第五話
五、
「そろそろだよ。」と伊藤が落ち着いて言った。
目的の場所は意外と近かった。それから少し先に行ったが、伊藤は黙ったままであった。
「そろそろじゃないのか。」
伊藤からは何も返答がなかった。
「おい、伊藤。」と言って伊藤を見ると、伊藤は放心状態になり、顔にはじっとりと汗をかいていた。
高橋は道路わきに車をよせ、サイドブレーキを引くと伊藤の肩をゆすった。
「おい、どうしたんだ!大丈夫か。」
「いや、大丈夫じゃない・・・」
「もうそろそろ着いてもいい頃じゃないのか?」
「・・・、実はもう過ぎた。」
「はっ?」高橋は驚いたというよりは、一瞬伊藤が何を言っているのか理解できなかった。
「過ぎたって言っても、お婆さんの姿はなかったぞ。」
「いや、確かに通り過ぎた。ここから少し前の急カーブ。曲がったガードレールと古くなってチカチカしている外灯があっただろ?あそこだよ。」
気をつけてゆっくりと運転してきたはずだ。それでも確かにお婆さんの姿どころか、ねずみ一匹いなかった。とにかく二人は例の場所へと引き返すことにした。来た道を戻ると、チカチカと点滅する外灯が見えてきた。
「ここでいいのか?」
「そう。」
確かにそこには何もなかった。ただ、路上に相当出血したとみられる血痕だけが残っていた。
「いったいどうなってるんだ。」高橋にはイライラが募ってきた。
車にひかれた後、奇跡的にたいした外傷もなく一人で家に帰ったのだろうか。いや、そうだとするとこの血痕は誰のものだろう?もしかすると、苦しみながら助けを求めてどこかを這いずり回ったのか。いや、ここを通った他の車がお婆さんを乗せて病院へ行ったのではないか。きっとそうだ。今はそう考えるのが一番妥当であり、そうであって欲しかった。実のところ、ここに来てお婆さんの死体があっても、高橋にはどうしていいか分からなかった。そして、高橋は、「多分、ここを通った車がお婆さんを乗せていったんだよ。」と伊藤に言った。
「そうか、そうだよな。」
「後日きっと新聞やテレビで報道されるよ。それで確かめよう。」
「それもそうだな・・・」
「あとはお婆さんの命が助かるのを祈るだけさ。これを機に飲酒運転は辞めろよ。」
「へへっ・・・」伊藤はぎこちなく微笑した。
実際、高橋にはまだ不安があった。お婆さんの安否と高橋のこれからである。これがきっかけで飲酒運転はしなくなるだろうが、もし、お婆さんが死んでいるとしたら・・・伊藤はその責任を受け止められるだろうか。法の手からは逃れられても、自分が人を殺してしまったという事実からは逃れられない、一生・・・。
その夜、伊藤がひとりになりたくないと言うので、高橋は伊藤を部屋に泊めてやった。布団に入った頃には、時計の針はもう午前二時をまわっていた。心配事は耐えなかったが、事件が一段落したのと精神的な疲れとで、二人ともその日はすぐに寝入ってしまった。