第十話
十、
バスから降りると、百鬼渓谷とかかれた看板が立っていた。看板には、名前の由来などが書いてあったが、それには気をとめなかった。そして、二人は、車がようやく一台通れるかというくらいの狭い道をどんどん登って行った。道の脇には大きな岩と共に、澄みきったきれいな水が流れていた。けれども、景色は殺風景である。ここの見所はもう少し上ったところに在るのだろう。それから、二人は何人かの観光客とすれ違いながら十五分ほど歩いた。すると、視界が少し開けた場所にたどり着いた。奥には、さらに狭い道があったが、人が通ったような形跡はなかった。おそらく、ここが百鬼渓谷最大の見所といったところなのだろう。
もう、大分葉は落ちていたが、赤や黄、茶といった色が、渓谷全体の雰囲気を明るく、そして、どことなくやさしく染めていた。枝から落ちた葉は、地面に落ちるか岩の上に落ちていた、はたや沢の流れに任せて新たな旅をするものもあった。その美しい衣を冷たい水に浸しながら、いったいどこへ向かうのだろうか。一方、まだ枝を飾っているものたちは、太陽の光に照らされながら、より一層きれいに見せようと必死になっていた。君たちは、いずれ枝から落ち、朽ち果てる運命なのに、どうしてそんなに輝こうとするのか。感情もないのに、どうしてそう人の心をとらえて止まないのだ。肌を擦るような清々しさ、木々の匂い、沢の流れる音、そして色とりどりの葉、それら全てが高橋の五感を刺激し、高橋の心を、いや全身の細胞を高揚させた。
「いい所だね。」そう言って高橋は直子の方をうかがった。
「うん、なんか落ち着くね。」そう言いながら、直子は携帯で写真を撮っていた。
高橋は、携帯のカメラでこういった景色を撮るのに少し抵抗があった。しっかりとした一つのカメラなら問題はなかったが、携帯で撮られると、大事な物に傷をつけられているような気分になった。けれども、そのことを直子に言っても仕方がないと思い、結局そのままにした。
「そろそろ、お昼御飯にしようか?」
「そうだね。」
「だけど、どこに行けばいいのかな?とりあえず、戻ろうか。」
「そうね。そうしましょ。」
そう言いながら、二人は来た道を引き返した。そして、百鬼渓谷とかかれた看板のところまで下りてきた。
「戻ってきちゃったね。」そう言いながら、直子は高橋の方を見つめた。
「そういえば、ここに来る途中、そば屋があったけど、そこでもいいかな?」
「うん。体も温まるし、調度いいんじゃない。」
「じゃあ、そこに決定。」
「それで、場所は分かるの?」
「ん〜、それは適当。確か、向こうから来たから、向こうに歩いていけば、いつか着くよ。」
「ええ〜。けど、まあいいか。」と直子は微笑した。
そば屋までは、想像以上に遠かった。バスから見たせいか、実際に歩いた距離は相当だった。二人とも着いた頃にはヘトヘトで、注文をするので精一杯だった。
「僕は、山菜そばで。」
「私は月見そばをお願いします。」
「はい。分かりました。山菜と月見ね。」
注文を受けたのは、腰の曲がったお婆さんであった。顔は皺だらけであったが、ひとの良さそうな印象を受けた。高橋と直子の他に客はいない。こじんまりとした店内は、田舎の民家を思わせるようである。
「ごめん、意外と遠かったね。」
「でも、たまにはいい運動ね。」
「ははっ、確かに。」店内には、二人の笑い声が響き渡る。
お店の中央には、やかんの載った大きなストーブがごうごうと燃えていた。熱気のせいか、ストーブの周りの空気は、ゆらゆらと揺らいでいた。それを見ていた高橋はなんだか眠たくなってきた。紅葉に満足したからか、歩いた疲れからか、店の雰囲気からか、その理由は分からないが、胸いっぱいに広がる充実感があったのは事実である。そうして、いつの間にか高橋は寝入ってしまった。
「信くん、起きて。」
しばらくすると、直子の声が耳に入ってきた。そして、目を開けると、目の前に山菜そばが湯気をもくもくと立てながら、高橋の目覚めを待っていた。
「いい匂いだな〜。」そばのおかげで高橋の眠気は吹っ飛んでしまった。
「もう、いきなり寝ちゃうんだもん。」
「ははっ、なんか気持ちよくなっちゃって。」
無論、帰りのバスと電車では二人とも寝入ってしまった。幸い、電車は終点だったので良かったが、そうでもなければ、永遠に寝ていただろう。そのくらい、その日は充実していたのだ。