猫事件
本作はあくまでフィクションです。作中の犯罪めいた行為を真似すると、たぶん逮捕されます。
悪夢の始まりは、僕の口から滑り出た一言だった。今になって考えても、どうして“彼女”の事を話題にしようとしたのか定かではない。
「あのさ、うちのクラスに安西さんって人いたよね?」
「安西……ああ、たぶんいたと思うぞ」
僕の真横で、靴の踵を踏みながら歩く仲上君が言った。
大柄で背は高め、ボサボサの茶髪にやんちゃそうな顔立ちは、大雑把な性格をそのまま表している。
「安西って、最後尾の窓際の席にいる女子だろ?」
僕と仲上君の後ろから歩く池沢君が言った。三人の中で一番小柄だが、一番頭がいい。栄養が頭に集中したのだと本人は釈明するが、学校はもちろん、通っている塾の成績はあまり良くない。
今、池沢君の歩みが遅い原因は、短足ばかりではない。スマホを覗きながら歩いているのだ。僕らは再三注意してきたのだが、何度も頭を電柱に打ったり、側溝に足を踏み外したりしても、本人は改める様子を見せなかった。しまいには、僕も仲上君もいつの間にか注意するのを止めた。
「もしや、山野辺は彼女に告る気か?」
紹介が遅れたけど、山野辺とは僕の名前だ。
「違うよ。なんだかさ、気になるんだよ」
「異性として気になるというなら、それを好きだという」
「おかしな人として気になるの」
「おかしな人ねえ……おかしな安西が山野辺のタイプか?」
「いい加減“好き”から離れてよ。謎が多いというか、ミステリアスというか、興味本位で気になるんだよ」
「謎、ね……」とつぶやきながら、池沢君は顔をスマホから離した。
いつもゲームに没頭する彼が、珍しく興味を示した。つかみは悪くないと安心しつつ、僕は話を続けた。
「安西さんはどこか変ってるというか、授業以外は机に座ったままだよね。ボンヤリと窓を眺めているかと思えば、ふらりとどこかに消えたりしてる。だからと言って、いつも一人じゃなくて、女子の話の輪に溶け込んでる。けれど、決して、グループの中心にいるわけでもない」
「すげえな、山野辺。やっぱ、安西が好きなんじゃねえの?」
仲上君の茶化しを受け流しながら、「池沢君はどう思う?」
「確かに、安西は目立たない女子だが、孤立している印象はないな。だからと言って、特徴を三つ答えるとなると、できる奴はいないと思う」
僕は、安西さんがどんな人なのか思い出そうとしたが、イメージはなかなか湧かなかった。人間の姿はしているのは確かだろう。
「そもそも、五年五組に安西の友達がいるかどうかも怪しい。存在自体を認識している人も少ないんじゃない。もしかすると、彼女は忍者の末裔かも知れない。そうなら、自分の気配を消すなど容易いだろう」
「安西さんが忍者なら、どうして気配を消す必要なんかあるわけ?」
「前にどこかの本で読んだが、忍びの修行かもしれない」
「あるいは幽霊かもよ。幽霊がクラスメイトに紛れ込むなんて話は、本で読んだ事あるよ。もしそうなら、僕には霊能者の素質があるんじゃないかな」
「単に、存在が薄いだけじゃねえのか?」
仲上君が容赦なく毒舌を放ち、僕らの想像を打ち消そうとする。
話は変わるけど、僕は非常に忘れっぽいせいか、宿題を忘れる事が多い。当然、放課後に居残る回数も多くなる。
仲上君は宿題が嫌いで、故意にやってこない。強制を好まず、自分を押し通す。竹を割ったような性格と言えば聞こえがいいが、居残りをサボるほどの度胸はないようだ。池沢君のノートを丸写して逃れとし、僕もそれにあやかっている。もっとも、当の池沢君が宿題をしていなければ、結果は同じである。
今日も三人共が全滅、夕方の五時近くまでの居残りをやっと終えて、夕日の眩しい帰り道の途中だった。
「オレは、安西を外で見た事があるぞ」
「どこで?」
僕は、意外な情報源である仲上君に耳を傾ける。
「学校の花壇に、マタタビがたくさん植えてあるだろ?」
「うん。校長先生が毎日水をやってるよね」
「三日前、そのマタタビが根こそぎ盗まれた。校長はカンカンになって、犯人探しまでしたが、未だに目撃者の一人も出てこない。だけど、オレが思うによ、あの犯人はおそらく安西のやつだ」
「彼女が盗むのを見たの?」
「いや。オレの住んでる団地の前に大山公園ってあるだろ。山の形をしたアスレチックのある公園。あそこで安西が何かをしてたんだ」
当時、仲上君はベランダからそれらを目撃していたらしい。気になって確かめに行くと、彼女の姿はなかったが、その代わり……。
「マタタビがばら撒いてあったのか?」
池沢君の推理に、彼は頷いた。
「状況証拠と仲上の目撃からして、確かに犯人は安西だろうな」
「なんで、そんな事を?」
「きっと、ここがおかしいんだぜ」
頭に向けて指をクルクル回す仕草をしながら、仲上君は言った。
池沢君は咳払いすると、「何を隠そう、僕も安西を目撃した。日時は二日前の六時頃。塾の向かいのコンビニにいた」
「買い物してたの?」
「コピー機を独占してた。何百枚も印刷して、結構慣れた手つきだった。モノクロ印刷のボタンを何度も連打して、金を置く受け皿には、十円玉が山のように積み上げてあった。店員が何度も用紙を補充していた」
「どれぐらいの時間をそうしていたの?」
「一時間半くらい。七時時過ぎに出て行った」
「池沢は塾で勉強するより、安西を覗き見するのに熱心なんだな」
仲上君の指摘に動揺を隠さず、彼は伊達メガネをわざとらしくかけ直した。
「そ・れ・で、山野辺は安西に関する情報はないのか?」
待ってましたと言わんばかり、僕は隠し玉のネタを披露しようと思った。
「幼馴染の笠木さんから聞いた噂だけど、安西さんは一年前、つまり、四年生の時に別の転校してきたんだって。だけど、安西さんは一学期、二学期、誰とも話さずに過ごしていたらしい」
転校生は二種類いると思う。すぐに周りに溶け込むタイプと、馴染めずにいるタイプ。笠木さんの言葉を借りれば、彼女はそのどちらでもなかったという。孤立しているわけでもなく、新しいクラスに気を許している様子ではなかったという。わざと距離を置いていたという。
どうしても話さないといけないような時、例えば、授業で指された時などは、テキパキした声で答えていたらしい。
ある日、ガラの悪い女子のグループが安西さんへのいじめを始めた。物を隠したり、仲間内で無視したり、陰口を叩いたり……数日後、安西さんは学校に来なくなった。いじめグループは上機嫌だったが、周りは傍観しているしかなかった。それは間違っているかもしれないけど、誰だってそうする。
ところが、安西さんは一日だけ休んで学校に来た。
また、いじめが再開されるとクラスの皆は戦々恐々だった。ところが――。
「今度は、安西さんと入れ替わるようにして、いじめグループが揃って欠席しちゃったんだ」
「いじめていた奴らが?」
理由は一切不明だった。彼女達の不登校は、三学期の終わりまで続いた。
話を終えると、特に仲上君は青白い顔に変っていたので、僕は内心嬉しかった。彼は意外とこの手の話に弱いのだ。いわゆる、ノミの心臓ってやつだ。
「まさか、安西が全員殺しちまったのか?」
「そんな訳ないだろ。いじめグループは保健室に通っていた。理由は全員同じ、安西さんが怖い。彼女と一緒にいたくないって、担任に頼んだそうだ。安西さんにごめんなさいと、泣きながら何度も訴えたんだってさ」
仲上君は、耳を塞ぎながら呻いた
「やべえ……安西は人間じゃねえ! 奴の噂をしたオレらもきっとそいつらみたいに保健室通いにされるんだ! 軽はずみに人の噂をするなって、母ちゃんも言ってた! 約束破ってゴメンナサイ!」
「馬鹿馬鹿しい」
池沢君が鼻で笑う。
「だいたい、いじめグループを保健室通いに追い込んだのが、安西って確証はどこにもない。なのに、そんな――」
その時、電柱の陰から何かが飛び出した。池沢君は雲を貫くような悲鳴を上げて、後ろに腰を抜かした。どうやら、内心怖がっていたらしい。
彼を驚かせた正体は、一匹の猫だった。
「何だ、猫か。驚かせて……」
「すごい声だったな、池沢」
「うるさい。藪から棒に出てくる方が悪いのさ、フン」
池沢君は恨めしげに猫をにらみつける。
「野良猫かな? それにしても珍しい猫だよね」
僕もその猫をまじまじと観察した。フンワリとしていそうな白い毛並み、顔や脚先はこげ茶色をしている。金色の首輪を付けているのだから、誰かの飼い猫だろう。それにしては、少し汚れているな。
「変わった猫だね」
「バーマンだな。ミャンマー原産の高級猫だ。猫の中ではおとなしい部類で、血統書付きの純潔だと十数万はするよ」
「どっかの金持ちの飼い猫だろ、きっと」
僕らには縁もゆかりもない存在だろうと、この時はそう思っていた。仲上君はある物を見つけるまでは。
「おい、これ見ろよ」
ふと、猫が出てきた電柱に貼ってある大きなポスターに気がついた。
《迷い猫を探してます。保護した方には謝礼として金一封、有力な手掛かりを提供した方にも謝礼金の一割を差し上げます》
文句の下には、飼い主のものらしき携帯の番号が書かれている。そして、写真の猫は、ふんわりとした白い毛並みに、こげ茶色の顔に四本足。そして、金色の首輪が目印……。
「この猫って、もしかして」
薄汚れている点を無視すれば、写真の猫と目の前のそいつは瓜二つだった。いや、そいつも金の首輪をしているので、疑う余地はない。今、僕らの目の前に賞金首がいるのだ。
「同じ猫だよね?」
あいつは塀の上に飛び移った。人間を馬鹿にしたような、冷やかな目で僕らを見下ろしている。張り付くような警戒心が伝わってくる。
「こいつを捕まえたら、謝礼金。こいつを見たって情報を教えても一割。悪い話じゃない。この手のお礼は菓子箱がせいぜいだ。だが、あれには謝礼金とはっきりと書いてある」
池沢君はいつになく興奮している。自分のスマホで猫を撮影してから、電柱の下に生えている猫じゃらしをむしり取ると、猫の鼻先に突きつけた。実らが敵ではないと教える作戦のようだ。さすがは僕らの頭脳である。
しかし、こちらの目論見をいち早く察知したのか、猫は腰を上げて、牙をのぞかせる。低いうなり声を上げて、前足を振りまわしてくる。
「打ち解けている。こいつが懐くまであと一歩だ」
「なんか怒ってるみたいだけど」
そうこうしているうちに、猫は塀の向こうへと消えてしまった。
「逃げられちゃったね」
「悲観するのはまだ早い。情報提供でもお礼の一割はもらえる」
池沢君はポスターにある携帯番号に電話した。そして、電話口の相手に名前と、猫のいた場所を伝えた。
「妙な奴だな。機械で声を変えてるみたいだった」
「機械で声を?」
「テレビのサスペンスドラマなんかで、誘拐犯が身代金の指定をしてくるような、あの声だ」
猫の飼い主はよっぽど人見知りの激しい人か、自分の正体を知られたくない事情でもあるらしい。
しばらくしてから、前方から一台の自転車が走って来た。しかも、猛スピードで突っ込んでくる。
驚く僕らをかすめて、ポスターの貼ってある電柱の前で止まった。運転手の少女が、自転車から降り立ちがこちらに顔を向けた途端、僕ら三人は揃って、「あっ!」と声を上げた。
黒と灰の地味な服装に、肩の辺りで揃えた黒髪に青白い肌、横一文字に締まく唇、そして、眉を隠す前髪の下から覗く瞳は異様に鋭く、陰湿なオーラを放っている。人を信じる事を知らない。そんな言い回しが怖いほどに合っていた。身長は一二〇センチの池沢君より少し背が高いぐらいで、僕と同じぐらいだ。
しかも、彼女はまったくの初対面ではなかった。
「もしかして、安西さんだよね?」
そう、電話の主は、さっきまで僕達が噂のネタにしていた、安西さんその人だったのだ。人の噂を軽々しくするものではない。
「……どこかで会った?」
頭を傾げながら、安西さんが不審げに言った。
「同じ五年五組の山野辺だよ。こっちは仲上君と池沢君」
「それより猫は?」
僕は言葉に詰まり、一度、二人に目配せしたが、どちらも、何もないはずの空を見上げてばかりする。こんな状況に陥ると薄情になるのが、僕らの友情だ。他人以上、親友未満の緩い人間関係である。
とにかく、黙ってもいても仕方がないと思い、僕は観念した。
「実は、塀の向こうを走って逃げちゃった」
安西さんは信じられないといった風に目を丸くし、冷やかに細めた。大きなため息をわざとらしく吐いた。正直、僕は少し傷ついた。使えない奴らだ、そう言われたようなものだった。
安西さんは大きな地図を取り出すと、現在位置を確認すると、指でなぞっている。それが猫の逃走経路だと、少し後で知った。
次に仲上君を手招きする。
「な、なんだよ?」
「私は塀の上に乗りたい」
「だから何だ?」
「踏み台になって」
「なんで俺がお前に踏まれなくちゃいけないんだよ?」
「この中で一番背が高いから」
「ああ、なるほどね……やなこった!」
仲上君は何事も反抗したがる。反骨精神がカッコいいと思っている。女子、それもほぼ初対面に近い安西さんの命令など従うわけがない。
しかし、彼の得意満面の表情が驚きに変わった。安西さんが目元から大粒の涙をあふれ出させ、甲高くむせび泣き始めたのだ。
近くを通りかかった子連れの主婦が、その光景に眉をひそめながらヒソヒソとささやく。
「やあねえ、イジメかしら」
「情けないわね。図体の大きい男の子が女の子を泣かせて」
「まったく、親の顔が見たいわね。頭も悪そうな顔だしね」
非難の声が容赦なく、仲上君の背中に突き刺さる。反抗心はあっても忍耐力のない彼は、我慢できずに音を上げてしまった。
「分かったよ! やりゃいいんだろ!」
仲上君はランドセルを僕に預けると、塀の前で腰をかがめた。その丸い背中を容赦なく踏みつけて、安西さんは塀に上がると、その向こうへ姿を消した。
僕はなぜか気になり、申し訳ないと思いながらも、「安西、もういいのか?」と気づいていない様子の仲上君の背中に飛び乗った。
「ぐわっ! や、山野辺、お前まで俺を利用するのかよ!」
「ごめんなさい」
泣き真似する女子に根負けして、おまけに踏み台の代わりをさせられ、彼のプライドはズタズタに違いない。後で慰めてあげてなくては。しかし、今は安西さんの追跡に専念した。
幅の狭い塀を軽い身のこなしで移動する安西さんの背中を捉えると、僕はそのあとを追った。
家のリビングで掃除をしていた女性が小さく叫ぶ。ビールを飲みながら野球中継を見ていた老人が、口からビールをこぼしたまま茫然としている。住人が驚くたびに謝りつつ、僕は安西さんを見失わないように急いだ。
彼女は一体どこに向かうつもりなのか?
やがて、安西さんは塀から飛び降り、僕はそれに倣った。生垣の上に着地すると、周りを観察した。
「ここは、大山公園?」
山の形をしたジャングルジム。ブランコとベンチがポツンと置かれ、公園から道路を隔てて、仲君の住む団地が見える。
公園には辺り一面にマタタビが散らばっており、それらにつられて来たのか、野良猫至る所にたくさんいた。
「これをしたのは、安西さん?」
彼女は静かに頷く。
「どうして――」と続きかけた僕の口を塞いだ。
「静かに。あの子がいる」
安西さんが指した方に、マタタビの上で寝ころぶ一匹の猫がいた。間違いなく、例の迷い猫のバーマンだ。
「あの猫、安西さんの?」
「違うけど、大事な猫なの。あの子がいないと、計画は水の泡になる」
計画が水の泡? 彼女の言葉すべてが謎に満ちている。
安西さんはランドセルから、折り畳んである白い網を僕に渡した。
「あの子を捕まえるのを手伝って」
有無を言わせなかった。こちらが断る前に、安西さんは身をかがんで生垣を匍匐前進していき、猫の背後に回り込もうとする。夢中になっているのか、マタタビに夢中な猫は気づいていない。僕は固唾を飲んで見守った。
猫の後ろから接近する安西さん。その手には大きな虫網が握られている。それを振り上げたその時――。
「おーい!」
タイミング悪く公園に駆け付けた仲上君が、無神経な大声を上げた。
安西さんは慌てて網を振ったが、見事に空振りしてしまう。猫が走り出し、彼の股の間を抜けていった。さらに、後から走って来た安西さんによって、邪魔だと言わんばかりに突き飛ばされた。
彼女から逃げる猫は旋回すると、僕が潜んでいるのも知らず、生垣の方へまっすぐ走ってくる。運動神経があまりいいとは言えず、僕が網を振り下ろす前に、そいつは顔に向かって飛びかかってきた。そのまま猫を抱えたまま、自分も網にかかってしまう。
猫は一心不乱に僕の手を引っ掻いてくる。
「イタタタ! 誰か、誰か助けて!」
ジタバタ暴れていると、安西さんが網を取り上げて、猫をつかんで、ゲージの中に入れ、マタタビを拾って、それをゲージの隙間に投げ込んだ。暴れている猫は、ウソのように静かになった。
偉業を成し遂げたみたいに、安西さんは薄い笑みが浮かべた。
僕らの方は散々だった。後から来た池沢君に介抱されている仲君は気絶したままだし、僕の顔は引っかき傷だらけだ。
仲上君は程なく目を覚ますと、安西さんに喰ってかかった。
「さっきはよくもやりやがったな!」
彼女に掴みかかろうとするのを二人で留めていると、安西さんは、「ごめんなさい」頭を下げた。目から涙を浮かべているが、さっきの事もあるので演技かもしれない。
「無我夢中だったの。本当にごめんなさい」
「もういいよ。気にすんな」
仲上君は簡単に許した。強くてなくては生きていけない。優しくなければ、生きる資格はない。それが、彼の座右の銘だった。
安西さんは何事もなく泣きやんだ。やはり、演技だったのだ。
でも、彼女は、自分のハンカチで僕の手当てをしてくれた。本物の看護師みたいに手際がよかった。
手当てが終わり、安西さんは飼い主の家に猫を届けに行くから、一緒に来てほしいと頼んだ。謝礼金の話を思い出し、誰も反対はしなかった。塾のある池沢君も、今日は遅刻すると言ったほどだ。
さっそく、僕らは猫の飼い主の家へ向かった。
安西さんは、いかにも金持ちが住んでいそうな大きな家のインターホンを押した。なんと、隣町までやって来たのだ。
門を開けて出てきたのは、小太りのおばさんだった。左右の指には指輪をはめている。香水の匂いが強くて、鼻炎気味の僕はくしゃみを連発した。
怪訝な目つきで「何の用?」と不愛想に問いかける。
家人に臆する様子をまるで見せず、安西さんは言った。
「迷い猫を見つけた者です」
そう言うと、ゲージから猫を取り出した。オバさんの小さな目が輝いた。安西さんから猫を無理やりひったくると、力強く抱きよせた。
「ミッフィーちゃん! 会いたかったわ!」
飼い主と飼い猫の再会。感動の場面だが、感極まったオバさんの迫力と、嫌がっていそうな猫の姿に、どうしても感動する事ができない。
「あんた達が見つけてくれたの?」
「保護したのは私一人で、後の三人は情報提供者です」
「そうなの、そうなの。じゃあ、お礼をしないといけないわね」
安西さんが後ろに回した手で小さくガッツポーズを決めた。
オバさんはポケットから出した封筒を安西さんに渡すと思いきや、なぜか、玄関の靴箱の上に置かれた喉飴を彼女の手の上に乗せた。
「感謝するわよ、お譲ちゃん」
そう言うと、なんと、猫を抱えたまま家の中に入ろうとする。
「あの、謝礼金は?」
「悪いけど、子供に大金を持たせたらいけないのが、オバさんの考えなの。今の子供は何でもかんでも無駄遣いするからね」
「それとこれとは関係ないと思いますけど?」
「いけないわねえ、せっかく良い事をしたのに、欲深げにお金をほしがるなんて。ボランティアをしたと思うといいわ。ボランティアって分かるよね? 無償奉仕っていう意味なの。子供は純真無垢が一番なのよ」
背伸びをする幼稚園児を諭すかのような言い方だった。
「約束が違うわ。私達は猫を見つけておばさんの家に届けたから、おばさんは私達に約束のお金をあげないといけないのに」
言葉を震わせる彼女に加勢するべきなのは分かっている。でも、僕はもちろん、他の二人もそんな度胸はなかった。他力本願、常に傍観者なのが、五年五組の残念グループたる僕らの自然体なのだ。
「だいたいね。お金は大人になって働いて手に入れるものなの。楽して運よくもらっても、何にも嬉しくないわよ。じゃあね」
オバさんは高笑いすると、門を閉めて家の中に消えた。
「さあ、私の可愛いミッフィーちゃん! すっかり汚れちゃったからお風呂に入りましょうね」
そんな声が聞こえてくるが、安西さんはまだ動かないままだった。僕は遠慮がちに後ろから声をかける。
「帰ろうよ、安西さん」
あのオバさんは最初からお金なんてあげる気はなかったのだ。僕達は、態よく利用されたのだ。
「かわいそうな人」
「うん。そうだね。僕達は負けたけど、正義を守った」
平気で嘘をついてまで約束を破ったおばさんは、ある意味哀れな人だ。まあ、もはや負け犬の遠吠えだし、後の祭りなのだが。
安西さんはさらにこう言った。
「約束を守ったら、返してあげるつもりだったのになあ」
僕は思わずその横顔を見た時、心臓を鷲掴みにされた。
彼女はもう泣いてなどいなかった。長い前髪をかきあげて、今まで隠れていた細長い眉と、その下でらんらんと輝かせる瞳を露わにさせる。そして、白い歯が覗くほど口を大きく開けて、不気味な笑顔を浮かべていた。
「ついて来て、ズッコケ三人組。面白いものを見せてあげるから」
安西さんは再び歩き出す。一緒について来るように命令するので、仕方なく後ろから歩くしかなかった。
「何があるんだよ、安西?」
「仕掛けてあるの」
彼女はそれ以上何も教えてくれなかった。
安西さんの足は住宅街を抜けると、駅前にある噴水の前で止まった。
噴水のそばには、おとぎの国に出てきそうな時計台が鎮座する。よく、カップルやグループが待ち合わせに使っている場所だった。
安西さんはベンチに座り、膝にゲージを乗せたままじっと待っていたので、僕らもとなりのベンチで彼女の動向を見守った。何かが起きる予感を期待しつつ。しばらくすると、「あのお……」と大学生ぐらいの女性が声をかけた。
「山田さん、ですか?」
安西さんは勢いよく立ちあがり、信じられないくらい明るい笑顔で挨拶する。まさに猫なで声に猫かぶりだ。
「はい! 母の代理で来ました。これは約束の猫ちゃんです」
そう言うと、ゲージから一匹の猫を取り出した。さっき、オバさんに渡したバーマンとそっくりだ。
「まあ、かわいい! 本当にこの子をたったの十万円で譲ってくれるの?」
十万円……? 次元の違う大金だった。
「はい。これが血統書です。この子は純潔のバーマンの四代目です」
女性は猫を抱えながら、丹念に観察した。
「手触りのいい毛並みに、気品のありそうな顔立ち、落ち着いた雰囲気。確かに正真正銘のバーマンだわ」
女性は鞄から少し分厚い封筒を取り出すと、それを安西さんに渡した。
「大金だから気をつけて持って帰るのよ。あなたはもしかして、小学生?」
「よく間違われちゃうんですよ。こう見えても中学二年生で、来年から受験勉強を控えてまーす」
弾けるような笑顔を振りまいて、安西さんは答えた。
「まあ、そうなの。ごめんなさいね。小学生にしては、すごいしっかりしてると思ったもんだから」
軽やかな口調で当たり前のように嘘を繰り出す彼女の話術に、僕達一同は唖然とするしかなかった。
女性は満足げに猫を入れたゲージを持って、待たせてあるタクシーに乗った。手を振る安西さんはしかし、車が見えなくなると何事もなかったようにベンチに座り、銀行の人みたいに速い手つきで封筒の万札を数えた。
「一体、何がどうなってんだよ、安西」
仲上君が恐る恐る聞くと、安西さんは事のあらましを話し始めた。
ある日、安西さんが一匹の迷い猫を見つけた。飼い主を調べた結果、例のおばさんに辿り着いたのだという。金の首輪、高級なバーマンからして、その飼い主は金持ちに違いない。謝礼金のポスターを見つけてから確信した。
そこで安西さんは、猫の有力な情報を提供して謝礼金の一割を、そして、猫を保護したと持って行って、謝礼金をと、二重取りしようと目論んだ。さすがに腹黒いな、と僕は心の中で思った。
ところが、有力な情報を提供したにもかかわらず、飼い主は謝礼の一割もくれなかったのだという。電話口で聞くだけ聞いてから、手掛かりにもならないと難癖をつけたのだ。このままでは、本物の猫を渡したとしても、褒賞をもらえる可能性はゼロに近い。
そこで安西さんは一計を案じた。
町中の裏路地や空き地を探し回り、ゴミ箱を漁る野良猫の中からバーマンに似た体格と毛の色をした一匹を捕獲した。そいつを迷い猫のミッフィーの偽物に仕立て上げようとした。おばさんがきっちりお金を支払えば、本物を返すつもりだったと言うが、ホントのところは分からない。
で、計画通りにおばさんが約束を破った場合、偽物を渡すとして、本物の方はどうするか?
その答えがさっきの女子大学生である。彼女はある理由から、血統書付きの高級猫を欲しがっていた。ブランド品が好きでお金の余裕のある、頭の軽そうな若い女性。条件の合った女子大生にコンタクトを取るのは難しくはなかった。安西さんは偽名を使い、女子大生にバーマン(ミッフィー)の譲渡を持ちかけた。もしも、飼い主が素直に謝礼金を払えば、猫が譲る前に死んでしまったと嘘をつけばいい。
ところが約束前になり、予定外のアクシデントが起きた。安西さんの特殊メイクにより、本物と見間違えるほどになった偽ミッフィーが、一瞬の隙を突いて逃亡を図ったのである。逃げたくなる気持ちも分かるが……。
とにかく、安西さんは焦った。このままでは計画を一からやり直す羽目になる。偽バーマンを探し出すために色々な策を打った。
例えば、迷い猫のポスターに自分の携帯番号を入れて、偽ミッフィーの目撃情報が自分の元にくるように仕向けた。情報から偽ミッフィーの潜伏場所を狭めていき、さらに野良猫が一か所に集まるようにした。学校の花壇からマタタビを拝借して、目撃情報の多い地点から近い大山公園に散布したのだ。
その第一発見者が僕達だったわけである。話を聞き終えた時には、池沢君は青白い顔をしていた。
「待ってくれ。じゃあ、あの血統書は?」
「私の作った偽物よ」
親戚にシャム猫を飼っている人がいて、血統書を借りてそっくりに作ったらしい。時間をかければ、大した作業ではないと、あっけらかんと告白した。
「でも、それって犯罪じゃねえの?」
仲上君の指摘にも、安西さんの冷たい表情は崩れない。
「猫自体は本物なのよ。あの人が血統書の真偽を疑うはずがない」
「でも、こんな事をしたら駄目だと思うけど……」
「何がダメなの? 元はと言えば、あの人が約束を破ったからいけないんじゃないの。飼い猫を探し出したらお金を渡す。お金を渡さなかったから、本物の猫を渡さなかった。それだけの事よ」
池沢君の正論は続かなかった。
「私が大人だったら、あの人は渋々渡していたと思う。相手が子供だから、謝礼を渡すのが惜しくなったの。子供ならタダ働きさせてもいいと思って、私達の約束を破った。だけど、タダより怖いものはないって言うじゃない」
「でも、飼い主と離れ離れになった猫がかわいそうだよ」
「むしろ喜んでると思う。きつい香水から解放されたせいかも」
安西さんは、僕ら三人に一万円を一枚ずつ渡した。
「有力な情報提供者には、謝礼の一割。口止め料込だから、そのつもりでね」
安西さんは「私は正直者には嘘はつかない」と言い残すと、元来た道を走っていった。自分の携帯番号を貼ったポスターを回収しに行くのだろう。僕らは茫然と彼女の後姿を眺めていた。
ただ一つだけ、僕の中で気がかりな点がある。それを二人に聞くべきかどうか迷っている間に、池沢君が先にしてくれた。
「猫の飼い主のオバさんだけどさ、前にどこかで会ったかな?」
「オレもある。山野辺は?」
「僕も。どこの誰なのかは思い出せない」
「思い出さなくてもいいような気がする」
「どうして?」
「なんとなくだが、嫌な予感がする」
池沢君の勘は正しかった。
翌日は平日なのに、なぜか、全校集会が急遽行われた。
今年新任したばかりの女性の校長先生は壇上に上がると、さっそく、長い説教を始めた。
「現在、子供による犯罪が増えております。我が校に限って……と、私は日頃より悩んでいます。翻って、皆さんはどうでしょうか? 嘘をついたり、人の大事な物を盗んだりした経験はありませんか? 嘘つきは泥棒の始まりとも言いますよ」
校長先生の話は長い。僕らの学校も例外じゃない。
少年犯罪の低年齢化の原因は、親の育児放棄、地域社会の疎遠化、食生活の乱れ、ゲームのやり過ぎ、テレビやマンガの過度な暴力描写などなど、自分の考えなのか、テレビや新聞の評論家の受け売りなのかは別として、とにかく校長先生は長々としゃべり続けた。
そろそろ終わる頃合いだろうという全校生徒の期待に反して、説教は校長先生の昔話に変った。私があなた達ぐらいの頃はこうじゃなかった。ゲームやスマホはなかったけど、今と違って義理と人情があったなどなど……。
「私には大きな悩みがあります。あなた達子供の心がトンと見えてこないのです。もちろん、私なりに努力をし、皆さんを理解しようと頑張っているつもりですよ。にもかかわらず! 純真なはずの子供達に裏切られた体験が最近ありました。まず、私が丹精込めて作った花壇を誰かに荒らされました。花も生き物なのです。その命を粗末に扱う犯人を、私は決して許さないでしょう。さらに二つ目の裏切りは、私の可愛い猫を誘拐された事です。娘と言ってもいい、私のかわいいミッフィーちゃんを!」
さあ、もうお分かりでしょ?
昨日、安西さんをだましたつもりが逆にだまくらかされてしまった、あのおばさん。どこかで見覚えのあったのだが、あの人はなんと、うちの学校の校長先生だったのだ。本当に世間は狭い。運が悪いにも程がある。
一時間目終了の鐘が鳴ってもなお、校長の演説に終わりの兆しはなかった。季節は七月の初夏。だんだん暑くなり始める時期のせいか、辺りで生徒がバタバタ倒れて保健室に次々と運ばれていく。低学年のクラスからはざわめきが起こり、中には泣き出す子もいた始末だった。
当の校長先生は、教頭と学年主任に無理やり壇上から下ろされた。その際、「ミッフィーちゃんを返せ!」と大声でわめいていた。
あと一年と半年以上の間、あの校長と顔を合わさずに、僕らは無事に卒業できるだろうか? 見つかれば、きっとタダでは済まない。
「安西のせいだよな?」
真横にいる仲上君がささやいた。僕や池沢君も相槌を打つ。
「安西一人がやった事だ。僕達は加担していない。いっそ、今のうちに謝った方がいいかもしれない」
「やめといた方がいいよ」
ボソリとした声が後ろから流れ、三人そろって震え上がった。案の定、声の正体は安西さんだ。
「あの人は、あなた達の顔も見てる。私の仲間だと思っているはずよ」
今の僕らを正面から撮影したら、心霊写真みたいになってると思う。
「それに、私がバレた日には、あなた達も道連れにしてあげる」
「そ、そんな!」
僕は思わず声に出てしまい、数人の注目を集めた。
「私は嘘をつくのが得意なの。実はあなた達こそが猫泥棒の主犯で、私は嫌々参加させられた被害者ってシナリオはどう?」
「ハッタリこくなよ、安西」
仲上君が小声で吠えたが、いかんせん、いつもの気迫はない。浅黒い肌に冷汗がダラダラと流している。
ハッタリなんかじゃない。蜃気楼のように存在感の薄い普段の安西さん。打って変って、女子大生と一緒にいた時に見せた、あの明るい振る舞い。呼吸するように嘘を吐き、挨拶するように大人を騙す演技力。
安西さんの言う通り、僕らにすべての罪をかぶせて、猫泥棒に仕立て上げるなど朝飯前かもしれない。
「嘘はね、バレないうちは嘘じゃない。けれど、一旦バレてしまったら、誰にも信じてもらえなくなる。でも、もっと怖いものが待っている」
硬直している僕らの耳元で、安西さんはささやいた。
「それはね、誰も信じられなくなるの。自分で自分を疑うようになるんだよ。死ぬまでずっと一生ね。ウソかホントか試してみる?」
抑揚のない安西さんの声には、なぜか力があった。選択の余地はない。僕達は横一列に並んで、彼女の姿を隠す壁になった。
「私達は一蓮托生だから。今日だけじゃない。たった今からずっと、ずっと、ずうぅぅぅと。時効もなし。生きるも死ぬも一人じゃない。皆は一人のために、一人は皆のために。……分かった?」
僕らは同時に頷いた。
「もしも私を裏切ったら、あなた達をきっと許さないから」
「一人でも裏切ったら、どうなるんだよ?」
止せばいいものを、仲上君が恐る恐る言った。
安西さんは低い笑いを漏らした。
「三人仲よく卒業式まで保健室通い、かな」
仲上君が「ひぃっ」と情けない声を漏らした。池沢君も半泣きに近い。僕はというと、持病の鼻炎が再発したせいで、鼻水が滝のように流れ始めていた。また、耳鼻科のお医者さんに行かないといけない。
学校が終わると、さっそく僕達は街中を走り回った。数十枚もの偽物のポスターを一枚残らず剥がすためである。断る訳にも逃げる訳にもいかず、足が棒になるまで証拠隠滅に奔走した揚句、その夜は筋肉痛に喘いだ。仲上君も池沢君も同様だった。
かくして――ぼくら三人は安西さんの共犯者となった。
猫が出てくる話ですが、実は犬派です。