破れ目たたり目
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
お、どうしたつぶらやくん。変な目でこっち見て。
――ズボンのまたぐらが破れている?
いやいや、まさか……って、ええ! マジだ、これ!
くうう、立っているときはそうそう気がつけないよなあ、これ。座ってみると、破れ目が強調されるポジション……今日は何とか乗り切るしかないか。
つぶらやくんは、大丈夫かい? 上着にせよスラックスにせよさ。
こいつらがひとセットってのが、スーツのつらいところだねえ。どっちかが無事でも、着ることがおじゃんになる。破けるのはもちろん、これからの時期は、日焼けも大敵だ。色落ちすると、おちおちお客様の前にも出られりゃしない。
この手の汚れ、破れは嫌でも私たちの注目を集めてしまう。自他問わず、悪いと認識することに、俺たちは敏感だからな。
だが、あらゆる道具はいずれ傷み、見栄えを損なって、消えていくもの。自然の摂理だというのに、私たちがそれをとがめるようになったのは、いつからか? どうしてそのままにしておかないのか?
そう思っていた私は一時期、いろいろな方へヒアリングしたんだが、いくつか興味深い話を聞く機会があってね。そのうちのひとつ、耳に入れてみないかい?
むかしむかし。
ある地域では、だいぶ早い時代から、ももひきを着用していたらしい。
上は武士から、下は農民まで。涼しげな日が多い気候であることも手伝って、普段着のあわせの下に着用するのが、普段通りだったという。
その日も、仕事を終えた若者が、ももひきを履きながら家路へ急いでいた。
そして家近くの小川へ差し掛かった時だ。
片腕の長さにも満たない、幅のせまい川。そこをまたぎこすや、「ビリリ」と、またぐらのあたりから、生地の裂ける音が響く。
とっさにその場でかがみこみ、目を落とした。やや右の太ももよりの、一文字の亀裂が入っている。糸が頭を出した様子もなく、極端に足を開かなければ、目立つものでもない。
――ほうっておいても、いいか。
繕い物は苦手だし、生来のケチ根性も手伝って、当て布をするのさえも抵抗を覚えてしまうほど。
誰かにとがめられたら、その時に考えればいい。彼はそう思って、破れ目を放っておいたんだそうな。
それから数日の間は、問題なく過ごすことができた。
あらためて意識しなければ、歩き心地に障りなく、誰かに裂け目を追及されることもなかった。この調子なら、いまの状態でも問題ないかと、若者が思い始めていた矢先に。
ビリリと、ももひきのときと同じような音がして、今度はあわせの袖部分。肩とつながるあたりがほつれ、すき間ができてしまう。
幸いにも、穴が開いたのはひじの下。腕を伸ばしたうえで、下からのぞき込むような形をとらねば、まずわからないだろう。男はまた引き続き、ほつれて破けたあわせに、腕を通し続けたんだ。
しかし、一度ほつれれば、そこが新たな傷への引っ掛かりになる。
一か月も経つころには、最初のところに加えて、左のひじの下、左の太ももの付け根にも、同じような傷が入っていた。つい最近などは、ももひきの脛あたりにももらって、足袋の長さを調整し、ごまかすこともしている。
いずれも同じ、真一文字の裂け方だ。最初についた右太もものものも、汚れがつくことはあるが、傷そのものに広がりは見られない。他の部分も同様だ。
偶然で片づけるには、数がそろいすぎている。何者かのたくらみという可能性もあるが、若者はやはり直さないままで、日々を送ることを選んでいた。
――誰に相談しようが、うっとおしさと面倒ごとが増すだけ。ならば、このままの状態で、こいつらがボロボロになっていくのに任せた方が、気が楽だ。
どこまでも面倒くさがる若者だったが、そのうち奇妙なことが起こり始める。
自分の歩いた後。遅れて一歩、小さくだが自分の足音について、地面を叩く音が続くことがある。
振り返っても、そこには誰もいない。気のせいかなと、何歩か歩くとまた「ぱたり」とひとつだけ土を踏む音がして、すぐに止む。誰の姿もそこにはいない。
自分の背筋がうっすら寒くなるのを感じ、若者はさっさと家に入って、後ろ手に戸を閉める。火を灯し、湯を沸かして、自分の服を脱ぎにかかった。
そうして初めて、彼はあわせもももひきも、あの裂けた部分の周囲がぐっしょり濡れていることに気がついたんだそうだ。
しぼれてしまうほどに水気を含んだ部分は、嗅いでみると妙に汗臭かった。彼は汗っかきではなく、例年通りの涼しい気候もあって、ここまで汗で湿るような環境ではないはず。
実際、裂けた部分以外の生地はまったく濡れていない。丹念に体をこすってみるも、かぶれた痕などは見当たらなかった。ただあの生地の裂けたあたりをなでると、まるで寝不足がたたった日の昼間のように、一瞬、意識が遠のきかけて、体がぐらりとかしいでしまう。
ようやく彼は、重い腰を上げた。
家で使わなくなった服の生地を裂き、裏から裂けた部分に当てていったんだ。たどたどしい縫い目ではあるが、破れ目そのものは完全に塞がっている。
――もし、破れ目から悪い気が入り込んでいるなら、これで防ぐことができるはず。
彼はそう目論んでいたのだが、予想を上回る事態が、翌日に待ち受けていた。
彼が、直したあわせとももひきを身に着け、家を出てからわずか数歩。
ダダダダ、と追いかけるような足音が続いた。今度は彼が足を止めても止まず、その音の出どころは、自分の足元だった。
彼は大きく目を見開く。繕ったばかりのまたぐら、わきの下、すねあたりから、一気に当て布を飛び出して、ダバダバと汗が垂れ流されていく。その上から次々垂れ落ちるしずくたちが、あたかも駆ける者の足音のように聞こえていたんだ。
驚きは、長く続かない。ほどなく彼は体から力がみるみる抜けてしまい、その場でうつぶせにぶっ倒れる羽目になった。
水音はそれからもしばらく続いたが、やがておさまる。代わりに倒れた彼の身体をよけるようにしながら、ぞろぞろと追い越していくものたちがいる。
倒れた若者の顔ほどの高さしかない、小人だった。土と垢を固めたような、茶色と黒のふんだんに混じった、しかし人をかたどったとすぐに分かる四肢を持ち、ヨチヨチヨチと歩き出したばかりの赤子のようなつたなさで、土の上から草むらの中へ消えていく。
彼は残った力をどうにかこめて、彼らへ指を伸ばす。それにつまづいた小人は、地面にぶつかるや、すぐに腕がもげてしまうも、そこからとろりと垂れたのは、人と変わらない真っ赤な血だったという。
小人たちが去ってほどなく、近所に住む人に発見された彼は、医者に診てもらったところ、重度の貧血だと判断された。このときに採られた彼の血は、虫のものと見まごう、真っ黄色をしていて、とても人のものとは思えなかったそうな。
あの破れ目を通して、自分の「人間」が地面の中へ逃げて行ってしまったのかな。
晩年の彼はそう語ったと、伝わっているんだ。