出会い。
桜が舞い、窓から気持ちいい風が吹き抜けるすがすがしい陽気の昼休みの教室で、一人の少女の声が木霊した。
「凛いるー?」
クラスメイトのざわめき、椅子のきしみ、外で遊ぶ生徒の声。そんな様々な音を無視して、恥じらいを微塵も感じさせない彼女の声は、全くの遠慮なしにその矢先を僕にぶつけてきた。
呼ばれている張本人の僕は先程まで退屈な授業で睡魔と格闘して、睡魔に負けるかのぼやけた視界で声がする方を見ることにした。やはり隣のクラスから小栗美樹がやってきた。僕はまた机に上半身をぺたりとくっつけ目を閉じた。
美樹は小学生からの付き合いで、それから小中高とずっと一緒の学校に通っている。いつでも元気いっぱいな明るい子だった。
小さい頃は、僕は女のように女々しく見られて、美樹は元気いっぱいなやんちゃな男の子のように見られていた。今でも元気いっぱいで、その活発さが男子からはいいらしく好意を寄せている人が多いらしい。
僕は相変わらず大人しく身長も一六八cmと小さく髪型も女性のショートヘアのような感じなので女に見間違われてしまうことが多々あった。
上履きの踵を潰して歩く、パタパタという独特な歩く音で一直線にこちらに向かってくる音がする。音はどんどん大きくなり目の前でパタっと止まった。
「凛ご飯食べよー」
眠い僕にはとても耳障りな大きな声で言われた。しかし僕はその声にも耐えて寝ている体制を崩さなかった。
「新堂凛君、朝だよー!」
いつも通り元気いっぱいの目覚まし時計が可愛く思えるほどの大きな声で叫ばれた。
しかし、次の行動はいつも通りではなく、まるで幽霊を見たかのようにぞっとする気持ちを味わうことになってしまった。
少し間をおいて、顔の近くに何かが接近する気配を感じた。
「目覚めのキスをしちゃうよ」
恥ずかしげに耳元で爆弾発言をした後に優しく息をフッと吹きかけられた。慌てて立ち上がり椅子を後ろの席にガシャンと大きく音を鳴らし、立ち上がる時に美樹の頭に手加減なしの頭突きをしてしまった。僕は痛みよりも風邪でも引いたような寒気さのほうに頭がいっぱいであった。
「いきなり立ち上がらないでよー。痛いよー」
美樹は涙目でぶつけた場所を必死に手で擦っている。僕も遅れて痛みを感じ始めた。
痛みを気にしながらズボンの右ポケットから携帯電話を取り出し、文章を作成した。携帯電話を美樹の顔に近づけた。
{大丈夫?でも美樹が変なこと言うのが悪いんだからね!}
僕は声を出すことができない。
一年前、僕は高校入学を控えた春休みにお母さんに頼まれてお父さんと二人で雲一つない綺麗な夕方に近所のスーパーマーケットに徒歩で買い物に出かけた。
お母さんに渡された買い物リストのメモを見ながら数えきれないほどの食材の中からお目当ての食材をカゴに入れていった。
「いっぱい買ったねー。今日は僕の大好きなカレーライスかな」
「きっとカレーライスだね!お父さんもカレーライスは大好きだ!」
お互い夕食を楽しみに自宅に向かって歩いた。自宅までの道は家々が連なり、街頭はポツンポツンとある程度で夜になると暗くなり車が一台通れるくらいの一直線の道である。
歩きなれた道をいつも通り歩いていると、車が近づく音がするのに車が見当たらなかった。しかし音は確実にこちらに近づいてくる。するともう十メートル先に車が走ってきていた。暗くなってきた時間なのに車はライトをつけていない。そのせいで目の前まで走っていることに気が付くのが遅れた。車は速度を落とそうとはしなかった。
「凛!危ない!」
お父さんは僕を知らない人の庭に突き飛ばした。そしてすぐにガシャンっという大きな衝突音が響き渡った。
僕は突き飛ばされて地面に頭を打ち付け頭がクラクラとしていた。ぼやけた視界で状況を把握しようと周りをゆっくりと見た。徐々に視界がはっきりしてきた。すると目の前の光景に眼球が飛び出てしまうぐらい大きく目を見開いた。
目の前でお父さんが車と庭を囲うコンクリートブロックの壁に挟まれてあたり一面に血が飛び散っていた。
僕はその光景を見て間もなく気を失ってしまった。
重たい瞼を開けて目を覚ますと見慣れない真っ白な天井が見えた。天井以外のところを見てみると、周りにはお母さんが僕の手を握りながら涙を浮かべていた。
「凛!」
お母さんは僕が目を覚ましたことに気が付いた。
「よかった。本当に良かった。凛まで目を覚まさなかったらどうしょうって心配で……」
医者と思われる人も遅れてやってきた。なんでこんな状況になっているか思い出せなかった。しかし、しばらくすると鮮明に事故のことを思い出した。
「お父さんは亡くなったわ……」
お母さんは涙を滝のように流し、声を震わせながら言った。僕も同じように涙を流した。しかし、何か不自然に感じた。鼻水をすする音はする。しかし泣き声が聞こえなかった。
慌てて声を出そうとお腹に力を入れて声を出そうと口をパクパクさせたが口からはいきよいよく唾しか出なかった。
「凛?もしかして声が出ないの?」
僕はオドオドと落ち着きがなく小刻みに何回も頷いた。医者が僕に近づいてきて軽い診察を始めた。
医者は腕を組みながら首を横に傾けながら言った。
「外傷や喉を見てみましたが、今の段階ではレントゲンなどの精密な診断をしてみないと原因がわかりません。おそらく、精神的なショックが原因だと思われます。体調が回復次第詳しく診断してみましょう。」
それから二週間して退院することはできたが声が出なくなったことは詳しく調べてもわからなかった。
事故のショックから癒される間もなく高校生活が始まった。それから一年後、母や美樹のおかげで少しずつ落ち着いてきて今に到る。
「凛がまた寝ようとするのが悪い!」
まだ頭を摩りながら少し怒ったような顔をしながら言われた。次の瞬間から美樹は何もなかったかのように前の席に座って僕の机の上に弁当を広げ始めた。いつも一緒に食べるとは言っていないのだが勝手に僕の机の上で弁当を広げる。
{一緒に食べるなんて言ってないよ?}
「もー座って広げちゃったもーん。文句があるならしゃべってみやがれ!」
小さい頃から人見知りで家族以外とは口数が少なく声を失っても人と接するときは不便がなく、逆に喋らなくて済むのでよかった一面もある。しかし、こういったすぐに返答が必要な時は不便に思う時がある。
話しかけられても頭を縦か横に振ればある程度のことは伝わってしまう。それでも伝わらない場合は携帯電話で伝えたい事を、文章を作り相手に見せて伝えるようにしている。
僕はこれでも十分に生活できているつもりだが、周りからは手話を覚えたほうがいいのではないかと言われている。手話は気が向いたらしようと思っている。
仕方がなく僕もお昼ご飯を食べ始めることにした。今日はコンビニで買った焼きそばパンとコロッケパンである。
さっきまでのやり取りが嘘だったかのように静かに食べ始めた。しばらくすると、美樹が僕の顔すぐ近くに卵焼きを箸で運んできた。
「あーん」
僕は首を横に振った。こんな人前でそんな恥ずかしいことできるわけがない。
「早くしないと凛の恥ずかしい過去をここでばらまくよ!」
っはぁー
僕は大きく溜息をついて恥ずかしけど仕方なく食べることにした。
卵焼きを一口で食べた。噛めば噛むほどジョリジョリとした卵の殻の音が鳴り、焦げた苦みが口いっぱいに広がり、ドロドロとした触感が口の中で動いた。不味すぎる。
僕は口を両手ではかないように押さえて慌てて手元にあるお茶で危険物を流し込んだ。
「どうだった?私の手作り卵焼き」
これが美樹の手作りと前々から知っていれば決して口に入れはしなかった。
僕は表情一つ変えずに美樹の箸を奪い余っている卵焼きを箸で掴み同じように美樹の顔の前に運んだ。
「やだ。凛。こんな人前であーんだなんて……」
お前はさっき同じことを僕にやっただろうと突っ込みを入れたくなるところだが、今はそんなことはどうでもよかった。同じ苦しみを味わってもらうという悪魔の考えでいっぱいであった。
美樹は恥ずかしがりながらも大きく口を開けた。僕は待ちに待ったこの瞬間を逃さないようにすぐに口の中に爆弾を投下した。
美樹は一噛みでこの食べ物とは思えない物体の恐ろしさを実感した。目を見開き、口を両手で押さえ、足をバタつかせ苦しんでいた。仕方がなくお茶を渡してあげた。今にも吐きそうな口にお茶を流し込んだ。
何とか一命は取り留めたようだ。
「凛ごめん。変なもの食べさせちゃって。次はおいしい卵焼き作るから待っていてね」
美樹はガッカリした様であった。今後一切こんなものは食べたくないものだ……
「今日も相変わらず仲がよろしいことで」
僕の席の前の佐藤直哉が羨ましそうな目でこちらを見ながら話しかけてきた。直哉は高身長、筋肉質、その上イケメンである。高校に入学してから美樹と一緒に僕を支えてくれた大親友である。
「美樹ちゃん、その席譲ってー。今度は俺が凛とイチャイチャする番」
イチャイチャとか周りから誤解を生むような言い方はやめてほしい。
「凛はあげないよ!凛は私専用のおもちゃだもん!」
二人には言いたいことが山ほどあるがこの二人がそろうといろいろややこしくなるから今はやめておこう。
「じゃあイチャイチャはしないからその席だけ譲って」
いつもこの二人は僕の意思を無視して好きなように扱う。最近はこの扱いに慣れてきてしまった。
美樹は珍しく素直に立ち上がった。しかしこういった時は必ずさらによからぬことをするときである。
「じゃあ……しょうがないからこっちに座る!」
座った場所は僕の膝の上であった。柔らかいが少し重い感触が太ももに広がった。
「何よ!そんな嫌そうな顔をして!」
周りの男子からの刺さるような鋭い視線が痛い。美樹は校内でもトップクラスのモテモテらしい。僕には幼馴染である美樹をそういった目で見たことがないからわからない。
「美樹ちゃんはいつも凛と絡むときは大胆だよね。もっと周りの男子にもそうしたら、あの鈴木京子先輩にも負けないくらいモテるかもしれないよ?」
鈴木京子先輩とは一つ上の三年生で、テストでは毎回一位を取り、運動神経も抜群らしい。それだけでなく、黒髪ロングヘアの色白でスレンダーな校内一の美女生徒会長である。
いくら美樹がモテているからと言ってあの生徒会長に勝てるとは思わない。
「別にモテなくていい。好きな人いるから……」
「えー!」
周りからの男子の教室の外まで聞こえるほどの大声で響き渡った。
直哉がすかさず尋ねた。
「誰々?って、決まってるか」
最初は周りの男子は驚きを隠せないようであったが、今では溜息をつきながら落ち込んでいる人ばかりである。
{誰?}
僕にはその好きな人の思い当たる人物が思いつかなかった。
「教えない!」
なぜか美樹は少し怒ったような口調で顔をそらして教室を出て行ってしまった。
こんなことをしている間にあと少しでお昼休みが終わってしまう。五時限目は隣の美樹のクラスと三年生との合同体育である。今日はバスケットらしい。
もう少しゆっくりしていたいがそうも言っていられないので直哉と一緒に体育館に向かった。
僕はバスケには少し自信があった。女子バスケ部のエースである美樹と小さい頃から練習に付き合わされた結果、それなりにうまくなった。
体育館にはすでに3組分の生徒が集まっていた。僕たちが到着して数分も経たずに先生がやってきた。授業が始まった。今日は試合形式でやっていくらしい。まずうちのクラスと三年生のクラスが試合をすることになった。相手にはバスケ部の部長がいる。正直勝てる気がしなかったができるだけ頑張ろう。
試合が始まる。僕と直哉は最初から出ることになり、ジャンプボールは直哉がやることになった。
直哉は勉強の方はダメだが運動神経は抜群であった。それに身長が一八○センチありクラス一大きかった。しかし相手はそれ以上に大きかった。相手は、一九○センチは軽く超えているバスケ部部長であった。
さっそく試合が始まった。
笛のピーっという音と同時にボールは天井の方に高く放たれた。二人はほぼ同時にジャンプをした。ジャンプ力は同じくらいに見えた。しかし、やはりリーチの長さで劣ってしまった。
ボールは三年生が取った。そのボールはすかさず部長のもとに勢いよくパスされた。部長はしっかりキャッチすると一気に五人抜きをされて華麗にダンクシュートされてしまった。さすがと言ったところである。時間がたつにつれて点差は開く一方であった。
「凛、そろそろ本気だせー!」
別コートから美樹の叫び声が体育館いっぱいに広がった。僕はニヤリと笑った。さっそくタイムを取った。みんなと相談して戦い方を変えることにした。幸い部長以外はそこまでバスケがうまくはなかった。
作戦はこうであった。僕と直哉が攻めて、残りの三人で部長を止めるという作戦にした。試合は再開された。すぐに部長はこちらの作戦に気が付いた。しかし部長は少し勘違いをしていた。部長は僕がボールを運び直哉がシュートを決めると思っていたのであろう。部長もこちら同様、直哉に三人向かわせた。それも計算のうちであった。
僕は直哉にパスするふりをしてシュートを放った。ボールは綺麗に孤を描くようにゴールに吸い寄せられた。
パシュ
得点が入ると同時にクラスメイトから歓声が体育館いっぱいに響きわたった。
「たまたまだろ……」
部長はそう言ったがすぐその発言が撤回されることになった。僕たちは続々と点を稼いでいった。守りも同じやり方で部長を封じ、他の人にボールが渡った場合は僕と直哉で潰しに行った。攻めは部長も僕のシュートがたまたまではないことに気が付き僕に三人来たときは直哉にパスをした。二人で来た時は、僕と直哉は素人二人にやられるほどバスケは下手ではなかった。
美樹はこちらを満足げに見ていた。そしてもう一人、美樹とは違う強い視線を感じた。視線の先にはあの生徒会長であった。僕と目が合うとすぐに目を逸らされてしまった。不思議には思ったが今は試合に集中しなければいけない。
ピーっと笛の音が鳴り試合が終了した。試合には負けてしまった。敗因は体力不足であった。部活に入っていない僕と直哉では日々鍛えている部長とはかけ離れていた。負けてしまったが悔しくないというのはうそになってしまうが達成感はあった。
試合が終わり体育館のわきに倒れこみながら休憩している間に授業は終わってしまった。教室に帰ろうとしたら部長に話しかけられた。
「新堂凛君だよね?ちょっといいかい?」
僕は少し首を横に傾けた。
「フリースロー勝負しないか?もし君が勝ったら何でも言うことを聞く。俺が勝ったらバスケ部に入部してくれ!」
部長は頭を下げた。僕は困惑した。周りもざわざわとしだした。
「負けるのが怖いんだな。そうなんだな?」
わかりやすい挑発を言い出した。仕方がないから挑発にしぶしぶ乗ることにした。僕は小さく頷いた。この場面を見ていた人達は足を止めて、中にはわざわざ人を呼びに行った人もいた。そして続々と人が集まってきた。
「では始めようか。ルールは簡単。フリースローラインからシュートして外した方が負け。先攻後攻のどちらも外したら続行というルールにする。先攻は俺が頂く。では始める……」
切り詰めた空気の中、部長は難なくゴールを決めた。次は僕の番。一度大きく深呼吸してボールを放った。パシュ。入った。戦いはしばらく続いたがチャンスがやってきた。先攻の部長が外したのである。これが入れば僕の勝ちである。
「凛頑張れ!入れろ!」
色々な声援が聞こえた。また大きく深呼吸した膝をバネのように柔らかく弾ませ、軽くジャンプしてボールは放った。コースは完璧であった。しかしボールはゴールの枠をグルグルと回っている。外れてもおかしくない。
パシュ
入った。周りからは大きな歓声が響いた。部長は膝と手をついて悔しそうにしていた。しかし、すぐに立ち上がりこちらにやってきた。
「負けたよ。完敗だ。約束通り何でも言うことを聞く。今は時間が無いから後でで、いいよね?何をすればいいか決まったら言ってくれ。じゃあまたな」
一段落と言ったところか。勝ててよかったが何をしてもらおうか。じっくり考えることにしよう。
「凛よくやった!」
直哉に背中を強く叩かれた。
「私は負けてほしかったなー。負ければまた一緒にいっぱいバスケ出来たのに……」
美樹は残念そうであった。そんな時一つの声が響いた。
「早く教室に帰りなさーい!」
生徒会長であった。
「この騒ぎはあなたのせいね!」
部長が怒られている。部長は小刻みに頭を縦に振って謝っている。そして生徒会長が僕の方に近づいてくる。やはり僕も怒られるようだ。
「うちのクラスの生徒が迷惑をかけたね。申し訳ない。お詫びと言ってはなんだけど明日ランチをご馳走しよう。ラウンジで待っている」
怒られると思っていたがそうではなかったようだ。この騒ぎは僕のせいでもあるのに部長だけ怒られてしまい申し訳ない気持である。しかし、あの生徒会長とランチが取れるなんて夢のようである。明日がとても楽しみである。
それにしても周りが騒がしい。
「聞いたか?あの生徒会長が男子をランチに誘ったぞ……」
「あの男子には見向きもしない生徒会長がランチに誘うなんて珍しい」
そんな話声が聞こえてきた。僕も信じられない。
「凛、よかったじゃないか。凛にもついに春が訪れたのかな」
直哉は僕の肩に手をかけながら自分のことのように嬉しそうに言ってくれた。
「凛にはそんな春来なくていい!」
美樹は喜んでくれないようである。喜んでいるどころか逆に怒っているようである。
そんなやり取りをしながら僕達は教室に帰って行った。