて、本人直々に『ストラは殺された』なんて言われてもすんなりと受け入れられないでしょ?」
「ああ…お前生きてんじゃんってなるな」
「うん。たとえ催眠状態でもそういう違和感は洗脳を妨げるからね。だから深い催眠の状態で何度も言い聞かせる必要がある。――つまり、それがやりやすいのが寝室で、ストラはそこに出入りしやすい場所に潜伏してるはず」
寝室であれば、ついこの間エリカがエイレンに連れられ、商品の納品のために隣の部屋を訪れている。
寝室の隣の部屋、つまりザースの恋人のアナベルの部屋だが、部屋の中に入ったエリカによれば部屋の中に扉があったらしい。その扉の位置的に、隣の寝室に繋がっていると思われる。
ストラはアナベルの愛人らしいので、室内に匿っている可能性もある。
ルルシアが「うわあ昼ドラ展開」とよくわからないことを言って顔をしかめ、シオンが頷きながら「忍び込む時濡れ場じゃないといいな」と嫌なことを言った。
――だが、濡れ場なら寝首を掻きやすくていいな。
と、一瞬本気で考えたのだがアドニスの役目はストラの発見と監視だとセネシオに告げられた。ストラが魔法を使ったら危険であるという理由で接触することは禁じられたのだ。
神の子を襲った連中はシャロを手駒として悪事に組み込み、さらに使い捨てようとした。その大本にいるのがストラだ。そう考えるだけで腹の底がふつふつと煮えたぎるような不快感が湧いてくる。チャンスさえあれば本気で殺してやりたい。
それを分かっているから、セネシオは接触自体を禁じたのだろう。
上階へ向かう階段の途中にある窓から、リーダーの家が見えた。
予定通りならセネシオとシオンはあの中にいるはずだ。
シオンたちはまずリーダーのラグラスと話し合い、リーダーの権限の譲渡とザースの権利剥奪を了承させる。
その後、幹部たちを集めてザースがストラに操られていることや、ストラの目的などを詳らかにする。加えて、リーダーの委譲とサイカの方針変更をメンバーに提案する――というなかなかにヘビーな役目をこなすことになっている。
別行動のために分かれる時、シオンは死人のような顔色をしていた。
ちなみに、骨折のため同じく死人のような顔色のアルニカはさすがに連れ歩くことはできないので、看護兼護衛役のエイレンとともに留守番である。必要な時にセネシオが転移で運ぶそうだ。「また転移…」と呟いたアルニカの気持ちは察するに余りある。
階段を上がり、最上階のひとつ下の階についたところでアドニスは足を止めた。
階段室から視線を走らせ、廊下に人がいないことを確認してから廊下に出る。シオンによれば基本的に日中は上層階に住んでいる幹部クラスのメンバーは執務エリアの方にいるはずなのでこの階はほぼ無人のはずだ。
人の気配のない廊下を半ばほどまで進んだところで、古びた机と椅子が置かれた共用スペースがあった。アドニスは静かに窓を開けて狭いバルコニーに出る。
この居室エリアは最上階を除いて全て同じ作りになっている。最上階だけはアナベルのワガママでだいぶ手を加えられているらしいので細かい間取りはわからない。ただ、手を加えたのは内側だけで、構造躯体はそのままなのでバルコニーの位置は変わっていない。
アドニスは上を見上げて手を軽く握ったり開いたりしてみる。やはりしびれがあるのが気になるが、上の階に上がるくらいなら問題ないだろう。
壁を伝って上のバルコニーに上がり、そこから侵入を試みる。ここならば建物の裏側にあたるので外から見られることもない。
問題は侵入後だ。
屋根裏に上ってしまえばいいのだが、隠れやすい場所には先客がいる可能性がある。鉢合わせでもしたら色々と台無しになってしまう。ストラがいる位置を把握してから潜む場所を考えねばならないのだ。
上の階のバルコニーに手をかけ、壁を軽く蹴って駆け上がるように登る。窓のそばに誰もいないことを確認して、音を立てないように降り立った。
窓の内側は下の階とは違い、立派な絨毯が敷き詰められ、飴色に磨かれたテーブルと揃いの椅子、それに大きなソファが並んでいた。どうもここが彼らのリビングルームらしい。
豪華なリビングの外のバルコニーがこんなに貧相で狭いというちぐはぐさに物悲しさを感じるが、それはひとまず置いておいて、リビングが無人の今が侵入のチャンスだ。窓の鍵をナイフでこじ開け、開く。
「どうして!? 私を連れてってくれるって言ったじゃない!!」
アドニスが窓を開いたと同時に何かの割れる音と女の怒鳴り声が聞こえ、さすがのアドニスもビクッと肩をはねさせた。
声の響き方からして隣の部屋だろう。深呼吸をして騒ぐ心臓を落ち着け、気配を潜めて聞こえてくる音に耳を澄ます。
「しばらく離れるだけですよ。数日で戻ってきます」
女の金切り声とは対象的に、ひどく落ち着いた男の声が答えた。この聞き覚えのある声は間違いなくストラのものだ。
ストラが言い終わらないうちに、女が再び怒鳴り始める。
「数日だって待てないわ! 私あのおばさんから恨まれてるのよ? きっと復讐される。おばさんのこと助けに来たのはエルフだって聞いたもの。エルフが相手じゃここの連中はすぐやられちゃうし、私このままじゃ殺されちゃうわ…!」
「……」
「なにか言ってよ! だって貴方が望むからザースにお願いしてあのおばさんを捕まえてもらったのに! ねえ、一緒にシェパーズで暮らすって言ったじゃない…あのおばさんを殺せば、シェパーズでお金がもらえるって……」
怒鳴り声から、すがるような声に。段々と弱々しくなる。
弱い声が途切れたあたりで笑い声が響いた。
我慢しきれなかったとばかりに吹き出し、笑い続ける。
「……ねえ、どうしたの? なんで笑ってるの? そう、そうね、冗談なのよね?…だって愛してるって」
「あははははは!! 本当に、救いようがないな!」
「どういうこと…」
「見た目につられて簡単に恋人を裏切るのがお前の『愛』だろ? 挙げ句馬鹿げた嘘を信じて、それで全部なくすお前が救いようのないバカだってことさ」
「…嘘、嘘よ…」
呆然とした様子の声に、ストラは馬鹿にするように鼻を鳴らして嗤った。
「エルフの俺が本当にお前なんか相手にすると思ったか? 人間ごときが調子に乗るな」
「エ…ルフ…?」
「まあお前にはもう少し仕事があるからな。『今は』殺さずにおいてやるよ。じゃあしばらくオヤスミ」
「まっ……」
バチンッという何かが破裂したような音と、どさりと重いものが倒れる音が響いた。
「チッ、無駄に騒がれたせいで余計な魔力使う羽目になったじゃねぇか」
不機嫌なつぶやきの後にギシッと椅子に座る音がして、そして静まり返った。
話の流れからして、女はアナベルで間違いないだろう。
『もう少し仕事がある』ということはまた魔法薬で洗脳してなにかさせるつもりだろうか。
――濡れ場じゃなくて修羅場だったな。
ルルシアが見ていたらやはり『昼ドラ展開!』と顔をしかめたところだが、あいにくとアドニスは場末の吹き溜まりのような場所でこんなやり取りはよく見ているので何の感慨も抱かなかった。
ただ、女がストラを刺殺してくれれば話が早かったのにな、と残念に思いながらストラを監視するために屋根裏によじ登った。




