第七話
七、
高橋は夕方まで本を読んでいたが、どうしても集中できなかった。文字を目で追うものの、その内容は、ほとんど頭の中に入ってこなかった。カチッ、カチッ、秒針が動くたびに時計の音がやけに気になった。今頃、伊藤もこんな気持ちでいるのだろうか。しかし、そうこうしている内に、夕方のニュースが始まる時間になった。高橋は本を閉じ、テレビの画面にかじりついた。ニュースの頭を飾ったのは、北朝鮮の核問題についてであった。それに続いて、ある県の知事が犯した事件や教育現場における自殺等の事件などが報道された。どれも最近ずっと報道されている退屈なニュースばかりである。そして、二十分程し、ようやくローカルなニュースに切り替わった。いよいよである。そう思うと体が自然と前屈みになり、なんだか呼吸は深く遅くなり、心臓が糸で吊り上げられているような感覚になってきた。こんなに緊張するのは、きっと大学受験以来であろう。どことなく懐かしい感覚だが、あまりいいものではない。そんなことを思っていると、次の瞬間、高橋の全身が凍りついた。
お婆さんは死亡していた。それは、高橋が予想していた通りであった。けれども、いざ確定するとショックなものである。正に、自分は死刑だと予想していた犯罪者が、実際に裁判で死刑を言い渡された時の面持ちみたいなものである。ニュースによると、お婆さんを発見したのは、伊藤がひいた後に車で通りかかった人らしかった。そして、その人がお婆さんのところへ駆け寄った時には、もう死んでいたという。即死だった。お婆さんの身元は、詳しく報道されなかったが、あの山の中で一人暮らしをしており、年齢は八十六歳だという。山奥のため近所付き合いもほとんどなかっただろう。八十歳を過ぎて、山奥でよくひとり暮らしをしていたものだ。寒い夜などはどんなに心細かっただろう。そうしたなかで、このような最期をむかえてしまった。けれども、不幸中の幸いとでも言うべきなのは、即死であったということだ。そうは言っても、美しい死に際ではなかったことは確かだ。哀れである。いつも、そう反射的に思うだけだが、今回ばかりは、心の底からそう思った。そして、それを体で表現するために、高橋は手を合わせて黙祷を捧げた・・・。
警察の調べでは、路上に血痕があったのと、車の破片があったのとでひき逃げであるとしている。こうなってくるといよいよまずくなる。おそらく、伊藤もこのニュースを見ているはずだ。伊藤の今の心境はどんなだろうか。そこで、高橋は伊藤に電話をしてみた。
「おう。」伊藤が電話にでるのは早かった。
「おう、お前今ニュース見てたか?」
「うん、見た。でも俺、これからどうしていいんだか分からないよ。もうこの先真っ暗って感じだ。」伊藤の口調は案外冷静だった。もう、心の準備ができていたのだろうか。
「そうだな〜、とりあえず、警察に自首した方がいいと思うよ。今なら飲酒運転もばれないし、警察の捜査でひき逃げが判明したら罪が重くなるよ。俺も付き添うから、一緒に警察に行こう。自首すれば、罪は重くならないよ。」
「・・・」
「なあ、そうしよう。」
「・・・」
「伊藤!」
「それはできない!正直怖いんだ・・・」
「でも、このままだとお前のなかで整理もつかないぞ!」
「そんなことは分かってる。頭では分かってるんだよ!それに、お前は人事だからいいよな!」やはり、伊藤はこの事件のことで過敏になっていた。今まで伊藤が強く当たるようなことはなかった。もうこうなってしまっては、冷静な話はできない。そう判断した高橋は「すまない、もう少し様子を見よう。」とだけ言うと電話を切った。今の伊藤を癒せるのは時間だけである。とにかく、彼と時間にまかせるしかない。あいつももう大人であり、冷静になってじっくり考えれば、事の善悪や自分の進むべき道が見えてくるだろう。それまで、自分は温かく見守るのだ。
それにしても、高橋には伊藤の「お前は人事だから・・・」という言葉が、妙に気にかかった。実際、そう言われても言い返す言葉が見つからなかった。伊藤は本当にそう思っているのか、それとも自分にストレスをぶつけてきているだけで、そうは思っていないのか。それは、今の伊藤にも分からないであろう。
付けっぱなしにしていたテレビのニュースでは、天気予報をしていた。どうやら、明日は雨のようである。明日からまた一週間が始まるというのに、いやな事は立て続けに起こるものだ。ここまで、いいことがないとため息よりも笑いが出てくる。そうして、高橋は鼻で不気味に笑った。