ジョーク
皆が、拍手で出迎えてくれるが、その顔は社交辞令で訓練された完璧な演技で非の打ち所がなかった。
彼らは礼儀で「恥」を隠す。
俺は舞台上の光の当たらない、特別席へ招待される。
隔離場所で、人の目のつかない、バックステージへと。
皆が、チームプレイを強調するが、そこに俺はいない。
罪悪感なのか、優越感なのか判別できないが、「チームプレイ」であることを演者が強調して、舞台挨拶をしている。俺には嫌みにしか聞こえない。あらゆる感情が渦を巻いていて、それをじっと眺めていると、いつの間にか場の照明が落ち、作品の上映が始まっていた。
文字にすると目に懐かしい、キャラクターの名前が耳に入っても、別人で、「誰だっけ?」と割と真面目にとぼけてしまう、認知症、いや、違う。部外者に親近感が湧くわけもなく。空しい時間が過ぎていく。
俺は昔見た、「ブリグズリー・ベア」という映画を思い出す。
人攫いの夫婦にさらわれた男が、隔離施設の中で育てられ、中年になっても外の世界をしらなかった男が救出され、外の世界を知る。
本当の家族と対面するが、彼にとっては他人ばかりの世界で、映画のすばらしさに気づき、映画製作に取り組む映画。
出来上がりはショボいものだったが、主人公は一生懸命で、登場人物は皆、いい人ばかり。最終的に劇場でそれは公開されることになる。
主人公は「受け入れられなかったら、どうしよう?」と悩む。トイレで吐く。帰ってくると暖かい拍手で迎えられる。
俺はそれが夢の世界の戯れ言である事を思い知らされ、だが、そんなものを期待したわけではなかった。プロの世界は厳しい、実力がなければだめだ。お金を取るわけだから、下手なものを「一生懸命作りました」では通じない。お遊戯が許されるのは高校生、大学生の文化祭までだ。
ただ、生け贄が俺の魂でなければならない理由が最後までわからなかった。
「ブリグズリー・ベア」の美点は正直さに寛容だった事だ。
まぁ、主人公が作った映画は商業作品ではなかったからなのかもしれないが。この劇場は、全てが人工的なもので溢れている。
照明がフロアを暴き、茶番が終幕を迎えた。
その後の事は覚えていないが、上手くやれたのではないか、と自画自賛している。声優の演技もすばらしいが、知らぬ存ぜぬに徹する俺の演技もまた誉められるレベルであったと思う。
某声優の新書を読んだが、「この世界は厳しい」らしい。
確かに厳しい。
こんなみっともない「恥」を腹に飲んで素面のフリをするのはもう、耐えられない。金をもらって、「仕事」をした、誰の目にも触れられない場所で座っているだけの「仕事」を。
数日が経って、盗作騒ぎでネットが騒がしかった。
ある小説投稿サイトの作品と似通っているらしい。
確認すると、別名義で登録した俺の作品で、登場キャラクターと設定と、ある程度の物語内容が一致していた。
本人ですら忘れていたそれを、誰がどこから引き上げられたのかは知らないが、しらばっくれる事にした。
客足は遠のき、大赤字だったらしいが
もらうものはもらったし、この騒ぎを静かに傍観していようと思った。
俺の作品のはずだが、俺の作品でない「チームプレイ」の産物に向けて、俺の言葉にできない感情を代弁した、卑怯者を罵るコメントがぶつけられていた。
もちろん、俺は加害者側になるわけだが、何故か気分はいい。
携帯電話に電話がかかってきた。
俺は笑顔で受話器の向こうの怒声に頭を下げながら、謝り続けた。
昔のアカウントでコメント欄に「損害賠償請求だ」と一言打ったら、受話器の相手の様子が変わった。
落としどころに見当がつかないが、俺の気分は高揚し、
映画「ジョーカー」で見た、階段でタップ・ダンスを踊るジョーカーの真似をしてみた。最高に気分が良かった。